「ACT 0-3」(2009/06/24 (水) 01:18:19) の最新版変更点
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ウサギのナミダ
ACT 0-3
□
その日の土曜日、俺は拾った神姫をつれて、海藤の家へ向かった。
海藤は、高校時代からの友人だ。
武装神姫を仲間内で一番に始めたのが彼だった。
俺の仲間内はみんな、海藤の影響で神姫を始めている
海藤が連れている神姫がうらやましくて、俺も神姫を持ちたいと思うようになった。
それほど、彼と彼の神姫の関係は良好だったし、その神姫は魅力的だった。
いまでも仲間内で一番神姫に詳しい。
だから、今回のことも、彼を頼ることにしたのだった。
電車に揺られること30分ほど。
いかにもベッドタウンの駅、というところで私鉄を降りる。
海藤の家までは歩き慣れた道だった。意識もせずに角を曲がり、住宅街の町並みを歩く。
俺は程なく目的の家の前に立った。インターホンのボタンを押す。
古びているが、普通の一軒家である。
海藤はここに独りで住んでいる。
しばらくして、玄関の扉が開き、少し小太りの、小柄な男が顔を出した。
「よお」
「よく来たね、ささ、入って入って」
海藤は機嫌よく、俺を招き入れる。
一軒家は独りで住むには広すぎる。
海藤が趣味を満喫するには最適だが、やはり寂しくなるものらしい。
俺が時折顔を出すと、必ず歓待してくれる。
俺は海藤に続いて扉をくぐる。
すると、
「いらっしゃいませ」
鈴の鳴るような声が、海藤の肩あたりから聞こえてくる。
俺が視線を向けると、そこには神姫がにこやかに微笑んでいた。
「こんにちは、アクア。お邪魔するよ」
このアクアの微笑みにやられて、海藤の家からの帰りに神姫ショップに寄って、何度イーアネイラ・タイプのパッケージを手に取ったか知れない。
高校時代の仲間のほとんどが、このアクアの笑顔をにやられて、海藤がうらやましくなって、神姫を始めた。
それほど、イーアネイラのアクアは魅力的だった。
海藤の招きで通されたのは、広い居間だ。
その広い壁の一面を、巨大な水槽が埋めていた。
そして中には色とりどりの魚達が優雅に泳いでいた。
海藤のもう一つの趣味がこれだ。
熱帯魚の飼育だけでは飽きたらず、いまは学業そっちのけで水族館でアルバイトをしている。
そんな海藤が人魚型の武装神姫を選んだのも、当然の成り行きだ。
俺は居間に置いてある小さなテーブルに手みやげをおく。
海藤はそのままキッチンに入り、コーヒーを入れてきた。
手みやげはミスドのドーナッツである。男二人のくせに、俺達は甘いものに目がなかった。
しばらく俺達は、何も言わずにドーナッツを頬張り、コーヒーを味わった。
二つ目のドーナッツを腹に収めたところで、海藤が切りだした。
「それで、神姫の素体交換だって?」
「ああ」
ちょうど俺も二個目を食べ終え、傍らにあったバッグに手を伸ばす。
中から大きめのハンカチにくるまれたものを取り出す。
「これは……」
海藤は、俺が拾ってきた神姫をつまみ上げる。
メンテナンスモードになっている神姫は、ぴくりとも動かない。いまはただの人形同然だ。
手足に巻いた包帯が痛々しい。
そう思わせるほどに生々しい肌の質感が、この神姫にはある。
「こんな素体は見たことがないな」
「言ったろう、訳ありだって」
「見たところ、素体の外皮は妙に生々しくて継ぎ目もないけど……どうやら中身は規格からはずれてはいないみたいだ」
「できそうか?」
「交換だけなら、そう時間もかからないよ」
海藤は慎重に頷いて、そう請け負ってくれた。
「よろしく頼む」
俺が言うと、海藤は早速、リビングの端に据えられたパソコンに、その神姫を持っていった。
すでにスタンバイされているクレイドルの上に載せる。
アクアが海藤の肩から飛び降り、自身もクレイドルのような装置に収まった。
「アクア、バックアップ開始」
「はい、マスター」
アクアは装置の中で目をつぶる。
すると、パソコンの画面にいくつかウィンドウが自動的に開いていく。
アクアがパソコンを操作し、あの神姫の記録をバックアップしているらしい。
……バックアップ?
「そのまま素体を入れ替えるのなら、念のためバックアップして置いた方がいいよね」
海藤が当たり前のことのように言う。
だがしかし、
「ああ、それはもっともなんだが。アクアはそいつの記録を見ない方がいい……」
「ひっ」
遅かった。
装置の中で、アクアは目を見開いて愕然としている。
「ストップだ、海藤」
俺が言うよりも早く、海藤の手がパソコンを操作していた。
神姫からのメモリの読み出しがストップされる。
「アクア、大丈夫かい?」
「は、はい……ちょっと驚いただけです」
やはりアクアには刺激が強すぎたようだ。
海藤が、パソコンにバックアップされたデータを呼び出した。
ディスプレイに、昨夜俺が見た画像の一部が表示される。
「これは……なんだ、これは」
いままでに見たことのない苦い顔で、海藤が呟く。
「お察しの通りだ……言っただろ、訳ありだって」
「……」
海藤は画像が表示されていたウィンドウを消すと、パソコンのいすにもたれ掛かって座り、ため息を一つついた。
そして、俺に向き直ると、
「なあ遠野……悪いことは言わない。この神姫のオーナーになるのは、やめた方がいいと思う」
「なんだと?」
「ごめん、怒らないで聞いてくれ。君のことを思って言ってるんだ」
海藤の真剣な眼差しに、俺は怒りを引っ込めざるを得なくなる。
「君がどんな神姫のオーナーになろうと、それは自由さ。
でも、この神姫自体が危険な代物なんだ。
この妙に人間くさい素体だって、違法製造のカタマリだよ。
いまの神姫の記憶だって、へたすれば、持っているだけで犯罪だ。神姫風俗自体が違法なんだから。
この神姫のオーナーというだけで、犯罪者扱いされる可能性があるんだ。
武装神姫はホビーだ。楽しい趣味の世界だよね?
そんな神姫の世界に、現実のハイリスクを伴ってまで、踏み込む必要があるかい?」
俺は、海藤の落ち着いた語りに、冷静になって考える。
海藤は話を続ける。
「君のオーダーは、記憶や性格はそのままに、ユーザー登録をクリアして、素体を交換すること、だよね。
でも、記憶を消去して、全く新しい神姫としてオーナーになることもできるんだ。
あの記憶がある限り、神姫風俗にいた神姫であることが露見するリスクはつきまとう。
そして、どんなに君が否定しても、神姫風俗とのつながりを疑われるよ。
そうまでして、このままの神姫のオーナーになる必要があるかな?
そんなリスクを犯さなくても、いいんじゃないかって、僕は思うんだ」
俺はうつむいて、海藤の言葉を反芻した。
こいつは、本当に俺のことを心配して言ってくれている。
そういう奴だ。
海藤の言うリスクについても、わかっているつもりだ。
「……だけどさ」
だが。だがしかし。
「どんな神姫にも幸せになる権利が、あるんじゃないのか?」
「つらい記憶を抱えたまま新しいオーナーの神姫になることが、この神姫の幸せかい?」
「わかってる……わかってるさ。こんなのは、俺のエゴなんだってことは」
でも、譲れなかった。この気持ちだけは。
「こいつさ……目が覚めて、泣きながら俺に言うんだぜ……壊してくれって」
「……」
「ほっとけないだろ。俺がはじめて神姫にと望んだ奴が、自殺志願なんて……俺が何かできる訳じゃないけれど……でも、教えてやりたいと思った。
こいつがこいつのままでも、いいんだって……そんなに悲しい言葉言わなくたって、俺がこいつを望んでいるって……
普通の神姫として生きられるんだって、教えてやりたいんだ」
「……」
「……だめか?」
上目遣いに見た俺に、海藤は諦めたような大きなため息を一つついた。
「まったく……君らしいよ」
「いいのか?」
「君がそこまで言うなら、いいさ。僕はもう、何も言わないよ」
「ありがとう、海藤……」
俺は安堵のため息をついて肩を落とす。
やはり持つべきものは友達だ。
「それじゃあ、さっさと終わらせますか」
海藤は元気にそういい放つと、アクアの代わりにバックアップの操作をした。
作業机に工具を並べていく。
手持ちぶさたになったアクアが、海藤の様子を眺める俺に近寄ってきた。
「あの子はきっと大丈夫ですね」
「君のマスターが、作業するからか?」
「いいえ」
確信を持ったまなざしで、アクアは俺を見上げて言った。
「遠野さんが、こんなに想ってくれるんですから」
こんな気恥ずかしいせりふを、神姫からぶつけられるとは思わなかった。
俺はあまりの照れくささに、アクアの微笑もまともにみられず、ひたすらにそっぽを向いた。
「よし、これで終わりだ」
海藤が明るい声でそう宣言した。
パソコンのキーを一つ、軽く叩く。
パソコン脇のクレイドルには、あの神姫が横たわっている。
痛々しい包帯は、もうない。
愛らしいヘッドはそのままに、新品の身体に交換されている。
いま、パソコンからクレイドルを通して、神姫にデータがダウンロードされている。
さきほどバックアップされた過去の記録はもちろん、そもそも削除されていた、武装神姫としての運動プログラムや装備の運用プログラムなども含まれる。
「最低限の格闘用データと銃撃戦用データは入れておいたよ。
装備はこれから選ぶんだろう? その装備にあったデータを後から追加すればいい」
海藤はそう説明した。
ありがたい配慮だ。さすが長い付き合いだけに、俺のことをよく分かっている。
俺はこの神姫のために、オリジナルの武装を用意するつもりだった。
何者でもない、俺だけの武装神姫のための装備を。
やがて、ディスプレイの作業表示が100%を示す。
俺は息を飲む。
その神姫は新たな姿で目覚めようとしている。
PCから、作業完了の電子音が軽やかに鳴り響いた。
■
軽やかな電子音とともに流れ込んできた信号が、わたしに覚醒を促す。
わたしは、のろのろと瞳を開く。
飛び込んできた光景は、今まで見たこともないものだ。
おおきな、おおきなガラスの器に、水がたくさん貯められており、そこに色とりどりの魚が踊っていた。
まるで夢のように現実感がない。
「状態チェック、オールグリーン。無事に目覚めました」
きれいな声がすぐ隣から聞こえた。
神姫用のポッドユニットだろうか。
そこから一人の神姫が出てきた。
きれいな人。
わたしのメモリに入っている情報から、イーアネイラ・タイプの神姫と分かる。
彼女は、わたしににっこりと微笑みかけると、視線で正面を見るように促した。
そこには、一人の男性がいた。
眼鏡をかけた端正な顔。
わたしを自分の神姫にしたいと言ってくれた、あの人だ。
「あの……」
わたしが自分の思いを言葉に紡ぐより早く、システムプログラムがわたしに口走らせる。
「オーナーの登録をします。名前を音声、またはPCのキーボードから入力してください」
わたしの瞳は、目の前にいる端正な顔を捕らえている。
わたしを連れてきてくれた人。
わたしに違う世界を見せてくれると言った人。
「遠野貴樹」
わたしは、その人の名を初めて知った。
その名前はわたしの深い部分に滑り込み、刻まれた。
「あなたをなんとお呼びすればよろしいですか? 呼び方を入力してください」
「マスター」
答えは決められていたようで、すぐに返事が来る。
そして次は……
「わたしの名前を入力してください」
プログラムが口走らせる事務的な口調とは裏腹に、わたしの心はドキドキと高鳴っていた。
大きな期待、そしてもっと大きな不安。
23番でもなく、名無しでもない。お客さんが勝手につける一時の名前でもない。
ただひとつの、わたしの名前。
「ティア」
そっけないくらいの口調で、わたしの瞳に映る人は応えた。
わたしは事務的な口調で確認を取ると、すぐにそれは了承された。
意志が、起動プログラムから、わたしに戻ってくる。
「あ……」
わたしは改めて目の前の人を見る。
彼の名前は遠野貴樹。わたしの……
「マスター……」
「ティア、でよかったか? おまえの名前」
いいもなにも。
初めて確たる名をもらったわたしは、はじめて自分が存在していることを確認した。
何者でもなく、ティアという名の神姫として。
「そんな……わたしなんかには、もったいない名前です」
思ったことを口にすると、
「『わたしなんか』って言うな」
低い声で怒られた。
わたしはマスターに怒られてばかりいるような気がする。
わたしは少しおびえて、マスターを見上げた。
マスターは何ともいえない表情で、ふい、と目を逸らす。
……なにか、わたしはマスターの気に障るようなことをしてしまっただろうか。
わたしはおろおろとしながら、マスターを見上げるしかできなかった。
マスターは何を怒っているのだろう。
想像もつかない。
わたしはまだ、この人のことを何も知らないのだ。
でも、マスターに怒られるのは悲しくて、つらくて、情けないことのように思えた。
だから、わたしの瞳から、自然と滴が溢れてくる。
「なに泣いてるんだ」
「だ、だって……」
「……だからティアって名前にしたんだ。泣き虫だからな、おまえ」
ティア。涙の意味だと分かる。
意地悪な言葉をそっけないくらいの口調で言い放つマスター。
わたしは、どんな表情をしていいか分からない。
分からなくて、マスターのことも分からなくて、心に寄り添うこともできなくて、心細くて、また涙が溢れてきてしまう。
結局、泣きやまないまま、わたしはマスターに連れられて帰路についた。
マスターが意地悪なことを言ったのは、実は照れ隠しだったことを知るのは、ずっとあとのことだった。
□
「すまなかったな、変なところを見せてしまって」
「いや、いいよ。君の神姫がどんな子かもよく分かったし」
海藤の家の玄関。
帰り際に俺は、海藤に軽く謝った。
正直、ティアの態度にはまいった。
これでは俺が自分の神姫を泣かせているみたいではないか。
結局、ティアはアクアにずっと慰められていたが泣きやまず、いまも俺のカバンの中で泣き続けているようだった。
覚悟はしていたが、先が思いやられる。
「それにしても……」
見送りに来た海藤は、にやにや笑いを顔に貼り付けて、
「なんだかんだ言って、やっぱり君は世話好きのおせっかいだよね」
とのたまいやがった。
「ほっとけ!」
俺はクールで理知的なキャラで通っているのだ。
自分もそう望んでいるし、多くの友人がそういう印象を抱いてくれている。
しかし、付き合いの長い友人になると、それが化けの皮と言いやがる。
熱いハートを持った義理人情の男と思われているのだ。
そういう性格が悪いことだとは思っていないが、普段から俺はスマートでいたいと思っている。
暑苦しい奴だと思われるのは心外だし、御免だった。
俺達のやりとりを見て、海藤の肩の上で、アクアが笑っている。
いつかティアも、こうして笑えるようになるだろうか。
それはきっと、これからの俺次第なのだろう。
そう思うとなんだかとてつもなく大変なことのような気がしてきて滅入る。
だが、それを成し遂げたいと、切に願っている自分がいるのだ。
不機嫌な表情の俺に、海藤はハンカチか何かの包みを俺に差し出した。
「これは……」
「こっちで処分しようかと思ったけど、まあ、何かの役に立つかも知れないし」
それは、ティアの元の素体だった。
妙に生々しい感触の、小さな人型。
持っているだけで違法かも知れないその素体は、正直、処分してもらっても、かまわなかったのだが。
「もともと君の持ち物だ。君がどうするのか決めるのがいいよ」
「……」
俺はしばらくその包みを見つめた後、そっとバッグにしまいこんだ。
「迷惑をかけたな、恩に着る」
「そう思うなら、また遊びに来てよ。今度はティアも一緒に、さ」
気のいい友人はそう言って笑ってくれた。
◆
遠野の背中を見送りながら、アクアが口を開いた。
「マスター……あの二人、うまくいきますよね?」
「……アクアはどう思う?」
「うまくいくと思います、きっと。だって、遠野さん……あんなにティアのこと気にかけているのですもの」
海藤は難しい表情をしながら、アクアの言葉を聞いていた。
やさしいマスターには珍しく、厳しい目で、遠ざかる友人の背中を見つめていた。
「マスターは、そう思われないのですか?」
「わからない……わからないよ」
嘆息するように言葉をはく。
「二人の仲は、きっとうまくいくと思うよ。遠野はああ見えて世話好きだし、きっと長い時間をかけて、ティアを自分の神姫にしていくんだろうね。
大変だとは思うけど、その覚悟もできていたみたいだし……」
「だったら……」
「問題はあの二人じゃないよ。もっと他のことさ。
ティアは……普通の神姫じゃないんだ。
神姫風俗にいることが知られたら、どんなことになるか……見当もつかないよ。
何かあったときには、僕たちの思いもつかないような試練に晒されるかも知れない。
……それが心配なんだ、とても」
遠野の背中が見えなくなり、海藤はきびすを返した。
ゆっくりと門の中へ入る。
相変わらず厳しい表情を崩さない海藤に、アクアは話しかけた。
「それでも……わたしはよかったと思います」
「なぜ?」
「あんなに嬉しそうな遠野さん、初めて見ました。
いつも神姫のオーナーになりたいって言って、そのたびに寂しそうな表情をしていましたもの。
遠野さんにあんな嬉しそうな表情をさせたのは、間違いなくティアですから……」
「そうか、そうだね……今は、新しい神姫のプレイヤーが生まれたことを、素直に喜ぶべきだね」
「はい!」
いつも前向きなアクアに何度救われたことだろう。
この笑顔にあこがれて、友人たちは皆神姫を始めたが、誰よりもアクアの笑顔にメロメロなのは、マスターである自分だということを、海藤は自覚していた。
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ウサギのナミダ
ACT 0-3
□
その日の土曜日、俺は拾った神姫をつれて、海藤の家へ向かった。
海藤は、高校時代からの友人だ。
武装神姫を仲間内で一番に始めたのが彼だった。
俺の仲間内はみんな、海藤の影響で神姫を始めている
海藤が連れている神姫がうらやましくて、俺も神姫を持ちたいと思うようになった。
それほど、彼と彼の神姫の関係は良好だったし、その神姫は魅力的だった。
いまでも仲間内で一番神姫に詳しい。
だから、今回のことも、彼を頼ることにしたのだった。
電車に揺られること30分ほど。
いかにもベッドタウンの駅、というところで私鉄を降りる。
海藤の家までは歩き慣れた道だった。意識もせずに角を曲がり、住宅街の町並みを歩く。
俺は程なく目的の家の前に立った。インターホンのボタンを押す。
古びているが、普通の一軒家である。
海藤はここに独りで住んでいる。
しばらくして、玄関の扉が開き、少し小太りの、小柄な男が顔を出した。
「よお」
「よく来たね、ささ、入って入って」
海藤は機嫌よく、俺を招き入れる。
一軒家は独りで住むには広すぎる。
海藤が趣味を満喫するには最適だが、やはり寂しくなるものらしい。
俺が時折顔を出すと、必ず歓待してくれる。
俺は海藤に続いて扉をくぐる。
すると、
「いらっしゃいませ」
鈴の鳴るような声が、海藤の肩あたりから聞こえてくる。
俺が視線を向けると、そこには神姫がにこやかに微笑んでいた。
「こんにちは、アクア。お邪魔するよ」
このアクアの微笑みにやられて、海藤の家からの帰りに神姫ショップに寄って、何度イーアネイラ・タイプのパッケージを手に取ったか知れない。
高校時代の仲間のほとんどが、このアクアの笑顔をにやられて、海藤がうらやましくなって、神姫を始めた。
それほど、イーアネイラのアクアは魅力的だった。
海藤の招きで通されたのは、広い居間だ。
その広い壁の一面を、巨大な水槽が埋めていた。
そして中には色とりどりの魚達が優雅に泳いでいた。
海藤のもう一つの趣味がこれだ。
熱帯魚の飼育だけでは飽きたらず、いまは学業そっちのけで水族館でアルバイトをしている。
そんな海藤が人魚型の武装神姫を選んだのも、当然の成り行きだ。
俺は居間に置いてある小さなテーブルに手みやげをおく。
海藤はそのままキッチンに入り、コーヒーを入れてきた。
手みやげはミスドのドーナッツである。男二人のくせに、俺達は甘いものに目がなかった。
しばらく俺達は、何も言わずにドーナッツを頬張り、コーヒーを味わった。
二つ目のドーナッツを腹に収めたところで、海藤が切りだした。
「それで、神姫の素体交換だって?」
「ああ」
ちょうど俺も二個目を食べ終え、傍らにあったバッグに手を伸ばす。
中から大きめのハンカチにくるまれたものを取り出す。
「これは……」
海藤は、俺が拾ってきた神姫をつまみ上げる。
メンテナンスモードになっている神姫は、ぴくりとも動かない。いまはただの人形同然だ。
手足に巻いた包帯が痛々しい。
そう思わせるほどに生々しい肌の質感が、この神姫にはある。
「こんな素体は見たことがないな」
「言ったろう、訳ありだって」
「見たところ、素体の外皮は妙に生々しくて継ぎ目もないけど……どうやら中身は規格からはずれてはいないみたいだ」
「できそうか?」
「交換だけなら、そう時間もかからないよ」
海藤は慎重に頷いて、そう請け負ってくれた。
「よろしく頼む」
俺が言うと、海藤は早速、リビングの端に据えられたパソコンに、その神姫を持っていった。
すでにスタンバイされているクレイドルの上に載せる。
アクアが海藤の肩から飛び降り、自身もクレイドルのような装置に収まった。
「アクア、バックアップ開始」
「はい、マスター」
アクアは装置の中で目をつぶる。
すると、パソコンの画面にいくつかウィンドウが自動的に開いていく。
アクアがパソコンを操作し、あの神姫の記録をバックアップしているらしい。
……バックアップ?
「そのまま素体を入れ替えるのなら、念のためバックアップして置いた方がいいよね」
海藤が当たり前のことのように言う。
だがしかし、
「ああ、それはもっともなんだが。アクアはそいつの記録を見ない方がいい……」
「ひっ」
遅かった。
装置の中で、アクアは目を見開いて愕然としている。
「ストップだ、海藤」
俺が言うよりも早く、海藤の手がパソコンを操作していた。
神姫からのメモリの読み出しがストップされる。
「アクア、大丈夫かい?」
「は、はい……ちょっと驚いただけです」
やはりアクアには刺激が強すぎたようだ。
海藤が、パソコンにバックアップされたデータを呼び出した。
ディスプレイに、昨夜俺が見た画像の一部が表示される。
「これは……なんだ、これは」
いままでに見たことのない苦い顔で、海藤が呟く。
「お察しの通りだ……言っただろ、訳ありだって」
「……」
海藤は画像が表示されていたウィンドウを消すと、パソコンのいすにもたれ掛かって座り、ため息を一つついた。
そして、俺に向き直ると、
「なあ遠野……悪いことは言わない。この神姫のオーナーになるのは、やめた方がいいと思う」
「なんだと?」
「ごめん、怒らないで聞いてくれ。君のことを思って言ってるんだ」
海藤の真剣な眼差しに、俺は怒りを引っ込めざるを得なくなる。
「君がどんな神姫のオーナーになろうと、それは自由さ。
でも、この神姫自体が危険な代物なんだ。
この妙に人間くさい素体だって、違法製造のカタマリだよ。
いまの神姫の記憶だって、へたすれば、持っているだけで犯罪だ。神姫風俗自体が違法なんだから。
この神姫のオーナーというだけで、犯罪者扱いされる可能性があるんだ。
武装神姫はホビーだ。楽しい趣味の世界だよね?
そんな神姫の世界に、現実のハイリスクを伴ってまで、踏み込む必要があるかい?」
俺は、海藤の落ち着いた語りに、冷静になって考える。
海藤は話を続ける。
「君のオーダーは、記憶や性格はそのままに、ユーザー登録をクリアして、素体を交換すること、だよね。
でも、記憶を消去して、全く新しい神姫としてオーナーになることもできるんだ。
あの記憶がある限り、神姫風俗にいた神姫であることが露見するリスクはつきまとう。
そして、どんなに君が否定しても、神姫風俗とのつながりを疑われるよ。
そうまでして、このままの神姫のオーナーになる必要があるかな?
そんなリスクを犯さなくても、いいんじゃないかって、僕は思うんだ」
俺はうつむいて、海藤の言葉を反芻した。
こいつは、本当に俺のことを心配して言ってくれている。
そういう奴だ。
海藤の言うリスクについても、わかっているつもりだ。
「……だけどさ」
だが。だがしかし。
「どんな神姫にも幸せになる権利が、あるんじゃないのか?」
「つらい記憶を抱えたまま新しいオーナーの神姫になることが、この神姫の幸せかい?」
「わかってる……わかってるさ。こんなのは、俺のエゴなんだってことは」
でも、譲れなかった。この気持ちだけは。
「こいつさ……目が覚めて、泣きながら俺に言うんだぜ……壊してくれって」
「……」
「ほっとけないだろ。俺がはじめて神姫にと望んだ奴が、自殺志願なんて……俺が何かできる訳じゃないけれど……でも、教えてやりたいと思った。
こいつがこいつのままでも、いいんだって……そんなに悲しい言葉言わなくたって、俺がこいつを望んでいるって……
普通の神姫として生きられるんだって、教えてやりたいんだ」
「……」
「……だめか?」
上目遣いに見た俺に、海藤は諦めたような大きなため息を一つついた。
「まったく……君らしいよ」
「いいのか?」
「君がそこまで言うなら、いいさ。僕はもう、何も言わないよ」
「ありがとう、海藤……」
俺は安堵のため息をついて肩を落とす。
やはり持つべきものは友達だ。
「それじゃあ、さっさと終わらせますか」
海藤は元気にそういい放つと、アクアの代わりにバックアップの操作をした。
作業机に工具を並べていく。
手持ちぶさたになったアクアが、海藤の様子を眺める俺に近寄ってきた。
「あの子はきっと大丈夫ですね」
「君のマスターが、作業するからか?」
「いいえ」
確信を持ったまなざしで、アクアは俺を見上げて言った。
「遠野さんが、こんなに想ってくれるんですから」
こんな気恥ずかしいせりふを、神姫からぶつけられるとは思わなかった。
俺はあまりの照れくささに、アクアの微笑もまともにみられず、ひたすらにそっぽを向いた。
「よし、これで終わりだ」
海藤が明るい声でそう宣言した。
パソコンのキーを一つ、軽く叩く。
パソコン脇のクレイドルには、あの神姫が横たわっている。
痛々しい包帯は、もうない。
愛らしいヘッドはそのままに、新品の身体に交換されている。
いま、パソコンからクレイドルを通して、神姫にデータがダウンロードされている。
さきほどバックアップされた過去の記録はもちろん、そもそも削除されていた、武装神姫としての運動プログラムや装備の運用プログラムなども含まれる。
「最低限の格闘用データと銃撃戦用データは入れておいたよ。
装備はこれから選ぶんだろう? その装備にあったデータを後から追加すればいい」
海藤はそう説明した。
ありがたい配慮だ。さすが長い付き合いだけに、俺のことをよく分かっている。
俺はこの神姫のために、オリジナルの武装を用意するつもりだった。
何者でもない、俺だけの武装神姫のための装備を。
やがて、ディスプレイの作業表示が100%を示す。
俺は息を飲む。
その神姫は新たな姿で目覚めようとしている。
PCから、作業完了の電子音が軽やかに鳴り響いた。
■
軽やかな電子音とともに流れ込んできた信号が、わたしに覚醒を促す。
わたしは、のろのろと瞳を開く。
飛び込んできた光景は、今まで見たこともないものだ。
おおきな、おおきなガラスの器に、水がたくさん貯められており、そこに色とりどりの魚が踊っていた。
まるで夢のように現実感がない。
「状態チェック、オールグリーン。無事に目覚めました」
きれいな声がすぐ隣から聞こえた。
神姫用のポッドユニットだろうか。
そこから一人の神姫が出てきた。
きれいな人。
わたしのメモリに入っている情報から、イーアネイラ・タイプの神姫と分かる。
彼女は、わたしににっこりと微笑みかけると、視線で正面を見るように促した。
そこには、一人の男性がいた。
眼鏡をかけた端正な顔。
わたしを自分の神姫にしたいと言ってくれた、あの人だ。
「あの……」
わたしが自分の思いを言葉に紡ぐより早く、システムプログラムがわたしに口走らせる。
「オーナーの登録をします。名前を音声、またはPCのキーボードから入力してください」
わたしの瞳は、目の前にいる端正な顔を捕らえている。
わたしを連れてきてくれた人。
わたしに違う世界を見せてくれると言った人。
「遠野貴樹」
わたしは、その人の名を初めて知った。
その名前はわたしの深い部分に滑り込み、刻まれた。
「あなたをなんとお呼びすればよろしいですか? 呼び方を入力してください」
「マスター」
答えは決められていたようで、すぐに返事が来る。
そして次は……
「わたしの名前を入力してください」
プログラムが口走らせる事務的な口調とは裏腹に、わたしの心はドキドキと高鳴っていた。
大きな期待、そしてもっと大きな不安。
23番でもなく、名無しでもない。お客さんが勝手につける一時の名前でもない。
ただひとつの、わたしの名前。
「ティア」
そっけないくらいの口調で、わたしの瞳に映る人は応えた。
わたしは事務的な口調で確認を取ると、すぐにそれは了承された。
意志が、起動プログラムから、わたしに戻ってくる。
「あ……」
わたしは改めて目の前の人を見る。
彼の名前は遠野貴樹。わたしの……
「マスター……」
「ティア、でよかったか? おまえの名前」
いいもなにも。
初めて確たる名をもらったわたしは、はじめて自分が存在していることを確認した。
何者でもなく、ティアという名の神姫として。
「そんな……わたしなんかには、もったいない名前です」
思ったことを口にすると、
「『わたしなんか』って言うな」
低い声で怒られた。
わたしはマスターに怒られてばかりいるような気がする。
わたしは少しおびえて、マスターを見上げた。
マスターは何ともいえない表情で、ふい、と目を逸らす。
……なにか、わたしはマスターの気に障るようなことをしてしまっただろうか。
わたしはおろおろとしながら、マスターを見上げるしかできなかった。
マスターは何を怒っているのだろう。
想像もつかない。
わたしはまだ、この人のことを何も知らないのだ。
でも、マスターに怒られるのは悲しくて、つらくて、情けないことのように思えた。
だから、わたしの瞳から、自然と滴が溢れてくる。
「なに泣いてるんだ」
「だ、だって……」
「……だからティアって名前にしたんだ。泣き虫だからな、おまえ」
ティア。涙の意味だと分かる。
意地悪な言葉をそっけないくらいの口調で言い放つマスター。
わたしは、どんな表情をしていいか分からない。
分からなくて、マスターのことも分からなくて、心に寄り添うこともできなくて、心細くて、また涙が溢れてきてしまう。
結局、泣きやまないまま、わたしはマスターに連れられて帰路についた。
マスターが意地悪なことを言ったのは、実は照れ隠しだったことを知るのは、ずっとあとのことだった。
□
「すまなかったな、変なところを見せてしまって」
「いや、いいよ。君の神姫がどんな子かもよく分かったし」
海藤の家の玄関。
帰り際に俺は、海藤に軽く謝った。
正直、ティアの態度にはまいった。
これでは俺が自分の神姫を泣かせているみたいではないか。
結局、ティアはアクアにずっと慰められていたが泣きやまず、いまも俺のカバンの中で泣き続けているようだった。
覚悟はしていたが、先が思いやられる。
「それにしても……」
見送りに来た海藤は、にやにや笑いを顔に貼り付けて、
「なんだかんだ言って、やっぱり君は世話好きのおせっかいだよね」
とのたまいやがった。
「ほっとけ!」
俺はクールで理知的なキャラで通っているのだ。
自分もそう望んでいるし、多くの友人がそういう印象を抱いてくれている。
しかし、付き合いの長い友人になると、それが化けの皮と言いやがる。
熱いハートを持った義理人情の男と思われているのだ。
そういう性格が悪いことだとは思っていないが、普段から俺はスマートでいたいと思っている。
暑苦しい奴だと思われるのは心外だし、御免だった。
俺達のやりとりを見て、海藤の肩の上で、アクアが笑っている。
いつかティアも、こうして笑えるようになるだろうか。
それはきっと、これからの俺次第なのだろう。
そう思うとなんだかとてつもなく大変なことのような気がしてきて滅入る。
だが、それを成し遂げたいと、切に願っている自分がいるのだ。
不機嫌な表情の俺に、海藤はハンカチか何かの包みを俺に差し出した。
「これは……」
「こっちで処分しようかと思ったけど、まあ、何かの役に立つかも知れないし」
それは、ティアの元の素体だった。
妙に生々しい感触の、小さな人型。
持っているだけで違法かも知れないその素体は、正直、処分してもらっても、かまわなかったのだが。
「もともと君の持ち物だ。君がどうするのか決めるのがいいよ」
「……」
俺はしばらくその包みを見つめた後、そっとバッグにしまいこんだ。
「迷惑をかけたな、恩に着る」
「そう思うなら、また遊びに来てよ。今度はティアも一緒に、さ」
気のいい友人はそう言って笑ってくれた。
◆
遠野の背中を見送りながら、アクアが口を開いた。
「マスター……あの二人、うまくいきますよね?」
「……アクアはどう思う?」
「うまくいくと思います、きっと。だって、遠野さん……あんなにティアのこと気にかけているのですもの」
海藤は難しい表情をしながら、アクアの言葉を聞いていた。
やさしいマスターには珍しく、厳しい目で、遠ざかる友人の背中を見つめていた。
「マスターは、そう思われないのですか?」
「わからない……わからないよ」
嘆息するように言葉をはく。
「二人の仲は、きっとうまくいくと思うよ。遠野はああ見えて世話好きだし、きっと長い時間をかけて、ティアを自分の神姫にしていくんだろうね。
大変だとは思うけど、その覚悟もできていたみたいだし……」
「だったら……」
「問題はあの二人じゃないよ。もっと他のことさ。
ティアは……普通の神姫じゃないんだ。
神姫風俗にいることが知られたら、どんなことになるか……見当もつかないよ。
何かあったときには、僕たちの思いもつかないような試練に晒されるかも知れない。
……それが心配なんだ、とても」
遠野の背中が見えなくなり、海藤はきびすを返した。
ゆっくりと門の中へ入る。
相変わらず厳しい表情を崩さない海藤に、アクアは話しかけた。
「それでも……わたしはよかったと思います」
「なぜ?」
「あんなに嬉しそうな遠野さん、初めて見ました。
いつも神姫のオーナーになりたいって言って、そのたびに寂しそうな表情をしていましたもの。
遠野さんにあんな嬉しそうな表情をさせたのは、間違いなくティアですから……」
「そうか、そうだね……今は、新しい神姫のプレイヤーが生まれたことを、素直に喜ぶべきだね」
「はい!」
いつも前向きなアクアに何度救われたことだろう。
この笑顔にあこがれて、友人たちは皆神姫を始めたが、誰よりもアクアの笑顔にメロメロなのは、マスターである自分だということを、海藤は自覚していた。
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