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見上げてごらん夜の星を


「ホント、この時期って嫌になるわよね。羽毛がべた付いて仕方ないのよ。空も飛び難いし」

部室の窓の外でざあざあと降り続く梅雨の雨を眺め、空子が愚痴を漏らす。
放課後、飛行機同好会部室兼作業小屋での一コマ。梅雨の湿った空気の所為か、空子の尾羽の振りも今一つ。
そんな空子の愚痴を聞いて、鈴鹿が両手のダンベル運動を止めて言う。

「空子先輩、今は高温多湿の梅雨の時期なんだ。今は梅雨が過ぎるまで我慢するしか無いですよ?」
「そうは言われてもねぇ? やっぱり鬱陶しい物は鬱陶しいのよ。鈴鹿さんだって雨の日は嫌でしょ?」
「まあ、確かにそうだな……」

逆に空子に問い掛けられた鈴鹿は尻尾を軽く揺らして頷く。
雨足の強くない雨が長々と続くこの時期は人間だろうがケモノだろうが、鬱陶しく感じるのは同じである。
ただ、人間とは違ってケモノの場合、全身を覆う毛皮が空気中の水分で湿って鬱陶しいと言う意味であるが。

「こう言う日は外での作業もやり辛い上に、悪天候では飛行機も飛ばせないからな」
「そうなのよね。飛行機を飛ばしてナンボのこの同好会も、雨の日は休部と同じなんだから。ねえ、ソウイチ?」

空子が作業台で新たな『ブルースカイ』の設計の真っ最中の部長へ話を振ろうと、その方向へ嘴を向ける。

「ふぇ! あ? ああ…」

――が、しかし、其処から返って来たのは素っ頓狂な声一つ。
見れば、声を掛けられた張本人は何が起きたのかも分かってない様なきょとんとした顔をしていた。
ぽかんとした表情を浮べつつも、惣一は自分が今さっき、睡魔に夢の世界へ連れ込まれ掛けた事を理解した。
その間の抜けた部長の様子に、空子は僅かに尾羽を広げつつ

「もう、ソウイチはまた徹夜したの? 授業中でも寝てたじゃない」
「ああ、昨日は朝まで『ブルースカイⅩⅡ』の改良点の洗いだしをしててな……うん、まだ眠い」

言う惣一の瞼は、今にもぴしゃりと閉じられそうにも感じられる。
昨晩は家での”部活動”に夢中になる余り、結局一睡もしないままに朝を迎えてしまった惣一。
当然、彼が寝ぼけ眼で迎えた翌日の学校の授業は本当に散々な物だった。
英先生には怒られ、そして泊瀬谷先生には苦笑され、おまけに帆崎先生からチョークを投げ付けられた。
そんな惣一の頭に巣食ったサン先生の姿の睡魔は今も尚、尻尾を振りながら惣一へ甘く囁き続けているのだろう。
無理しちゃ駄目だよ? 本能に身をまかせて見ようよ。ほら、眠ってしまえば楽になれるよ? と。
それを重く見た空子は、やれやれとばかりに溜息を付いて言う。

「仕方ないわね、ちょっとコーヒーでも淹れて来るわ。アンタの眠気覚ましのためのね?」
「ああ、済まない、白頭……」

作業小屋にある台所へ向かって行く空子の尾羽を見送って、惣一は再び製図ペンを手に取る。
そして惣一の頭の中で再度始まる睡魔と意識の壮絶な争い、意識は製図ペンを武器に睡魔へ必死に応戦する。
しかし、一睡もせずに一晩を明かした事によって、惣一の頭に巣食った眼鏡の睡魔は相当に手強い相手らしく。
眠るんじゃない、眠るんじゃないと気を持たせようとする惣一の意識を執拗に眠りへと誘う。

「風間部長、こう言う時は素直に寝た方が……」
「そうしたいのも山々なんだけど……中途半端で終わるのもなんだと思って……」

うつらうつらと頭で舟を漕ぎながらも設計図を書く惣一を前に、鈴鹿は困った様に苦笑する。
惣一の様子は、まるで食事の最中に眠気を催したイヌの子の様、いや、その物といっても良い感じである。
このまま放っておけば惣一は食器、もとい書き掛けの設計図に顔を押し付けて寝てしまいそうである。
そんな惣一を前に、鈴鹿は彼が寝ない様に声を掛けるべきか、それかそのまま放っておくべきかと考えたものの、
結局は結論が出せず、うつらうつらとする惣一の様子を見守るしか出来ないでいた。

「もう! こう言う時に限って何で上手く行かないのよっ!!」

突如、台所の方から作業部屋まで響くは空子のソプラノボイス。鈴鹿は声に耳を向け。惣一は一瞬だけ目が覚める。
憤慨する空子の声の様子からすると、どうやら肝心のコーヒーメーカーがハンストを起こした様である。
部室にあるコーヒーメーカーは元の持ち主の白先生に似て気難しいらしく、ちょっとした手順の違いでも直ぐにへそを曲げる。
へそを曲げたコーヒーメーカーに空子は苛立ち更に手順を間違え、そしてコーヒーメーカーも更にへそを曲げる。
なんと言う悪循環、これでは何時まで経ってもコーヒーは出来上がらない事だろう。

「仕方ないな、空子先輩は……風間部長、ちょっと手伝いに行ってきます」
「ああ、頼んだ…」

台所へ向かって行く鈴鹿の白黒の縞縞尻尾を見送って、
惣一は後もう少しでコーヒーが出来上がる事に安堵の溜息を漏らした。
鈴鹿は大きな身体に似合わず意外と繊細で、実は言うと白先生も顔負けな位にコーヒーを淹れるのが上手い。
彼女の手によって美味しいコーヒーが作られれば、あのコーヒーメーカーもさぞ満足顔であろう。
それで安心した所為か、余計に眠気が増したような気がする。これは拙い。

「う…寝るな寝るなって、俺……」

瞼を擦り、頭を掻き毟って必死に眠気を堪える惣一、しかし、睡魔と戦う彼を嘲笑う様に周囲の環境は睡魔へと味方する。
ざあざあと窓を叩く雨音は心地の良い子守唄。梅雨特有の湿った空気も眠りへ誘う絶好のスパイス。
何でこう言う時に限って、風が涼しく優しいのだろうか? なんでこう言う時に限って、周りが静かなのだろうか?
その心地よさに彼は一瞬だけ夢の中へ入り掛けては、眠っちゃいかんと顔を上げる。
かっくんかっくん、奇妙な体操は続く。しかし、そんな抵抗も長くは続かず、惣一の眠気は遂に限界へと達した。

「……ちょっとだけ寝ようかな?」

ポツリと漏らした惣一の独り言を、チャンスと取ったサン先生の姿の睡魔はすかさず睡眠許可申請書を作成。
その申請書を片手にした睡魔は惣一の起きようとする意識をあっさりと振りきって、脳の行動決定所へと提出。
起きようとする意識の願いも虚しく、申請書はあっさりと可決され、惣一の意識はゆっくりと眠りへと傾いて行く。
その意識の横で、サン先生の姿の睡魔が尻尾を振りつつニシシと勝ち誇った笑みを浮かべている事だろう。

「…おやすみ……」

だらりと下がった手からぽろりと零れ落ちる製図ペン。だけどそれを気にする余裕は無い、だって眠いから。
気が付けば惣一の小さな身体は丸まり、腕を枕にして寝息を立て始めた。
――白頭、コーヒー無駄にしてゴメン、などと頭の中で謝りながら。

*  *  *

「―――ふぇっ!?」

――暫く経って、眠っていた惣一はがくんと自分の身体が揺れる感覚で、驚きと共に一気に目が覚めた。
どうやら、眠っている内に少しずつ座っている体勢がずれて、なんかの拍子にそれが一気にガクンと来たのだろう。
その恥かしい様子を空子に見られてやいないかと、惣一はキョトキョトと周囲を見まわしてみる。

「あれ……? 誰もいない?」

しかし、見まわしたその先には空子の姿はおろか鈴鹿の姿も無く、
シンと静まり返った薄暗く雑然とした部室兼作業小屋の光景だけが広がっていた。
ふと、窓へ目を移し、その外の景色が暗くなっているのに気付いた惣一は思わず時計へと目をやる。

「げっ、もうこんな時間かよ!?」

抗議の声を向けられた古時計は惣一へ怒る事も無く、コチコチと音を立てながら今が深夜である事を知らせていた。
おいおい、まさかとは思うけど置いてかれたのか? ちょっと眠っただけなのにそれは無いだろ?
いや、白頭なら有り得る、折角コーヒーを淹れてあげたのにそれを無駄にされたのだ。アイツなら怒る、それも確実に。
多分アイツの事だ、起こそうとする鈴鹿さんに『好きに寝かせておけば良いのよ』とか言って勝手に帰ったに違いない。

「ったく…幾ら何でもさ、んっ…んぅ…ちょっぴし睡魔に負けた位で、何も言わずに帰る事無いだろうに……」

ぶちぶちと返答を期待しない文句を言いつつ背伸びした後、惣一は部室を見まわす。
テーブルの上には先ほど鈴鹿が運動に使っていたダンベルが一組。片付けずに帰ったのかよ、鈴鹿さん。
独り取り残された薄暗い部室。じじじ、と音を立てる蛍光灯のか弱い明かりが妙に不安を掻き立てる。

「さて、どうした物か…」

ひとときの寝床とした席を立ち、困った様に呟き一つ。
一頻り寝たお陰でサン先生の姿の睡魔も満足したのか、眠気は欠片も残ってはいなかった。
だが、こんな幽霊でも出そうな状況で設計を続ける気にはとてもなれない。それに設計はまた明日でも出来る。
一時、惣一はここで泊まる事も考えたが、その考えは直ぐに却下。この部室は風呂とトイレはあれど布団がないのだ。
こうなる事なら布団の一組でも持ってこれば良かったかと考えても後の祭、今は帰る以外に選択肢はない。

「こりゃ、帰ったほうが良いな」

そう言う訳で、惣一は取りあえず書き掛けの設計図もそのままに、
床に転がっていた製図ペンをポケットへ仕舞い、カバンと傘を手にとっとと自宅へ帰る事にした。
多分、今頃は家で父さんが心配している頃だろうなぁ、などと思いつつ。

「あれ? 雨が止んでるや……」

部室兼作業小屋を出て見上げた空には、じめじめと泣き続けていた雨雲の姿は既に無く、
代わりに、宝石箱の中身を一面に散りばめたような満天の星空がどこまでも広がっていた。
確か、部室のラジオで聴いた天気予報では『雨は朝まで降る模様』と言っていた筈である。

「ったく、天気予報もアテにならねーな」

用無しとなった傘を片手でくるくると回し、惣一はぼやきを漏らす。
しかし、彼が見上げる星々は煌くだけで何も答えない。まあ、星が答えたら答えたでそれはビックリだが。
そんな無口な天の川を見上げ、そう言えば今日は七夕だったかな? などと取止めの無い事を考えつつ、
惣一はカバンと傘を手に、部室を後にして帰路へ就く。

「さて、このまま真っ直ぐ学園を突っ切っていくか、それとも迷うの覚悟で大回りして行くか」

部室のある河川敷沿いから学園裏門へ続く階段を見上げ、惣一は腕組みをして難しい顔。
彼が悩むのは学園の向こう側にある自分の家まで、帰り道は何処を通っていくべきかの事。
何時もならばこのまま学園内を突っ切っていくルートが一番の近道で、尚且つ安全なルートではあるが、
もう定時制ですらも終わっている今のこの時間だと、流石に門が閉まっている可能性も高い。
しかし、かといって学園内を通らずに大回りして行くルートの場合、時間が掛かる上に下手すると迷う可能性もある。
しかも昼間の明るい時間ならばまだしも、周囲は完全に真っ暗闇の深夜、迷ってしまったら心細い事この上ないだろう。

「やっぱ、ここは安全なルートで行くとするか…」

暫くの逡巡の末、惣一が選んだのは学園内を突っ切るルートであった。
深夜の街中を闇雲に進んで迷ってしまうより、やはり通い慣れた所を通っていく方が危険も少ない。
まあ、もし門が閉まっていたとして、こっそりと門を乗り越えていけば良いだけの話。

「いや、ちょっと待て。もしベンじいに見つかったら如何しようか?」

しかし、ここで学園に長年勤めるイヌ族の用務員、真田 勉、通称ベンじいの事が思い浮かび、惣一は少し躊躇する。
惣一にとってベンじいは師匠の様なケモノで、飛行機を作り始めた頃は電気配線等の機械関係のイロハを教えてもらったり、
その他に祖父の道場を飛行機同好会の部室兼作業小屋へ改装する際、電気配線の工事を行ってもらうなど、
色々と返しても返しきれないほどの恩義があり、何かと頭の上がらない人物である。

「ま、その時はその時で、事情を話せばベンじいも許してくれるだろ」

しかし、同時に惣一とベンじいは互いに気心の知れた関係でもある訳で。
惣一はそんな調子で軽く決めてしまうと、とっとと学園の裏門へ続く階段を上り始めたのだった。

「案の定って所ですか…よっ…こらしょっと」

階段を上りきった惣一を待っていたのは、誰も通しませんと鋼鉄製の門を閉ざした学園の裏門。
しかし、それを予想していた惣一は何ら慌てる事無く横の柵へ手を掛けて、ネコ族顔負けの身軽さでひょいと乗り越える。
その姿はさながら『片耳のジョン』のライバル、ネコの怪盗ツキカゲを彷彿とさせる。
しかし、彼はツキガゲの様に尻尾も無ければ盗みもしないし、その上、背も高くは無いのだが。

「夜の学校に入るのって初めてだけど……かなり不気味だなぁ……」

学園内に易々と侵入した惣一は周囲を見まわし、どこか不安を入り混じらせた呟きを漏らす。
何時も見慣れている学園のコンクリート製の校舎、だけど夜の闇に支配された今は黒く、不気味に聳え立っている。
昼間なら何てこと無い暗がりさえも、闇の濃さを増した今は何か恐ろしいモノが潜んで居る様にすら感じられる。
一瞬、あの窓にお化けでも居るんじゃないか?と嫌な物を想像してしまい、惣一はぶるるっと背を震わせる。
だけど、だからと言って何時までもこの場で立ち尽くしている訳にも行かない。

「ま、まあ、別に何かを取りに校舎へ入る訳でもないし、ただ通りすぎるだけの事じゃないか。うん」

惣一はわざと大きく独り言を言って心を奮い立たせ、学園の中を進み始める。
何時もなら、暇を持て余した生徒でわいわいと騒がしい中庭も、
部活に励む部員たちの熱気を感じさせる校庭も、
腹を空かせた生徒達でにぎわう購買部前も、
今はシンと静まり返り、月と星空の光を受けて淡く輝いているだけ。
その光景は何処までも幻想的で、同時に恐ろしく不気味でもある。

「今宵、星のかけらを探しに行こう~、舟はもう銀河に浮かんでる~」

気がつけば、惣一は闇に対する恐怖心を紛らわす為、歌を口ずさみ始めていた。
幼稚園の頃に母親が良く口ずさんでいた物。幼心にどこか幻想的な雰囲気を感じさせるこの歌が惣一は好きだった。

「願い忘れたことがあったから~、もう一度 向かい合わせで恋しよう~♪」

それが恋愛の歌だと惣一が知ったのは最近の事、空子の事を意識し始めた頃であった。
しかし、それを知った惣一はこの歌がもっと好きになった。まるで自分と空子の事を歌っている様だったから。
以来、惣一はどこか心細くなった時、自分自身を励ます為にこの歌を口ずさむ様になった。

「二人、夏の星座をくぐり抜けて~、光の波間に揺られてる~♪」

手を伸ばせば届きそうな星空の下、人気の無い静かな学園を惣一のアルト・ボイスが響き渡る。
独奏会の観客は空に輝く星々と上弦の半月だけ。彼らは歌を演出する様に惣一へ淡い光を注がせる。
何時しか、惣一の心から闇に対する恐れは消えて無くなり、代わりに星空の下で歌う事を楽しむ様になっていた。

「話し足りないことがあったから~――うわっ!?」

しかし、そんな独奏会を唐突に終わらせたのは、惣一の顔を照らす懐中電灯の不躾な光。
驚きつつその方へ顔を向けてみると、其処に居たのは懐中電灯を手にした作業服姿のイヌのケモノの姿。
彼は酷く驚いた様に尻尾を股の間に丸め、惣一へ声を掛ける。

「だ、誰だい! こんな夜中の学校で歌っている子は?!」
「あ、ゴメン、ベンじい……って、あれ? 違う?」

一瞬、惣一はそのケモノの事をベンじいだと思ったのだが、
光に慣れた目で良く見てみると、そのケモノは毛並みこそ同じだがベンじいに比べて大分若く見えた。

「ベンじい?……確かに僕の祖父はベンじいって呼ばれてるけど……君、一体何者なんだい? ひょっとしてお化け?」
「い、いや、俺はお化けじゃなくてここの生徒です。ちょっと近道しようと思って通ってただけで…。その、ゴメンナサイ」
「な、なんだぁ…誰も居ない筈の学校で聴き慣れない歌が聞えて来るもんだから、ついお化けかと思っちゃったよ…」

惣一がお化けじゃないと知った彼は思わず安堵の息を漏らし、丸めていた尻尾を軽く振って見せる。
……にしても、話からすると目の前の彼はベンじいの孫なのだろうか? 惣一は心の中で首を傾げる。
まあ、多分、彼はベンじいの孫で、この日は何かの都合で来れなくなったベンじいの代わりを彼がしているのだろう。
それに、良く見れば作業服の胸の辺りに『真田』と名前が刺繍されている様だし、その可能性が高いかもな。
そう、惣一は頭の中で彼の事をそう言うものだと勝手に結論付けた。

「いやぁ、今日が僕にとって初めての夜勤なんでね。 
ここの学校、結構古くからあるでしょ? だからお化けが出るって噂が絶えなくてね。
それでお化けが出やしないか本当、ビクビクしてたんだよ……」

言って、彼はどこか恥かしそうに尻尾を揺らして笑って見せる。
確かに、この佳望学園は創立から軽く百年は越えている。多分、その手の噂が一つや二つあってもおかしくもないだろう。
しかし、それでもベンじいの孫ともあろう人がお化け程度でビクビクしているのが妙におかしく思えて、
惣一は思わずクスリと笑いを漏らしてしまった。

「あ、君! ちょっと笑わないでくれよ…君の歌が聞えて来た時、僕、本当に気絶しそうなほど恐かったんだから…」
「いや、ワリィワリィ。大の大人がお化けで怯えているのが余りにおかしくてさ」
「もう、だからといって笑う事無いだろ? 一応、僕は自分が臆病な事を気にしているんだから」

謝る惣一へ彼は怒った様に頬をプウッと膨らませた後、急に深い溜息を漏らして言う。

「でも実際、僕は笑われても文句言えないんだよね。よりによって夜勤の用務員が夜の学校で怖がってるなんて……。
初日からこんな調子じゃあ、僕、この仕事をずっと続けて行ける自信が持てないよ……」

もう一度溜息を漏らす彼の尻尾は、彼の自信の無さを表す様に力なくだらりと垂れ下がり、
そしてその耳もまた、彼の今の不安を表すかの様にぺたりと伏せられていた。
今の彼にとって、空に煌く天の川も淡く輝く月も、夜に対する不安を助長する物にしかならないようである。
一頻り溜息をついた後、彼はふと顔を上げて、惣一へ言う。

「ねえ、君は…えっと……」
「惣一です。風間 惣一」
「じゃあ、惣一君。君はこんな夜遅い時間でも平気で歩いていた様だけど……怖くないのかい?」
「ん~……ここで怖くないって言うと嘘になるな。
実は言うと俺も、さっきまであの影から何かお化けでも出るんじゃないかとちょっぴしビビってましたし」
「なんだ、って事は君も僕と同じじゃないか」

言って照れ笑いする惣一に、彼も尻尾を揺らしながら苦笑する。

「ならさ、惣一君はこう言う時、どうやって不安を紛らわせてるかな?
ちょっと、次の夜勤の時の参考にしたくてさ」
「ん、そうだな……こう言う時はさっき、俺がやってた様に何か歌えば良いんですよ」
「歌う……例えば、どんなのを?」
「まあ、とにかく、自分が好きだと思っている歌なら何だって良いかと」
「なるほど…」

惣一のアドバイスに彼は一頻り頷いた後、軽く息を吸って歌い始める。

「見上げてごらん 夜の星を
小さな星の 小さな光りが
ささやかな幸せを うたってる」

彼が歌い始めたのは今から四十六年前に放映された映画の主題歌。
歌い始められてから長い時間が経ち、歌惣一達が生きる現代においても歌い継がれている名曲でもある。
彼にとってこの歌が余程好きなのだろうか、その歌声には何処までも感情が篭り、
まるで空の星々の一つ一つに聴かせるかの如く遠吠えしている様にも思える。
その熱唱を前に、惣一は思わず手を叩き、彼を励ます。

「上手い上手い、その調子だよ!」
「そうかい? それならいっしょに歌ってくれるかな?」
「良いぜ。その曲なら俺も知ってるしな」

彼の誘いに乗って、惣一もサンハイと彼の声に合わせて歌い始める。

『見上げてごらん 夜の星を
小さな星の 小さな光りが
ささやかな幸せを うたってる』

独奏から二重奏となった歌を聴くのは物言わぬ校舎と歴代校長の銅像。そして空に輝く星々と上弦の半月。
静かな中庭は二人だけのステージ。淡く注ぐ月明かりは二人を照らすスポットライト。
その中を惣一のアルト・ボイスと彼のバリトン・ボイスが交じり合い、えもいわれぬ響きをみせる。

『見上げてごらん 夜の星を
ぼくらのように 名もない星が
ささやかな幸せを 祈ってる』

歌を歌う事がこんなに楽しいと感じた事があったのだろうか?
見上げる星空がこんなに綺麗だと思った事はあったのだろうか?
夜の学校がこんなに幻想的に見えた事があったのだろうか?

『手をつなごう ぼくと
追いかけよう 夢を
二人なら 苦しくなんかないさ』

歌声と共に不安は氷が溶ける様に消え失せ、彼の尻尾は星々に見せる様に左右へ振られる
例えあの暗がりにお化けがいたとして、あの窓の骸骨が動いたとして、今は自分の歌の観客、恐れる事は何も無い。
むしろ、ここまでのびのびと歌える事が楽しく、そして嬉しくもある。夜の学園は何と素晴らしい物か。
そして、星空の下の二重奏は、夜の学園中へと余す事無く響き渡って行った。

「なんだか君の言っている通り、歌っていると不安が紛れてくるような気がするよ」
「だろう? でも、コレをやるのは一人での時にしろよ? 端から見ると馬鹿みたいに見えるから」
「はは、そりゃ言えてる」

そして、歌いおわった惣一と彼は互いに笑い合いながら学園の正門へと到着する。
何時までも歌っていたかったが、惣一も彼も本来の目的を忘れる訳には行かなかった。

「有難う。君のお陰で、僕、この仕事を続けていけそうな気がするよ」
「ああ、コレからも頑張れよ? また一人が不安に感じた時は俺の言った通りにするんだぜ?」
「うん、そうするよ! とにかく有難う。このお礼は何時か必ず!」
「礼なんて良いよ。勝手に夜の学園に入った事を見逃してくれただけで充分だ」
「そうかい? なら、後で何かあった時は遠慮なく僕に言ってくれよ。何でも手伝ってあげるから」
「はは、手伝える事があったならな」

尻尾を振りながら言う彼に惣一は苦笑して見せた後、ふと、思い出したかのように言う、

「あ、それと、今夜の事は皆には内緒にしてくれよ?
勝手に夜の学校に入った事がばれると、後で先生が怖いからな」
「大丈夫、僕は口が堅いから心配しなくても良い。絶対に内緒にするよ?」

言って、彼はマズルの先へ指を当てて右目をウィンクして見せる。
恐らく、このウィンクは彼の約束する時の癖なのだろう、そう思いながら、惣一は確認する様に頷いた。

「それじゃ、また明日!」
「ああ、また明日!」

開けてもらった正門を通った惣一は彼へ手を振って別れを告げると、気分良く歩き始める。

「見上げてごらん、夜の星を~♪

星空を見上げながら歩く惣一の口から漏れるは、彼と共に謡った歌。
……気がつけば、惣一はこの歌も好きになり始めていた。

※  ※  ※

「―――起きてください。起きてください、部長」
「小さな星の…小さな光りが…むにゃ…――…ふみゃっ!?」

唐突に身体を揺り動かされ、惣一は驚きと共に身体を跳ね起こす。
寝ぼけ眼で周囲を見やると、其処は何時もの飛行機同好会の部室兼作業小屋の中だった。

「やれやれ、やっと起きましたか…。風間部長、コーヒー、出来ましたよ?」
「全く、アタシ達が折角コーヒーを作ってあげたのに、ソウイチはなに寝言で歌っちゃったりしてるの?」

左脇の鈴鹿が苦笑しつつコーヒー入りのマグカップを惣一の前に置くのを前に、
右脇の空子はやれやれと翼手で大げさなジェスチャーを取りながら呆れた感じで文句を言う。

「……あれ、ベンじいは? 学校は?」
「は? ベンじい? アンタ、何を寝ぼけてるのよ? 夢でも見たんじゃない?
と、そんな事より。ソウイチ、アタシ達が淹れたコーヒー、早く飲まないと冷めちゃうわよ」
「あ、ああ、ワリィ…」

あれは只の夢だったのだろうか? それにしては妙にリアルな夢だったな。などと思いつつ、
惣一は眠気覚ましのコーヒーを啜る。恐らく鈴鹿が淹れてくれたのだろう、コーヒーは適温で程よい味であった。

「なあ、白頭。あれから俺、どれくらい寝てたんだ?」
「ん? そうね…コーヒーを淹れている間くらいだったから、10分も経ってないかしら?」
「……あれ? それくらいしか経ってないのか?」
「そうよ? 如何しても疑うんだったら時計を見れば良いじゃない」

空子に言われて惣一が古時計へ目をやると、彼は無言で空子の言っている事が正しい事を知らせていた。
妙に腑に落ちない気分を感じ、惣一は頭をぼりぼりと掻きつつ、なに気にポケットをまさぐる。

(ありゃ? ポケットに仕舞った筈の製図ペンが……無い?)

その製図ペンは去年の誕生日祝いに父親から貰った「SOUITH」のロゴが刻まれた特注品。
無論、惣一にとっては大のお気に入りの品。それが万が一、無くしてしまったら大変な事である。
ひょっとしたら夢の中でポケットの中に仕舞ったつもりで、まだ床に落ちてるんじゃないかと直ぐ様、探してみたものの、
部室の床や椅子の下、テーブルの下を探しても、必死な惣一を嘲笑うかのように製図ペンが見つかる事は無かった。
無論、ごそごそと何かを探し始めた惣一に気付いた空子は、首を傾げながら問いかける。

「如何したの? さっきからごそごそと…何か落としたの?」
「いや、何時も使ってるペンが見つからなくてな……」
「ソウイチ、テーブルの下とか、ちゃんと探したの?」
「ああ、でも見つからないんだよ……何処行ったんだ?」
「風間部長、私も一緒に探しましょう。ひょっとしたら変な所に転がっていってる事もありますから」
「仕方ないわね…だったらアタシも探すわ」

空子と鈴鹿も加わり、行方不明となった製図ペンの捜索が再開された物の、
結局、三人が何処を如何手分けして探しても、行方知れずとなった製図ペンは見つからないままであった。

「しっかし、製図ペン、何処行ったんだろうな……」
「もう良いじゃない、製図ペンは明日ゆっくりと探しましょ? 多分、部室の何処かに転がってる筈だしね」
「……そうだな。別に誰かに盗られる訳でもないし、探すのは明日でもいっか」

あれから、製図ペン捜索を明日へ持ち越す事に決め、片付けをした惣一達は部室を後にする。
無論、キチンと鍵をしておくのも忘れない。
そう、この学園には鍵をしないで置くと勝手に部室に上がりこむ人が多いのだ。

「風間部長、空子先輩。どうやら雨、上がったみたいですよ?」
「あら本当ね。星空が綺麗じゃない。やっぱり天気予報も当てにならない物ね?」
「ああ、そうだな……」

鈴鹿に言われて二人が空を見上げると、
さっきまで雨が降っていたのが嘘の様に、雲一つ無い満天の星空が広がっていた。
それは惣一にとって、まるであの時の夢を再現した様にも見え、嬉しそうに言う白頭へ生返事を返すしか出来なかった。

「にしても、雨が止んで良かったわ。あんなじめじめした天気の中で歩いて帰りたく無いもの」
「確かにそうだな。あの雨の中では流石に帰る気は起きませんよ。泥で毛皮が汚れたら後が大変だ」

帰り道、惣一は自分の頭ごしの空子と鈴鹿の談話を聞き流しながらぼんやりと考える。
本当に、あの時に見た夢は只の夢だったのだろうか?
もし夢じゃ無いとするなら、あの時に出会ったベンじいの孫?は一体誰なのだろうか?
考えてみれば考えるほど、逆に分からない事が多くなる。いっその事、考えない方が楽なのだろうか?
と、惣一が物思いに耽っているうちに、三人は岡の上の佳望学園の門へとさしかかる。

「こんな時間でも学園の門は開いてるのね?」
「ええ、定時制の学生の為に学園の門は深夜の十一時まで開いているそうですよ?」
「へぇ…学園に定時制があるなんて知らなかったわ。……ねえ、ソウイチ? アンタは定時制があるのを知ってた?」
「あ、ああ……以前にベンじいから教えてもらったからな」

惣一の答えに、空子はふぅん、と冷静に返しながらも何処か少し悔しそうにに尾羽を広げて見せる。
まあ、定時制がある事を彼女だけが知らなかったのだから、当然と言えば当然か。

「おや? 其処に居るのは惣一君に空子さんと鈴鹿さんじゃないですか。今夜は部活からの帰りで?」

惣一が名前を出したからなのだろうか、
ちょうど校内の見回りしていたベンじいが惣一達に気付き、声を掛けてくる。

「こんばんわ、ベンじい。今夜はもうちょっと早く帰りたかったんだけど、ソウイチがね?」
「おいおい、俺の所為にするのかよ……?」
「当たり前じゃない、ソウイチが眠ったりしなきゃもうちょっと早く帰れたはずよ?」
「だからってなぁ……」

さっきの事の当て付けの様に自分の所為にする空子へジト目を向けながら、惣一は不満ありありに漏らす。
そんな二人の微笑ましい様子に苦笑しつつ、ベンじいは空を見上げて言う。

「しかし、今夜は良い天気になりましたな。こういう夜は初めての夜勤の日を思い出しますよ」
「…その時も今日の様に綺麗な夜空だったの? ベンじい」
「ええ、そりゃあもう、あの時の空は小粒の宝石を空一杯に散りばめたような綺麗な夜空でした」

それも夏の大三角形も簡単に見付けられる程でしたよ、と言った後、
ベンじいは何処か恥かしそうにケモ耳の裏を掻きながら言う。

「あの頃の私は、どっちかと言うと臆病な方でして、情け無い事にお化けとかは大の苦手だったんですよ」
「へぇ…今の何事に対しても落ち付いているベンじいから想像出来ないわね……」
「確かに、私にも想像出来ないな…ベンじいにもそんな頃があったとは」
「まあ、そうでしょう。何分、あの頃はかなり昔の事でしたから…」

空子と鈴鹿へ照れ笑いを浮べつつベンじいは答える。

「あの日、若い頃の私――勉は夜の暗がりに怯えながらも、何とか職務を果たそうと必死でした」

そして、夜空を眺めながらベンじいは静かに語り始めた。

ひょっとしたらお化けが出るんじゃないか? それとも幽霊が出るんじゃないか?
そんな不安に怯えつつも、私は懐中電灯のか細い明かりを頼りに、学園の施設などを見て周っていた。
時折、懐中電灯の明かりに寄って来た蛾を、人魂だと勘違いして悲鳴を上げそうになったり。
懐中電灯の明かりに不意に照らし出された歴代校長の銅像を前に、思わず気を失いそうになったり。
理科室の窓際に置かれている骨格標本が動いている様に見え、パニックになりそうになったり。
そんな事がある度に、私はこの仕事は自分には向いていないんだと言う想いを募らせていった。

「へ? って事はベンじいはその時、用務員を辞めようと思ってたの?」
「ええ、今思えば、我ながら情け無い話ですよ」

それでも、私は一応は自分に与えられた職務を果たそうと、勇気を振り絞って見回りを続けた。
しかし、深夜の学園の中を自分独りだけと言う状況に、根っこから臆病な性格の私の勇気はそう長くは持たず、
次第に私の心の中で、こんな場所に居るより早く家に帰って寝てしまいたい、と言う想いが強くなってきていた。

「確かに、誰も居ない夜の学校で自分独りだけ、と言う状況は臆病でなくともきつい物があるな」
「それが臆病な人となったら…仕事を放り出して帰りたくなるのも何となく分かるわ」
「まあ、その時の私もそんな気分だったと思ってくれれば」

空子、鈴鹿とベンじいとのやり取りを横に、惣一は何か引っ掛かるものを感じていた。
そう言えば、あの夢に会ったベンじいの孫?もかなり臆病だった様な? と。
そんな惣一を置いて、ベンじいは更に話を続ける。

「そんな感じで、もう帰ろうか、いや、何とか頑張らなければ、と心の中で葛藤しつづけていた時の事でした。
―――何処からか、誰かの歌声が聞えてきたのは」
「歌声?」
「ええ、最初は自分自身の恐怖心が見せた幻聴かと思いましたが。
どう聴いて見ても、それは聞き間違い様も無く、現実に聞えて来る歌声でした」
「何だか…怖いな。それは」
「ええ、そりゃあ恐ろしかったですよ。何せ今の学校には自分以外の誰も居ない筈でしたから。
もう、お化けかその類の物じゃないかと私は戦々恐々でした。しかし……」

しかし、こう言う時、人間もケモノも不思議な物で、
恐ろしさが限界を超えると、逆に正体を探ってやろうという考えが浮かび始める物。
幽霊の正体見たり枯れ雄花、と言う言葉があるから、ひょっとすれば大した事が無いかも、と言う想いもあったのだろう。
とにかく、意を決した私は懐中電灯を握り締め、歌声の正体を確かめるべく歌声が聞えて来る方へと足を向けた。

「若い頃のベンじいも良くやるわねぇ……アタシだったら、もう何も見なかった事にして逃げ帰るわよ?」
「私は…そうだな、取りあえず近づかずに置いて、後でこんな事があったと報告する様にするかな?」
「まあ、普通ならばそうするのが当たり前ですな」

ベンじいと空子、鈴鹿の話を聞いていた惣一は何も言えなかった。
もし、ベンじいの話が正しいとするなら、それはどう考えてもあの時の夢に似た状況である。
こんな偶然、他にもあるのだろうか? そう、惣一は考えては見たが、結論が思い浮かぶ筈も無かった。

「ねえ、それで向かっていった先で何があったの?」
「私も気になるな…それで、歌声の正体は何だったんだ?」

まあ、そんなに急かさなくとも話しますよ、と話の続きをせがむ二人へ笑いかけた後、ベンじいは話を続ける。

歌声の正体を確かめに向かった私が見たもの、それは幽霊でもお化けでもなく、中等部と思しきイヌの少年であった。
彼へ如何してこんな所で歌っていたのかと問い質してみると、何も明日の音楽の歌唱のテストの為に練習していたとの事。
驚かせてゴメンナサイと謝る彼を前に、私は怯えていた自分が馬鹿らしく思えてきたのだった。

「なぁんだ、本当に幽霊の正体見たりなんとやらって奴だったのね?」
「それで、その少年は如何しました? まさか…気がついたら消えてしまっていたりとか?」
「いえいえ、そんな事はありませんでしたよ。 ちゃあんと親御さんに迎えに来させましたよ。
まあ、そんな事もあって、私は恐い物なんて調べてみれば意外に大した事無いと思える様になり。
それ以来、何にも怯える事無く、夜勤をやれるようになったと言う事です」
「なんだ…本当、如何なるかと思ったよ…」
「はは、凄い展開を期待させてしまって済みませんね、惣一君」

なぁんだ、と安心するやら残念がるやらな空子と鈴鹿を余所に、惣一は別の意味で安堵の息を漏らしていた。
結局、あの夢は只の夢だった訳で。それがたまたま、ベンじいの昔にあった出来事に似ていただけの事だった。
そもそも、夢の中でベンじいの若い頃へタイムワープしていた、なんて事、有り得る訳無いよな。
と、惣一は安心すると同時に、少し残念な気分も感じていた。

「さて、年寄りの昔話はここまでにしておきましょう。
私なんかの長話で皆さんを引き止めていたら、それこそ皆さんの親御さんに申し訳無いですしね」
「あ、ああ、そうだな…」
「ベンじい、面白い話、聞かせてくれてありがとう」
「ベンじい、また何か面白い話があったら、今度はゆっくりと聞かせて欲しい」
「ええ、その時はご期待に添える様にしますよ」
「それじゃ、ベンじい、また明日ね!」
「それでは、また明日」

それぞれ別れの挨拶を告げて行く空子と鈴鹿に遅れまいと惣一が行こうと所で、
尻尾を揺らすベンじいが惣一の肩を叩く。

「ん?…なんだよ? ベンじい…」
「惣一君、忘れ物ですよ」
「……え? 忘れ物?――ってコレは!?」

ベンじいから渡された物を前に、惣一は驚きを隠せなかった。
そう、それは無くなった筈の、「SOUITH」とロゴが刻まれているお気に入りの特注製図ペンだった。
只、一つだけ違う事を挙げるとすれば、無くす前の物はそれこそ新品同様だったのだが。
ベンじいから渡された物は、まるで何十年も経ったかの様な状態であった。

「ベンじい、コレは一体……?」
「あの時、言ったじゃないですか。『絶対に内緒にするよ?』って」

驚く惣一に向けて、ベンじいはマズルの先へ指を当てて右目をウィンクして見せる
そう、それは紛れも無く、あの時、夢の中で会った彼が別れ際に見せた物であった。

「いやいや、話している最中に急にその事を思い出したもんで、話のオチを変えるのに必死でしたよ。
何せ、背の低い人間の少年と言ったら、どう考えても君の事を連想してしまいますからね」

言って、尻尾を揺らしながら昔からの親友に向ける様に笑って見せるベンじい。
この時、惣一は自分の頭の中で、未完成だったパズルに欠けていた最後のピースがぱちりとはまり込むのを感じていた。
確か、ベンじいの祖父の名は勉三(べんぞう)と聞いた気がする。多分、その祖父もベンじいと呼ばれていたのだろう。
それにそう言えば、飛行機同好会を始めた一番最初の頃、機械工学の機の字すら知らなかった惣一へ、
誰に頼まれた訳でもないのに、率先してベンじいが機械の事を教えてくれる様になった事を思い出す。
彼は『あの時』の約束をキチンと守っていたのだ、あの時に交わした、『何でも手伝ってあげるから』と言う約束を。
イヌ族はケモノの中で一番義理堅いと聞く。そう、大切な誰かとの約束は、時が幾ら経とうとも必ず守るのだ。

「ソウイチ~! 何ぼさっとやってるの! 置いていくわよ~!」
「風間部長! 早く行かないと市電の時間に間に合わないですよ~!」
「ほら、惣一君、遅れている君の事を連れの子達が待ってますよ。早くお帰りなさい」
「あ、ああ……」

ソウイチの感慨を打ち消して、門の向こうから聞えて来るのは待ちくたびれた空子と鈴鹿の呼び声。
それを聞いて、何時もの用務員の顔へと戻ったベンじいに促され、惣一は学園の正門を後にする。

「もう、ソウイチは何やっていたの? 忘れ物でもあった?」
「そうですよ、風間部長。もう夜も遅いと言うのに、何をやってたんですか?」
「ああ……いや、何だか無くしたと思ってた製図ペンをベンじいが拾ってくれてたらしくてな。
道理で部室に無いと思ったら、知らない内に校内に落としてたみたいなんだよ、探しても見つかる筈無いよな」

惣一は一瞬、二人へあの出来事を話そうとしたのだが、直ぐに思いなおして誤魔化す事にした。
嘘は言ってはいない。ベンじいが校内で拾ったのは事実である。只、何時拾ったかに付いてだけ異なるだけで。

「何と…それは見つからない訳だ。拾ってくれたベンじいには感謝しないと行けませんね」
「へぇ、良かったじゃない。ソウイチ、ちゃんとベンじいにはお礼言ったの?」

ああ、勿論だよ。と二人へ返し、惣一は空子と鈴鹿と共に帰路へと就く。

多分、あの星空の下で起きた事を二人に話した所で、信じてくれる筈も無いだろう。
あの不思議な出来事は、俺とベンじいの心の中へそっとしまっておく事にしよう。
その事を誓う様に、惣一は彼と謡った歌をそっと口ずさむ。

「見上げてごらん 夜の星を
小さな星が 小さな光が
ささやかな幸せを うたってる」

そんな彼の姿を、空に輝く小さな星々は静かに、そして優しく見守っていた。

――――――――――――――――――――――了――――――――――――――――――――――