ワイヤレスネットワークを通じてチャッピィと視覚共有状態にある信吾は、ふぅ、とため息をついた。信吾を悩ませているのは、工場内部、ひときわ高い足場、通称”お立ち台”に陣取ったヴァッフェバニーのミニガンだ。雨のように鉛弾を吐き出すミニガンの制圧火力は尋常ではない。
<<わかってるのだ>>
マオチャオ型のチャッピィは、先ほど肉薄して来たサイフォスを迎撃しようと飛び出して、ミニガンの掃射を受けてからようやく下手に動くのは危険だと学習し、金属製のコンテナの裏に隠れている。
他の神姫も似たような具合で、ときどき遮蔽物から顔を出して様子を窺ったり、散発的な銃撃を行っていたが、すぐに大量の小口径弾が飛んでくるため、牽制以下の効果しかもたらしていない。
<<だよなぁ。タンク女でもいれば囮にできるんだが>>
あまりいい状況ではない、が、一郎の声から焦りの様子を感じることはできない。一郎はそういう奴だ。
<<はい、感度良好です>>
バトル経験の少ない真由美の声は、どこか緊張しているように聞こえた。
<<生きてるわよ>>
今度は真由美ではなく、彼女の神姫、シュメッターリング型のメーリンが苛立たしげに答えた。メーリンは、一郎相手にはいつもこんな調子だった。
<<分かった。聞かせてくれ>>
信吾は一郎の声に耳を傾けた。
<<大丈夫、いける。相手の防御の要はあのミニガンだけだ。それさえ始末すれば後はトントン拍子さ。ミニガンはうるさいけど、他の連中はそうでもないだろ?>>
言われてみればその通りだ、と信吾はチャッピィの視覚を見ながら思った。普通なら、ミニガンの雨を盾に、積極的にこちらの排除に乗り出してもよさそうなものだが、防御に徹している。それは、相手の数が、こちらを下回っていること……こちらは全部で6体、相手は4体、そして試合前半で、相手が5本中4本の旗を確保し、それがまだ続いているということも理由として考えられた。
信吾はARデバイスの片隅に表示された、残り時間を示すタイマーに目をやった。残り、10分ほど。
CTF―――Capture The Flagは、もっともポピュラーでスタンダードなルールだ。一言でいえば旗取りゲームで、最終的に、フィールド内に配置された5本の旗全てを集めて、一定時間それを守りきれば勝利となる。制限時間内に5本全ての旗を集め切れなかった場合、試合終了時に保持していた旗の本数、旗を確保しておいた時間などから得点が算出されて、それによって勝敗が決定する。
その得点なのだが、信吾達が所属するレッドチームは、試合開始直後、本来なら真っ先に旗の確保に走るはずのウィングやトライクを装備した神姫たちが、ほぼ考えなしに敵陣に向かっていってしまった為、たった一本の旗しか確保できず、試合運びも、相手の攻撃を退けることにはなんとか成功していたものの、チームワークの欠落から、攻撃には失敗し、敵のブルーチームに大きく水を開けられていた。もはや勝つためには全ての旗を奪うしかない状況だった。
他の参加者もようやくそれに気づいて、今回は必要な最低人数だけを旗の防御に残し、起死回生の攻撃をしかけているわけなのだが、例のお立ち台の上に陣取ったバッフェバニーに足止めされ、攻撃部隊の神姫の内何体かは既に撃破されているという体たらくだった。
<<オーケー。お前のプランに乗ろう。ところで>>と信吾。<<俺たち以外は、どうする>>
工場内には、信吾達以外の、味方の神姫もいる。ウェルクストラ型、紅緒型、それぞれ一体ずつ。
<<了解>>
信吾は返答する。一郎は瑚南見学園ナンバーワンの馬鹿(瑚南見学園新聞部調べ)だが、ゲームだけは上手い。こういうとき―――訂正、こういうとき”だけ”は頼りになる。いや、さらに訂正。こういうときだけ”しか”頼りにならない。
ARデバイスに映るチャッピィの視覚情報に、信吾は視線を走らせた。獲物を求めて、チャッピィはきょろきょろと首をせわしなく動かしている。
工場内部は薄暗かったが、さすが猫といったところか、マオチャオ型には製造段階で低光量視覚が組み込まれている。イメージインテンシファイア……いわゆるスターライトスコープとは原理は違うものの、効果はほとんど同じで、ほんのわずかな光でも、真昼の太陽の下のように明るく見える。そのおかげで、他の神姫よりも苦労せずに地形を把握し、敵を探知することができた。
床を走るベルトコンベア、鉄柱、コンテナ、その周りを、隠れている神姫を探すために注意深く観察していると、動く人影を見つけた。
<<うにゃ?>>
チャッピィはぴたりと首を止めた。焦点が、信吾の指示した柱に合ってゆき、やがてはっきりとした像を結ぶ。すると、相手の神姫の所属チーム、型、名前、オーナー名までもがオーバーレイ表示された。
<<はいはい、やればいいんでしょ、やれば>>
ヴィネはやる気なさそうに答えているが、いつものことだ。こういう態度をとってはいても、信吾はヴィネの強さには一目置いている。ときどき仲間内でやる練習試合では、接近戦に持ち込めばチャッピィが勝つが、総合的にはヴィネの方が上手だった。大体、近づく前にグレネードとマグナムでボロボロにされる。
<<いんないわよ!>>
メーリン、即座に反発。
<<んー、真由美がそういうなら、しょうがないわね、聞いてあげる>>
一郎には反発的なメーリンも、マスターである真由美には弱かった。真由美もメーリンも、バトルの経験はほとんどなかった。比べて、一郎のバトル経験は4人の中ではもっとも長い。一郎がフォローするというのは、真っ当な選択肢だと信吾は思った。
<<オーケー。じゃあ、僕の合図に合わせろよ>>
信吾はARデバイスに表示された獲物、イーダ型を注視する。他の神姫を、鉄柱に隠れながら手にしたアサルトカービンで牽制している。こちらに気を配っているようには見えない。接近戦で猛威を振るうパワーアームを装備してはいるが、障害物の多いインドア戦ではチャッピィの身軽さにはついてこれまい。そう判断した。
<<On my mark!>>叫ぶような一郎の声。<<Get set! Standby……Standby……>>
奇襲だ。信吾の瞳はイーダから離れない。奇襲は、最初の数瞬、相手が状況を把握しきるまでの、ほんのわずかな、しかし戦闘においては黄金のように貴重な時間に、どれだけの打撃を与えることができるかにかかっている。最初の一撃で決めるのがベストだ。大丈夫だ、いける、やれる……。
戦闘の予感に、信吾は唇を結び、つばを飲み込んだ。実際に戦うのは自分ではなくチャッピィだが、ARデバイスを通して見える戦場の景色が、緊張感を加速させた。闘争本能だ。暴力を行使せんとするとき、人は、否が応でも滾る。
不意に、チャッピィの視点が下がった。床にぎりぎりまで近づく。獲物を狙う猫科動物のように頭をさげ、姿勢を低くして突撃の準備をしているのだと分かった。視野の右下方、チャッピィの武器、鋭い爪が見える。
ぴくりと、チャッピィが動いた。同時に、ミニガンの射撃がやむ。お立ち台のヴァッフェバニーがリロードに入った証拠だ。もちろん、一郎はその隙を見逃しはしなかった。
「えっと、IR-Smoke out!......だっけ?」
頼りなさげに言いながら、メーリンはピンを抜き、IRスモークを投げた。投擲されたグレネードは放物線を描いて床に落ち、2度跳ねてから破裂、大量の煙を吐き出し始めた。チャッピィは機を逃さずに全身のバネを使って跳躍、獲物―――イーダに躍りかかる。
しかし、イーダは愚かではなかった。つい先ほどまで銃撃を行っていた彼女は、弾倉内の弾薬が残りわずかであることを知ると、身体を遮蔽物に引っ込めて、周囲を見回しながら弾倉を交換しようとする。
チャッピィが飛び掛ったのは、まさにそのタイミングだった。
「うにゃっ」
イーダと目が合う。チャッピィは奇襲の失敗を悟った。イーダはアサルトカービンを投げ捨て、刀を抜こうとしている。しかし飛び掛った手前、踵を返して引っ込むわけにもいかないし、それができたとしても、相手が許してはくれないだろう。
まーいいのだ、このままゴーなのだ。チャッピィは前向きに考えつつ、爪を横殴りに繰り出した。金属音と、右腕に痺れるような衝撃が伝わる。辛うじて反応したイーダは、チャッピィの攻撃を刀で受け止めた。二体の神姫は、そのまま鍔迫り合いのようにその場に固まる。
「まぁ……イタズラな子猫ちゃん……ッ!」
ぎりぎりと、爪と刀が擦れあう。爪と刃が、二体の神姫を繋いでいた。チャッピィとイーダの腕力は、ほぼ拮抗している。歯を食いしばって、爪をじりじりとイーダの眼前に突きつける、が、まだまだ、とイーダは気合と共に押し返し、今度はチャッピィの目の前に刃が迫る。チャッピィは顔を真っ赤にしてイーダの刀をさらに押し返す。
「私も、負けませんわ、よっ!」
まずい。信吾はイーダの背面、パワーアームがその鎌首をもたげるのに気づいた。チャッピィの装甲はそれなりだが、パワーアームの一撃をまともに受けてはたまらない。
<<言われなくてもそのつもりだ>>と信吾。<<チャッピィ、後ろに下がれ、ジャンプだ!>>
パワーアームが突き出される。鋭い指先が触れる直前、ほんのわずかに、パワーアームの操作のためか、イーダの力が緩む。瞬間、チャッピィは後ろに飛びのき、煙の中に姿を消す。床にパワーアームが突き刺さった。
「逃がしませんわ!」
すぐにパワーアームを引き抜き、イーダは刀を構え直した。その背中から伸びる二本のパワーアームが、威嚇するように横一杯に広げられた。
「それはこっちの台詞ですよー、っと」
チャッピィの離脱を煙の切れ目から確認したヴィネはやる気なさげに言うと、二体からそう遠くないところにあるコンテナの裏から身を覗かせ、グレネードランチャーを構えた。肩付け、三点保持の姿勢でランチャーの引き金を引く。ポン、とこれまたどこかやる気のない音を立ててグレネードが飛翔する。
飛翔音を聞いたイーダは、身体を緊張させた。自分を狙っているのだと。
「無粋な真似をっ」
グレネードが足元に着弾する一瞬前、イーダは、直撃はともかくとして飛散する破片の全てをかわすことは不可能と判断し、パワーアームの攻撃態勢を解いた。代わりに、身体を覆うようにクロスさせる。結果として、無傷とはいかないまでも、イーダは破片のほとんどを防ぐことが出来た。グレネードの破片は、遮蔽さえあれば意外なほど簡単に防御できる。
「あー、案外タフなんですね」
破片を受けきったイーダを見ながら、ヴィネは他人事のようにつぶやいた。
「おぉ、怖い怖い。やり返されるのが嫌なのでもっと撃ってしまいましょう、そうしましょう」
連続してトリガーを引く。緩い放物線を描いて、グレネードが次々と着弾しては飴色の花を咲かせた。パワーアームのガードをすり抜けて、幾つかの破片がイーダの身体をかすめていく。このままではジリ貧だ。防御姿勢のまま、イーダは離脱、コンテナの裏へ身を隠す。
「え?」
煙に身を隠したチャッピィを、イーダは捉えられない。
「いくのだっ」
チャッピィは再び、跳んだ。イーダの位置は、ヴィネの放ったグレネード、その爆発で大まかではあるが捉えている。どの方向を向いているのかも、分かる。きっと攻撃を仕掛けたヴィネに注目しているに違いない。跳び上がったチャッピィは、進路上にある鉄柱を蹴った。三角飛びの要領で、イーダの背後を取るように軌道変更。煙の向うに、イーダの背中が見えた。狩猟者にとって、最高の瞬間だった。
「くらうのだっ!」
爪を突き出す。確かな手ごたえを感じる。チャッピィはイーダの、無防備な背中に爪をつきたてた。イーダは短い悲鳴を上げて、床に倒れ伏した。立ち上がる様子はない。
倒れたイーダを、どこからともなく現れたプチマスィーンズの一団が連れ去るのを見届けると、チャッピィは喜色満面に飛びあがった。
「あー、チャッピィさん」と相変わらずコンテナに半身を隠したまま、ヴィネ。「自画自賛はいいんですけどね、まだ戦いは終わってないんですよ」
ヴィネの言葉の後半は、激しい銃声にかき消されてチャッピィには聞こえなかった。例のヴァッフェバニーのミニガンだ。
驚きの声をあげて、チャッピィは手近な鉄柱の陰に身を滑らせる。降り注いだ銃弾が床に突き刺さるが、精度も、銃弾の量も、スモーク投下前とは比べ物にならないほど雑で、少ない。
「畜生!」
お立ち台の上、煙に覆われた工場内を、右に、左に首を振って敵を探しながら、ヴァッフェバニーはミニガンの回転を止め、悪態をついた。
「もうやってる!」
苛立ちを隠せずに、ヴァッフェバニーは叫んだ。
ヴァッフェバニーの頭部、兎の耳のようなパーツにはサーマルサイトが仕込まれているが、いまの状況ではさほど役に立っていなかった。というのも、工場内を満たしているのはただの煙ではなく、熱を持った煙、熱煙幕だったから。サーマルサイトは物体が発する赤外線を視覚化し、濃密な煙幕をも見通すことができるが、煙幕自体が熱を持っていれば、結局は通常の煙幕に隠れているのとあまり変わらない。
<<駄目だ。それは禁止する>>とヴァッフェバニーのマスター。<<味方に当たる>>
CTFはチーム戦だ。一緒に戦う仲間とのチームワークと、役割分担が勝敗に関わる。だからこそ、フレンドリーファイア、仲間を撃つこと、は最大の禁忌とされている。悪質な場合は一週間、あるいはそれ以上の期間、ゲームに参加できなくなる可能性すらある。
もちろん、ヴァッフェバニーもそのマスターも、仲間を撃ちたくて撃とうとしているわけではなく、”悪質な”フレンドリーファイアとは言えないだろう。ジャッジも、おそらくはそう判断する。しかし問題は、撃たれた側がどう思うか、だった。誰が、必要に迫られてとはいえ、味方ごと撃つ奴を信用するだろうか。
ヴァッフェバニーのマスターはジャッジよりも、撃ってしまった仲間からの報復をこそ恐れていた。仲間を撃った最低なプレイヤーというレッテルを貼られ、最悪、ネットワーク上に、あることやないことを書かれるかもしれない。ワイヤレスネットワークさえあれば、そうした行為はすぐにでも可能だし、ワイヤレスネットワーク下では24時間、いつでもどこでも、大抵の人間はオンラインだから、瞬く間に広がる。これ以上ないくらいの社会的制裁だ。
<<煙は、いずれ晴れる。そのときまで待つんだ。いま、攻撃に向かっている他のプレイヤーにも援軍を要請しているから、到着まで持ちこたえろ>>
ポイントはリードしている。守りに徹すれば勝ちはゆるがない。ヴァッフェバニーのマスターはそう考えている。ああ、どこの誰だ、攻撃は最大の防御といって、チームの大半を攻撃に振り向けることを主張した奴は。俺のいう通り、全員で守っていればこんなことにはならなかっただろうに。
<<お立ち台の死守だ>>と返すマスター。<<地形的に、お立ち台は防御の要だ。だからこそ、相手は必ずここを制圧しようとするだろう。キャットウォークを上ってくる奴を撃つんだ。そこなら、スモークの効果も薄い>>
ヴァッフェバニーは工場を見渡した。なるほど、キャットウォーク周辺の煙はそれほどでもない。充分狙える範囲だ。
「いえ、それは私に任せておいて下さい」
背後から声がした。振り向く間もなく、何か硬いものが後頭部に押し付けられる。衝撃。ヴァッフェバニーは意識を失い、壊れた人形のように吹き飛んでお立ち台から落下した。
「お立ち台制圧完了っと」
ブラッグは、サンパーの異名をとる大型のスタブキャノンを下ろしながら言った。その声は軽い。
我ながらスマートにいったものだ、とブラッグは内心、胸がすくような気持ちだった。重要地点に気づかれることなく接近し、必中の距離まで詰めよってから一撃で決めた。バトルはこうでなくては。
今回は、いつも以上にいい気分だった。その理由は、メーリンにあった。メーリンに銃の撃ち方を教えたのはブラッグだったから、先輩としての意地を見せなければいけない、とバトルが始まる前から、ずっと思っていた。
結果は良好だった。後輩の手本になれたはずだ。メーリンは見ていてくれただろうか。
ブラッグは、メーリンがバトルをやりたいと言った時のことを思い出した。一体どういう風の吹き回しだろうと思ったのだが、メーリンの姿勢も言葉も、本気にしか思えなかった。シュメッターリングといえば、バトルにもっとも不向きな神姫とされているのに、それでも彼女は戦うことを選んだのだ。きっとそこには並々ならぬ決意があったに違いない。マスターである一郎から言われるまでもなく、ブラッグは銃の使い方を教えるつもりだった。メーリンは仲間だし、彼女のマスターである真由美も、嫌いではない。大人しくて、優しい。彼女がマスターだったら、と思うこともあったくらいだ。断る理由はないし、なによりもメーリンの意志を尊重したいと思った。不利な場所に、自ら赴こうというのだから、手を貸してやらなくては。同じ神姫として。
銃について、戦い方について学ぶメーリンは真剣そのものだった。そんなメーリンを見て、ブラッグは妹が出来たようだ、と少し嬉しく思ったりもした。それと同時に、メーリンにもっと上手く教えられるように、自分自身も強くなろうと決心したのだ。
「さっすがブラッグさん」とメーリン。
ブラッグは唇の両端を持ち上げて、微笑んだ。が、次の瞬間、笑みが凍りつく。スモークが薄まり、徐々にメーリンを視認できるようになると、その背後に青い人影を見つけたからだった。
サイフォスだ。ブラッグは警告を発する。
「うおおおおおぉぉぉっ!」
雄叫びを上げながら、サイフォスが突進する。メーリンはブラッグの声に反応し、短く叫んで飛びのこうとするが、突然の襲撃に足がすくんでバランスを崩して倒れこんでしまう。だが、そのおかげでサイフォスの剣がメーリンに触れることは叶わなかった。
「おのれ!」
相手を仕留められなかったことを苦々しく思い、サイフォスは眉をひそめた。
「まさかここまでしてやられるとは」
防御部隊の半数が撃破され、お立ち台まで制圧された。負け始めているのは違いなかった。それでも、敵をただで帰すことは、騎士の、サイフォスの誇りが許さなかった。
「せめて、お前だけでも!」
サイフォスは剣を構えた。メーリンは冷たい刃を、呻きともつかない声を漏らしながら見上げている。駄目、駄目。歯が鳴る。足は震えて、動きそうもなかった。サイフォスの剣はメーリンの身体には傷一つつけなかったが、それ以外の何かを切り裂いていたのだった。
あんなに練習したのに。やっぱり、バトルなんて私には無理だったんだ。剣の輝きがメーリンの瞳を射抜く。勝てるわけないよ、シュメッターリングが、バトル再弱神姫が、サイフォスみたいな強そうな神姫に。
思考が恐怖に塗りつぶされてゆく。まるで死を意識した草食動物のように、メーリンは一切の抵抗を放棄している。ただ倒される運命を待つだけの、哀れな存在。サイフォスの目には、そのように映っているし、事実、それはその通りだった。メーリンが真由美の声を聞くまでは。
<<メーちゃん!>>泣きそうな声で、真由美は叫んだ。<<負けないで!>>
他でもない、メーリンにとってもっとも大事な人間、真由美の懇願の声だ。ほんの少しだけ、勇気が湧いた。
春風が雪を割るように、思考から恐怖が消えていくのを感じると、メーリンは教えられた戦い方を頭の中で反芻し始めた。その中には、一郎の言葉も交じっている。銃が撃てるのなら、まだ終わりではない、と。大嫌いな一郎の言葉というのは少し癪ではあったが、いまはそんなことは言っていられなかった。無意識的に、メーリンの手は銃を探している。あった。サブマシンガン。使い方は覚えている。ブラッグが教えてくれた。安全装置を外して、敵に向かって引き金を引く。これだけ。シンプルだ。忘れるはずもない。
メーリンはサブマシンガンにワイヤレス接続し、銃の状態を確認した。発達したコンピュータ技術が、神姫サイズの銃にもコンピュータを搭載することを可能にしていた。安全装置は既に解除されていた。弾も装填されているし、初弾も薬室に入っている。引き金を引けば、撃てる。すっと短く息を吸い、歯を強く食いしばると、メーリンはサブマシンガンの銃口をサイフォスに突き出した。サイフォスが目を見開く。
「このぉっ!」
軽快な銃声が連続して響いた。フルオート射撃。弾倉が空になるまでわずか数秒だった。姿勢は安定していなかったし、非力で経験も乏しいメーリンだったから、反動を抑えきれずに銃口は激しく暴れ回った。それでも、少なくない銃弾がサイフォスに命中した。至近距離での射撃だった。
銃撃が止んでも、サイフォスは悠然と立っていた。鎧の隙間を最小限に保ち、盾を構えて。サイフォスの装甲は堅牢の一言に尽きる。拳銃弾程度では、よほど当たり所がよくない限り、有効打を与えることは出来ない。
「そんな豆鉄砲では私は倒せない」
サイフォスは盾を下ろし、威嚇するように怜悧な瞳をメーリンに向ける。
メーリンは、今度はパニックを起こさなかった。真由美が見ているんだもの、頑張らないと。サブマシンガンの弾倉は既に空っぽだ。取り替えている間にやられるに決まってる。他に武器は?各種のグレネードはあるが、近すぎる。スティッキーグレネードなら近接戦闘でも使えるが、いまは持っていない。
なら、これしかないじゃない。メーリンは折りたたみ式のナイフを取り出して、開いた。日ごろの練習の甲斐あって、片手で、スムーズに刃を展開することが出来た。一郎から、ナイフはおまけだ、自分から斬りかかろうとするな、とは言われていたが、他に有効な手立てはない。立ち上がってナイフを構える。サーベルグリップ。
「ほう」とサイフォスが目を丸くした。「私と斬り合おうと言うのか、シュメッターリングが?面白い、やってみるがいい」
構えを解き、挑発するようにくいくいと手を動かすサイフォスの顔には、余裕の笑みが浮かんでいる。
メーリンは息を吐き出し、大きく一歩、踏み込む。ナイフが閃いた。
突き出されたナイフを、サイフォスは身をひねってかわし、盾でメーリンを強かに打った。サイフォスの膂力は、メーリンの細い身体を吹き飛ばすには十分過ぎた。
床に転がり、それでもなお、歯を食いしばって立ち上がろうとするメーリンに、サイフォスが歩みよる。手に剣を携えて。
お立ち台の上では、ブラッグがメーリンを助けようと、サンパーを構えようとしていた。背中のバックパックを切り離して、荒々しく地面に設置する。サンパーの長い砲身をバックパックの上に置く。依託射撃だ。距離はそう遠くない。サンパーの侵徹能力なら、サイフォスといえどただではすまない。当てる自信はあるが、いざ照準を合わせる段になって、ブラッグは歯噛みした。柱が邪魔だ。敵のサイフォスを隠すように、鉄柱が立ち塞がっている。射線を確保できない。陣地変更の余裕もない。
畜生。いつもならば絶対に使わない、汚い言葉がブラッグの口を突いて出る。仲間なのに、助けられないなんて。
「遊びは終わりだ」と剣を振り上げながら、サイフォス。
サイフォスは撃破を確信していたが、メーリンの目は負ける者のそれではなかった。心までは折られていない。
それがどうした。サイフォスは剣を握る手に力を込めた。これで終わりだ。
刃が空気を切り裂いた。刃が鳴る。
そのとき、ブラッグはしっかりと見ていた。一体の紅緒型が、サイフォスとメーリンの間に割って入るのを。
紅緒はサイフォスの一撃を刀の鎬で受けた、というよりは、受け流し、逸らしていた。文字通りに、鎬を削ったわけだった。
「ほざけっ!」
斬り返しで、サイフォスは紅緒の胴を薙ごうとするが、紅緒はするりと下がってそれをかわす。こいつ、なかなかできる。サイフォスは、さらに追い討ちをかけることはしなかった。盾を身体に引きつけ、紅緒の反撃を警戒するが、予測したそれは来なかった。見れば、紅緒は刀が届く距離から一度離脱し、刀の切っ先を、サイフォスを指すように向けている。晴れやかな表情だった。
「やあやあ!」美声だった。「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ!某は高野棗が武装神姫、巴と申す。いざ尋常に、勝負せん」
名乗りを上げただと?馬鹿にしているのか。サイフォスがそう訝っていると、紅緒は不敵な笑みを作ってみせた。
「……ふん」サイフォスは唇を引きつらせた。「できるものならな」
じりじりとすり足で近づき、一足一刀の距離を保って、サイフォスと紅緒は対峙した。先に仕掛けたのはサイフォスだった。左手に盾を構えたまま、打ち込む。紅緒は左に回りこんで回避する。
近接戦闘において、盾は非常に厄介な存在だった。防御だけではなく、鈍器として使えば武器にもなるし、相手に押し付けて行動の自由を奪うこともできる。当然のことながら、防具としても優秀だ。身体に引きつけて構えれば、相手の攻撃可能部位を著しく狭めることができる。だから、紅緒は盾のない左、つまり相手の右側に回りこまざるを得なかった。盾と鎧ごと、サイフォスを切り裂くのは流石に無理だ。しかしそれは、サイフォスからすれば、剣で狙いやすい右側に相手から飛び込んでくることであって、もちろんそうした危険性を紅緒は認識している。リスクなしに勝利は得られない、と。
回避から転じて、紅緒は逆襲に移る。装甲の最も薄い腹部を狙って横一文字に刀を振りぬく、が、サイフォスは身体をかがめてかわし、お返しだと言うように足払いを掛ける。紅緒は小さく跳躍、そこから全身の力を込めて刀をサイフォスの眉間めがけて振り下ろす。刃を阻んだのはサイフォスの盾だった。金属が激しくぶつかり合って、火花を散らした。ふん、と息を吐いて、サイフォスは紅緒を盾で振り払う。紅緒は反動を利用し、いったん距離をとるために、空中で蜻蛉を切って着地した。
体勢を整えるサイフォスに、紅緒は間髪入れずに追撃をかけた。左肩に刀を担ぎ、大きく踏み込んで逆袈裟に一閃。サイフォスは剣で受け止める。
「甘いわっ!」
サイフォスの腕力は、紅緒よりも優れていた。受け止めた剣で、紅緒の刀を力任せに弾く。刀が紅緒の手から離れて、回転しながら宙を舞った。
もらったぞ。相手の攻撃手段を奪ったサイフォスは、わずかに腰を落とし、身体をひねる。自分の渾身の一撃は容易に紅緒を両断すると、サイフォスは確信している。同じ騎士型と相見え、その装甲を硝子のように撃ち砕いた私の一撃に、紅緒が耐えられるはずがない。
鋭い風切り音。刃が装甲の隙間を駆け抜ける。直後に、サイフォスは動きを止め、ゆっくりと崩れ落ちた。呻き声を残して。
「大は小を兼ねると言うが」と紅緒。「山椒は小粒でもぴりりと辛い、とも言うでござるな」
紅緒の手には、脇差が握られていた。刀を失った瞬間、紅緒の手が腰の脇差に伸びていたのを、サイフォスは気づけなかった。重い剣による斬撃よりも、軽く、しかし急所を狙い澄ました一撃の方が速かった。
目の前で繰り広げられる攻防に、思わず見入っていたメーリンは、近づく紅緒の顔を、呆けたように眺めることしかできなかった。
紅緒は手を差し出した。
「先程は弱いものいじめ、などと言ってすまなかったでござるな。言葉のあやにござる」紅緒は白い歯を見せた。「ないすがっつ、でござった」
「良かった……」
ブラッグは胸をなでおろした。あの紅緒には感謝しなければならない。大事な仲間を救ってくれた。
「うわっ!」
一郎の大声が、ブラッグを襲った。意識が遠のきかけた。通信装置には自動音量調節機能がついているはずなのだが。なんであんなチビなのに声だけは大きいのか、とブラッグはいつも思っている。
<<でももへったくれもあるか。気を抜くんじゃない。メーリン、お前もだ。敵はまだ一体残ってる。上だ、上にいる、探せ>>
その声を聞いたメーリンは、慌てて遮蔽物に走り、その陰に滑り込んだ。戦場では、カバー命。バトルの鉄則を忘れてはいなかった。紅緒もまた、自分のマスターから同様の連絡を受けたのか、先程の戦闘で床に転がった刀を回収すると、身を隠して周囲を窺った。
<<探している……いた!>>と信吾。<<南側の隅、積みあがった鉄パイプの裏だ>>
果たして、そこにいたのはランサメントだった。既に攻撃態勢に入っていた。何か、大きな、ロケットランチャーのようなものを構えているのを、信吾は確認する。
「うん、見えそう……見えた」
遮蔽物の陰から身体を傾けて、メーリンはランサメントを視界に捉える。ランチャーを構えてはいる、が、その表情には緊張感がまったくなかった。
<<こっちでも確認し―――ウホッ>>
ランサメント、というよりは、彼女の構えている武器を見た瞬間、一郎の声が裏返った。ところであの武器を見てくれ、あれをどう思う?すごく……大きいです。大きいのはいいんだ。いや、よくねぇよ、っていうかあれ、RPFじゃねーか。撃っちゃうの?どう見ても撃つ気満々だよ、おい。
どれにしようかしらん?ランサメントはランチャーの照準を覗きこみながら、あれでもない、これでもないという風にその砲口を彷徨わせていた。かといって、深刻に悩んでいるわけでもなかった。夕食のおかずを、どれから食べようかと箸を迷わせているのに似ていた。
できるだけ目標の近くに撃ち込めばいい、とランサメントのマスターは言った。狙いは甘くても何とかなる、と。そう言うマスターに、ランサメントは「あたし一体だけになっちゃったけど、無駄な抵抗じゃないのー?」と聞いたのだが、それに対しても「なんとかなる」と曖昧な返答しか返ってこなかった。
まぁ、マスターが何とかなる、って言うんだから、何とかなるんじゃないかなぁ?ランサメントは、きっとこのランチャーは、すごく強い、一発撃てば敵をみんな吹き飛ばせる、そういう武器に違いないと思うことにした。本当にそうなのかは知らない。そも、この武器がなんなのかも、よくわからない。構えた感じ、ひどく重いというのはわかるけれど。名前もよくわからない。マスターは、あーるぴーえふ、って言ってたっけ。あーるぴーじーみたい。RPG、ドラゴンクエストの最高傑作はIIIだ。これは譲れない。それはよくわかるが、他のことはよくわからない。難しいことは苦手だ。
「あーっ!アホって言ったー!アホって言った人がアホなんだー!アホマスター!」
ランサメントは普通の神姫がそうであるように、自分のマスターを信頼し、尊敬していたが、自分のことをアホ呼ばわりするという一点においては別だった。あたしはアホじゃないもん、ただちょっとマイペースなだけだもん。
「もうっ、いいよ、撃っちゃうもん」
あとでマスターの耳たぶを思い切り引っ張ってやることにして、ランサメントはとりあえず、敵に対していまの怒りをぶつけることにした。RPFのトリガーを引く。ランチャー内部に仕掛けられた装薬により弾頭が飛び出す。
弾頭に搭載されたロケットモーターが点火するのと、一郎が叫ぶのはほぼ同時だった。
<<テ、テ、テ>>一郎が喉を震わせる。<<テッカマアアアァァァァァン!>>
信吾は唸った。ひどい大声だ。たまらずワイヤレスヘッドセットを取り払う。陽平もそうした、が、真由美は間に合わずに、脳を直接揺さぶられたかのように目を回した。きっとその声は、オーナーズブースを突きぬけて、神姫センター中に響き渡ったに違いない。そう思わせる声量だった。
テッカマン。他の者が聞けば、意味が分からずに首を傾げるだろうが、常日頃から一郎の独特の言語体系に付きあっている信吾たちと神姫たちは、その意図を正確に理解した。チャッピィとヴィネは同じコンテナの裏に身を伏せ、ブラッグはヘルメットバイザーを下ろし、お立ち台の上に設置されていた機材操作用と思しきコンソールパネルの陰に転がる、口は開けたまま。メーリンも頭を抱えて遮蔽の裏に伏せた。
紅緒は、そうしなかった。一郎の言葉の意味を理解することは出来なかったし、なにより、放たれた弾頭は自分の方へ向かってきていたから。紅緒は一瞬のうちに弾道を予測する。おそらく、自分の遮蔽の裏側に着弾し、破片被害をもたらすだろう、と。彼女のマスターもそのように推測し、紅緒に回避を促した。紅緒の装甲はサイフォスほどではない。破片でも十分な脅威たりうる。その分、身軽さには自信があった。弾頭の被害半径から抜け出すことは不可能ではないはずだ。
紅緒は跳躍する。弾頭が着弾し、破裂する。豪音と共に。しかし破裂した弾頭は、紅緒が予想したほどの破片を撒き散らしはしなかった。代わりに、広範囲に渡って高圧、高熱の衝撃波を生み出した。衝撃波をかわすことは不可能だった。音より早く動ける神姫などいない。さらに不幸なことに、衝撃波は壁やその他の構造物によって反射し、二度、三度と紅緒に襲いかかった。
「ぼるてっかあああぁぁぁぁぁぁぁ、なのだ」
衝撃波は、チャッピィたちの所にも届いた。コンテナがびりびりと震える。チャッピィは精一杯身を縮こまらせて、爆風が過ぎるのを待った。
長い時間のように思えたが、爆発はほんの一瞬だった。熱風が過ぎ去ると、工場内に静謐が満ちていった。
チャッピィはコンテナの陰から顔を出して、様子を窺う。ランサメントがいた場所に目を向ける。ランサメントはまだそこにいて、爆音に耳をやられたのか、危うい足取りで立っている。銃声が響く、特徴的な二連バースト。サンパーだ。かわせるはずもなく、ランサメントは直撃を受けて、派手に倒れた。
「了解です」
敵はいなかった。サンパーを叩きこまれたランサメントと、衝撃波をまともに受けた紅緒がぷちますぃーんずに運び出されるのが見えた。撃破された神姫は、例外なくそうなる。もう一体いたはずの、ウェルクストラの姿は見えなかった。RPFにやられたのか、あるいは、それ以前に既に撃破されていたのかは分からなかった。
「わかったのだ」
チャッピィは階段を駆け上がり、キャットウォークへ。管理室のドアへ向かう。ヴィネもそれに続いた。
<<こちら攻撃部隊、ホーム、ホーム、聞こえるか。旗はどうだ>>
陽平は防御部隊に通信を送った。攻撃にほとんどの人員を割いた為、旗の防御はそれほど厚いわけではなく、それ故に、陽平はトレードを危惧していた。トレードとは、両方の攻撃部隊がほぼ同時に相手の防御部隊を壊滅させ、結果として、旗を交換するような状況のことをさす。CTFにおいてはよく起こりうることの一つだった。
<<こちらホーム、聞こえる。何とか守りきってるよ>>
陽平の心配は杞憂だった。
<<すげぇたくさん敵が来てたけど、誰が仕掛けたかわからんが、地雷やらなんやらで半分くらい吹っ飛んでった>>
メーリンの地雷だ。攻撃に向かう前に、要所に小さな地雷から大きな地雷、果てはプラズマ地雷まで仕掛けていて、それらはうまく働いた。
「うっさい」
一郎の声が割り込むと、メーリンは猫のように表情を変える。いやぁ、やっぱり僕、嫌われてるねぇ、と一郎はオーナーズブースで一人頭をかいた。
<<いいってことよ。俺もSPたんまりもらって、マイアにヂェリカン奢ってやりたいからな。旗は頼んだぜ。ホーム、アウト>>
撤退手段は問題ない。工場内に敵の気配はない。それでも、心配の種がないわけではなかった。信吾は、今しがた撃破した敵が再出撃してきて、工場の出入り口を封鎖する可能性について考えている。
ブルーチームが基地にしていた工場は、二つの工場エリアと、それをつなぐ通路からなっていた。いまチャッピィたちがいる、奥側の工場には、見る限り外へ出られそうな窓はない。記憶を掘り起こしてみても、手前側の工場にも窓はなかったような気がする。つまり外へ出るには、手前側の工場エリアの出入り口を使うほかない。そこを抑えられたら?おそらく敵は、全力でこちらの脱出を阻止するだろう。信吾はオーナーズブースのブルーライト、その薄暗い明かりの中で手を組んだ。そうなったら一巻の終わりだ。こっちは4体、相手は10体以上。話にならない。
<<なら、いい。警戒を続けてくれ>>
メーリンは工場エリアをつなぐ通路に視線を向けた。動きはない。その手には弾を装填しなおしたサブマシンガンが固く握り締められている。お守りのように。すぐ横には、ヘルメットバイザーを下ろしたブラッグが依託射撃の体勢でサンパーの砲身を通路へと向けている。
「あったのだ!」
管理室の扉を開けたチャッピィが叫んだ。部屋の隅に、AROで表示された旗が四本、はためいている。チャッピィは旗に手を伸ばし、触れる。旗は幻のように消えた。本当に消えたわけではない。チャッピィの背後で、万が一の時のために控えていたヴィネは、AR上でチャッピィの身体にオーバーレイ表示されている名前の横に、F*4の文字が浮かぶのを見た。旗を四本所持しているという意味だ。
<<Attention! All objectives were captured! Red Team winning for 3 min!>>
システム音声が、レッドチームが全ての旗を取得したことを伝えた。あと3分、旗を守りきれば勝利となる。
「はた~、はたなのだ~。これとってかったあとはまたたびじゅーすにねこたままんもつくのだ~」
歌う様な表情で、チャッピィはキャットウォークを駆け降りていく。勝った後にはご褒美が待っている。ねこたままんもマタタビジュースも、チャッピィの大好物だ。
「了解」
ブラッグの目に飛び込んできたのは、銃を構えた複数の神姫だった。遅かったか。舌打ちし、ブラッグはすぐに頭を引っ込めた。向うも、ブラッグに気づいていた。激しい銃撃が始まった。弾が金属に当たって、砕け、跳ね回る、嫌な音。
「うにゃおん?」
通路から飛び出してきたチャッピィは、ブラッグの声に気づいて急ブレーキを掛けた。そこに、無数の弾が打ち込まれる。チャッピィは慌てて引き返す。
「はいはい」
ブラッグは手榴弾のピンを抜く。
“Frag out!”
遮蔽に隠れたまま、手だけを使って手榴弾を転がす。爆発の衝撃で、銃撃が一瞬だけ止み、その間にブラッグは走って通路を引き返す。
奥の工場に入ったところで、ブラッグの足がもつれた。倒れる。後ろからは銃を持ったゼルノグラード型。射線は通っている。銃が火を吹く前に、ヴィネがチーグルでブラッグを引っつかみ、遮蔽に引きずり込む。
「……昔のことは忘れてしまいましたゆえー」
言いながら、ヴィネはグレネードでゼルノグラードを撃つ。ゼルノグラードはさっとかわす。そして次の瞬間には、ヴィネが撃った数倍の鉄が返ってくる。ヴィネは隠れて銃弾をやり過ごす。
<<構わない。プランBを使うから、どっか適当な場所に隠れてろ。全員、だ。敵の先頭がこっち側に来るまで反撃するな>>
全員が頷き、物影に身を寄せて息を潜めた。
「わかったわ」
メーリンはワイヤレスリンクを確認。視界に、機器の状態がオーバーレイ表示される。オールグリーン。プランBは実行可能だ。
相変わらず、一郎のことを好きになれそうにないメーリンだったが、このまま敵にやられるのも嫌だった。だから、いまだけは一郎に従ってやろう、と思う。それに、マスターである真由美が、大きな信頼を寄せている相手だ。メーリンはそれが気に入らないのだが、バトルの間だけだ、と自分を説得した。真由美のためだもん、これくらい。
<<Standby……Standby……>>一郎の、タイミングを図る声を、メーリンは注意深く聞いた。
上半身を傾けて、ゼルノグラードは奥の様子を確認する。反撃は来ない。逃げたのか?まさか。工場の出入り口は一つだけだということを、ゼルノグラードは知っている。あいつらは袋の鼠だ。
姿勢を低くして、ゼルノグラードは通路を駆けた。逃げ場のない通路に誘い込んで撃ってくるのではないか、とゼルノグラードは考えていたが、意外なことに、攻撃はなかった。
通路の端まで辿り着くと、ゼルノグラードは壁に張り付いた。後方には、複数の神姫が遅れをとるまいと続いている。リーン。ゼルノグラードは再び上体を傾けて、中の様子を窺った。驚くほど静かだ。しかし、無人ではない。かならずどこかにいるはずだ。
メーリンは、通路の出口からこちらを窺うヘルメット頭を視認した。まだこちらを発見するには至っていない。
<<よぅし、プランBだ。やれ>>
すかさず、ワイヤレスリンクでメーリンは指令を送る。奥の工場に突入する前、一郎に言われて仕掛けておいた複数の地雷へ。爆破信号を受け取った地雷は、回路に通電し、起爆した。
メーリンが通路に仕掛けたのは、対戦車地雷と、プラズマ地雷だった。もっとも、対戦車地雷といっても、神姫にとっての戦車サイズの相手でも行動不能にできる、というぐらいの意味合いで、実際の戦車用に作られているわけではなかった。それでも、通常の神姫にとっては十分過ぎる威力だった。通路に仕掛けられた地雷は、プラズマを放出し、爆風を作り出す。巻き込まれた神姫は抵抗することも叶わずに打ちのめされ、地面に倒れた。
爆発したのはそれだけではなかった。工場―――手前側の工場にも、地雷は仕掛けられていた。指向性地雷、いわゆる、クレイモアだった。数百個のベアリングを吐き出すそれは、通路に仕掛けられた地雷ほどの打撃を与えられなかった。限定された空間に設置されていたわけではなかったし、もともと相手を倒そうと思って仕掛けられたものではなかった。
しかし、爆発音と、すぐ側を掠め飛ぶベアリングの群れは、ブルーチームの神姫たちの体ではなく、精神を直撃した。
通路に突入しようとしていたサイフォスは、突然の爆発に驚き、足がすくみ、その場にへたり込んでいた。紅緒型に敗北を喫し、せめて旗を取り返すことでその屈辱を雪ごうとしていたのだが、通路の向こう、爆風の残滓をかきわけて姿を現したストラーフ型、ヴィネのチーグルによる手刀を叩きこまれ、再び撃破されることになった。
<<敵はビビッてるぞ>>と陽平。<<行け行け行けぇ!>>
ヴィネはそのまま、近くにいたツガル型とポモック型に駆け寄った。二体が体勢を整える前に、ヴィネはチーグルで二体の頭を掴み、クラッカーのようにお互いを叩きつけ、そのままぽいと投げ捨てた。
「誰に似たんですかね、ああ、眠い」
つぶやくヴィネに、銃口が向けられる。右だ。ヴィネの反応は素早い。チーグルを盾がわりにしながら、遮蔽を取るために走る。銃撃、そのうちの一発が、ヴィネの腹部を掠めた。苦痛に眉をひそめ、工作機械の裏に身を寄せる。
「うー、痛。もうちょっと優しい眠気覚ましが欲しい」
ヴィネを撃った神姫たちに向かって、手前側の工場に進出したブラッグとメーリンが援護射撃を開始した。サブマシンガンとサンパーの銃声が重なり合う。
<<いいぞ>>と一郎。<<手持ちの弾を撃ち尽くす勢いで行け。敵に突っ込ませるなよ、そうなったら、全員チャッピィ狙いで来るからな>>
制圧射撃だ。当てようとは思っていない、相手の頭を下げさせるための射撃だった。吐き出される大量の弾は、その役目を十分に果たした。
「そんなことないよ」弾倉を交換しながら、メーリンが言い返す。「私、まだ、全然駄目だもん!」
いまが、チャンスだ。信吾はそう判断した。ヴィネが道を切り開いてくれた。通路から工場の出口まで、邪魔する神姫は見当たらない。敵の射撃は、ブラッグとメーリンが抑えてくれる。勝てる、いや、勝つんだ。俺の、俺たちの力で。
<<はいっ。メーちゃん、もう少しだからがんばって!>>と真由美。
仲間達の返答に、信吾は満足げに微笑んだ。
「わかったのだ。やぁってやるぜ、なのだ」
チャッピィは姿勢を低くとる。猫が獲物を狙う構え。走り出せば、一瞬のうちに最大速度まで加速する。猫の武器は瞬発力だった。本来、猫は集団で狩をしない。しかしいまチャッピィは、間違いなく、集団のためにその能力を発揮しようとしていた。
「うん」
メーリンはいったん射撃を中止し、IRスモークのピンを抜く、安全レバーは握ったまま。そして、一郎の指示を待った。サンパーの銃声を聞きながら。
<<Standby……Standby……Now!>>
IRスモークが宙を舞う。乾いた音を立てて床に転がり、破裂。熱を伴った煙が立ちこめる。
チャッピィは駆けだした。出口へ向けて、猫まっしぐらだ。出口の先には、勝利と、ねこたままん、そしてマタタビジュースが待っている。その芳醇な香りと味を思い出し、チャッピィの頬が緩んだ。
煙幕を駆け抜けたチャッピィが目にしたのは、外の光だった。実際の太陽光ではなかったが、外に出れた、という開放感は本物だった。なぁーおぅ、とチャッピィは快哉を叫んだ。
それを聞きつけたのか、一体のエウクランテ型が旋回降下してくる。チャッピィが視線を向ければ、オーバーレイ表示で味方だと分かった。チームメイトが迎えによこしたのは飛行型のエウクランテだった。
「フラッガーを見つけたよ、マスター……うん、任せといて」
エウクランテはチャッピィのすぐ側まで近づき、ホバリング。手を差し出す。
「ほら、おいで。にゃんこちゃん」エウクランテは微笑んだ。「おうちまで連れて帰ってあげる」
チャッピィは躊躇わずに、その手を掴んだ。エウクランテが、アーンヴァル型ではないのに、天使に見えたから。もたらすのは奇跡でも福音でもなく、柔らかくて甘いねこたままんと、喉に流し込めば天国へ連れていってくれるマタタビジュースだ。
「よし、飛ばすよ」
ウィングの出力を上げる。チャッピィの足が地面から離れた。上昇する、工場の屋根が見えるくらいにまで高度を上げ、エウクランテは急加速。地上から、フラッガーを逃がすまいと銃弾が撃ち上げられるが、チャッピィにも、エウクランテにも当たらなかった。
「当たんないよーだ」
舌を出しながら、エウクランテはさらに速度を上げる。最大速度に達した所で、再び上昇に移る。ズーム上昇。エウクランテの手にぶら下がったチャッピィは、速度を身体全体で感じている。
<<呑気なこといってる場合か>>と信吾。<<タイマーに気をつけろ。変なところに旗落としたら、苦労が水の泡だぞ>>
取得した旗は、いつまでも持っていられるわけではなかった。旗をとってから、一定時間が過ぎると勝手にその場に落ちる―――落ちるという表現が正しいかはともかくとして。落ちた旗は、取得前と同様にAROで表示されるが、直前に旗を持っていたチームの神姫は、その旗を再び取得することは出来ないが、しかし、敵側のチームは取得できる。だから、旗を持ったら速やかに帰還しなければならなかった。
視界が回る。天と地がひっくり返った。聞こえてくるチャッピィのにゃおおん、という驚きの声。
「いきなりまわるなー、なのだ」
突然横転機動を開始したエウクランテにチャッピィが抗議の声をあげたが、エウクランテの耳には届いていない。直後に、レーザーがすぐ側を走り抜けていく。
<<追っ手か>>
エウクランテは首をひねって後ろを見る。アーンヴァル型と飛鳥型。アーンヴァルはレーザーライフルを構えたまま、次弾発射の機会を窺っている。飛鳥は急速上昇をかけ、位置エネルギーを溜める。レーザーライフルをかわそうと旋回し、エネルギーを消費したところを狙うつもりだ。
やられるもんか。ホームはすぐそこなんだ。エウクランテは最大出力でパワーダイブ。地面すれすれを飛びながら、ビルの合間を抜ける。上空から撃ちかけられた機関砲弾が地面のアスファルトを耕した。飛礫が舞う。
「にょわわわ、あんぜんうんてんするのだ!」
足を削られそうになって、チャッピィは肝を冷やす。足と地面の間は、数ミリしかない。この速度で接触したら、地面は巨大なやすりとして働くだろう。
「気が散るからだまっててよ!」とエウクランテ。「……見えた!」
前方のスーパーマーケット。そこがレッドチームのホームだ。入り口を警戒していたムルメルティア型がエウクランテに気づき、手を振った。
「よし、もうあまり時間がない。投げろ」
チャッピィは耳を疑った。なげろ、っていったのだ?なにを?なんだかすげぇいやなよかんがするのだ。おそるおそると、チャッピィはエウクランテの顔を覗きこんだ。
「……ごめんね、子猫ちゃん」
謝罪の言葉を口にしながら、にっこりと笑う。その笑顔が、チャッピィの頭から血の気を奪っていく。それを知ってか知らずか、エウクランテはチャッピィを掴んでいる手に力を込めた。
「それっ!」
エウクランテはチャッピィを放り投げた。飛行時の慣性も相まって、恐ろしい速度でチャッピィは飛んでいく、ムルメルティアに向かって。チャッピィの涙が、風に飛んだ。
「ひ、ひっでーのだあああぁぁぁぁぁぁぁ!」
涙の尾を引きながら飛翔したチャッピィは、ムルメルティアのパワーアームに掴まれた。捕球時の強烈なショックにチャッピィの意識が吹き飛びかける。チャッピィの不幸は続く。ムルメルティアはパワーアームを振りかぶって投球姿勢をとる。
「あいよ!」
ムルメルティアはチャッピィを投げた。発射した、というほうが正確と言えるほどの速度で。暴力的な加速度に、チャッピィは呼吸が出来ない。口の端から泡があふれ、目から光が失われる。
撃ち出されたチャッピィを、スーパーマーケットの奥にいたグラップラップがこれまた乱暴にアームでキャッチする。ナイスキャッチ、と自分で自分を褒めてみせたが、チャッピィはアームの中で死んだようにぐったりしている。当然ながら、グラップラップとムルメルティアはそんなこと露ほども気にしていない。
「倉庫に向かってフラッガーをおおぉぉぉぉ」グラップラップは床が抜けんばかりの足音を響かせてマーケットの最奥、倉庫へ突進する。チャッピィを抱えたまま。「シュウウウウウウゥゥゥゥッ!」
三度、チャッピィが空気を切り裂いた。
「超!エキサイティング!」
投擲されたチャッピィは倉庫の壁に激突し、床に転がった。派手な音を響かせて。それとほぼ同時に、チャッピィのすぐ側に旗のAROが出現する。時間制限が来て、旗を”落とした”のだった。
「よぉ、猫!ぎりぎりだったな、えぇ?」
一仕事終えたような表情で、グラップラップがチャッピィの顔を覗きこんだ。チャッピィは沈黙している。死んだような目で。少しやりすぎてしまったかな、とグラップラップは頭をかいたところで、間違いに気づく。チャッピィは沈黙してはいなかった。か細い声で、何かを囁いている。グラップラップはチャッピィの声を聞き取ろうと、耳を寄せる。
「……ゆるさねーのだ。ぜったいにゆるさねーのだ。かおとなまえ、めもったのだ。いつかてきどうしになったらひゃくばいがえしなのだ。がんばってはたとってきたのにこのしうちはねーのだ。ないてあやまってもゆるさねーのだ。ぜったいにぼこぼこにしてやるのだ……」
チャッピィの口から漏れ出る怨嗟の声に、グラップラップはうっ、と後退り。やっぱりやりすぎだったか。いや、でも、アタシだけがわるいわけじゃないだろ?あのムルメルティアだって思いっきり投げてたし。それに、撃ってないからフレンドリーファイアじゃないし、ジャッジも何も言わないし。しかし、そのような説得が効果を成すとは思えず、回復したら戦闘に復帰するだろうと考え、その場を後にした。あぁ、回復する前に試合が終わるかも知れないけれど。
果たして、グラップラップの予測は正しかった。チャッピィが動けない間にも、ブルーチームはレッドチームに対して果敢に攻撃を加えたのだが、レッドチームは全力で旗を守りきり、勝利をものにした。
いま、信吾達は神姫センターの片隅、サロンルームで勝利の美酒を味わっていた。ほとんどの神姫センターのサロンでは、バトルの待ち時間や休憩時のために軽食を提供できる設備が備わっているのが普通だった。まだ酒が飲める年齢ではないが、きっと初めての酒もこいつらと一緒に飲むのだろうと、信吾はコーヒーを片手に仲間達を見回した。
バトルフィールドから戻ってからこっち、自分をボールか何かのように扱った神姫をいつかぎたんぎたんにしてやる、と息巻いていたチャッピィは、マタタビジュースとねこたままんを与えるとそれに耽溺し、もうどうでも良くなっていた。顔を真っ赤にしてほろ酔い気分。安い神姫だ。
真由美は、自分の神姫の無事を喜び、そしてその健闘を称え、眼鏡の下の優しげな瞳をメーリンに向けて、ジュースで乾杯した。二人とも、一気に飲み干さずに、ちびちびと、まるで喜びを分かち合うようにそれぞれの飲み物を楽しんでいる。こうして見ると、姉妹の様でもある。神姫と可愛い少女(ま、俺の趣味ではないが。一般論だ)が睦み会う姿は、絵になる。
注文したコーラに、さもそれが当然というような顔でメントスを突っ込もうとした一郎はブラッグに止められ、「離せ、僕はやるんだ」などと言って、ブラッグと起爆剤の取り合いになった。その拍子にコーラの入ったコップが高く舞い上がり、一郎の頭にかぶさった。中身を全部ぶちまけて。それなりの付き合いだが、こいつはやっぱり馬鹿だ、と信吾は一郎に下した評価が正しかったことを再確認した。
陽平が手にしたカップにはチョコレートドリンクがなみなみと注がれていて、美味そうに飲んでいる。陽平は見た目どおりの健啖家で、甘い物が好きだった。その肩にはヴィネが乗っていて、オレンジエードをストローで啜りながら、それ以上デブるつもりですかマスター、などとつぶやき、陽平は平然と聞き流している。
「ヌカっとさわやか、ヌカコーラ」頭を拭き、注文しなおしたコーラを流し込みながら、一郎。「欲を言えば、クァンタムが欲しかった」
クァンタムは、すでに品切れだった。レア商品だ。
「得意そうに見えるか、こいつが?」
信吾は一郎の頭を軽く指で弾いた。傾く。おかしい、小学生の貯金箱よろしく、からりと空しい音がするはずなのに。
「あ、あの」と真由美は少し言いよどんでから、「良かったら、その、私、勉強教えてあげましょうか?」緊張した表情で、ようやく言葉を押し出した。
この4人のメンバーの中で、実の所、学力では真由美がトップと言ってもよかった。子供の頃から英才教育を仕込まれている陽平にも負けていない。やっぱり眼鏡は伊達じゃあない、ってことか。ちゃんと度が入ってるしな。そう思いながら、信吾はテーブルの上、コップに寄りかかって酔っ払っているチャッピィを見やった。こいつも眼鏡かけさせれば、少しは賢くなるかしらん?
信吾の思考に割り込むように、一郎は真由美の提案に対して「絶対にノゥ!」との非情な解答を下した。
「わからん。たまにこう、ずきーんと来る。だからバンテリンは手放せない。これは……有難い……」
そう言って、一郎は懐から小壜に入った頭痛薬、バンテリンを取り出して見せた。薬に頼らねば満足に生きていけないこの体。ま、リタリンよりはましだ、と一郎はポジティブに考えることにした。ああ、そういえば、今週の水曜は夜の外出不可能だし、僕の人生には制約が多いなぁ。ある意味一つの縛りプレイと言える。僕の人生これSM、縛りだけに。あぁ、プレイってそういう意味……。
「しかし、こう赤点ばかりだと問題だろ、さすがに」と信吾が口を開いた。「この馬鹿猫みたいになっちまうぞ」
信吾は顔を赤くしたチャッピィを指差した。
「にゃあ?」
指でつついて、チャッピィを立たせる。酔ってはいるが、呂律が回らないほどではなかった。意識ははっきりしている。
「「キャバクラ・爆風」なのだ」
想像の斜め下をいく回答が飛び出した。
「うわ……」メーリンは、顔をゆがめた。「酔っ払ったチャッピィ並って、どれだけなのよ……」
「だってそうじゃない」
真由美は悩む。どうしてこう、メーリンは一郎にだけ辛く当たるのか、真由美は理解に苦しんでいた。もともと、メーリンは気さくで、朗らかな性格だ、そのことはマスターである自分がよく知っているし、一郎の神姫、ブラッグはもちろんのこと、ヴィネやチャッピィ、そして陽平や信吾にも普通に接する。正直な話、ブラッグがメーリンに銃の撃ち方を教えようとしたとき、ついでにブラッグを通じて、一郎と少しは仲良くなってくれるかもしれない、と期待したものだったのだが、結局のところ、全く改善されていない。それ以外は良い子なのに。真由美はわずかに嘆息した。
難しい顔をしている真由美とは逆に、信吾は少しだけ、親しい者が注意深く観察して、ようやく分かる程度に、口元を緩めた。笑っていた。仲間たちと会う前のことを思い出す。その頃から、せっかく武装神姫を買ったのだから、という曖昧な理由で、なんとなくバトルに参加していた。チャッピィと自分の、二人で。他に仲間はいなかったし、作ろうとも思わなかった。チームだって?冗談じゃない。自分の神姫とバトルに赴き、その結果に相棒と共に一喜一憂する。いわゆる野良というやつだった。
今思い返して見ても、それはそれで、楽しくはあった。決してつまらなくはなかったけれど、いまの方が、信吾には好ましかった。バトルでの緊張感と同じように、仲間達の作る雰囲気は、コーヒーにとって良いアクセントになると知っているから。信吾は手元のカップの中身を流し込んだ。まだ冷めてはいない。今日は奮発して普通のコーヒーを頼んだが、それを別にしても、美味かった。
声に気づいて、信吾はカップを下ろした。仲間達も、声の主を見やる。知らない女だった。顔は記憶にないが、彼女の着ている制服は、その場の全員が、よく知っていた。瑚南見学園の制服。毎日、嫌というほど見ている。当然だ、信吾は瑚南見学園の学園生なのだから。
To be continued...