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カンガルーボクサー


 カンガルーと言うのは、軽快なフットワークと、驚異的な瞬発力を持っている場合が多い。
 控え室でパイプ椅子に座りながら、がっくりと項垂れている彼もそうだった。
 足元にはボクシンググローブが投げ出され、顔には毛皮の上からも分かる青痣が出来ていた。
 普段はピンと立った耳も、今は力なく折れ曲がり、カンガルー特有の長い口先を、もごもごと動かすのは、彼が泣きそうなときに見せる仕草だ。
 椅子から程近いところにあるテーブルには、飲みかけのミネラルウォーターが置かれている。彼はそれを取ると、残りを一気に飲み干した。
 本当なら自棄酒でもしたいところだが、以前酔っ払った挙句に一般人を殴りそうになった事があるので、それ以来酒の類は止められていた。
「チクショー」
 彼は一言呟くと、長い尻尾でパイプ椅子を跳ね飛ばしながら立ち上がり、洗面台へと向かう。
 水で顔を数度洗ったあと、自分の顔を鏡で確かめてみると、左の頬に痣が出来て、圧迫された目が細くなっていた。
 今頃対戦相手はインタビューを受けてるのだろうか。格下に買って人気が出るのだから、さぞ楽しい仕事だろう。
 一応強いことは強いが、その中途半端な強さのせいで、格上とばかり対戦させられる彼にとっては、嫌悪感しか浮かんで来ない。
 花形選手と戦っても、観客をある程度楽しませる試合が出来て、なおかつ本当に強い相手を倒せるほどの実力はない。
 それだから、格上の相手としか対戦させてもらえないのだ。やろうと思えば出来るかも知れないが、すでにそういう空気が出来上がってしまっていた。
 花形選手との試合の方が、遥かにファイトマネーは高い。そんな仕事に恵まれているのに、安い格下と試合すると、世間には悪い噂が流れてしまうのだ。
 金には困らないが、今の状況は彼にとって、望ましいものではない。
 彼は忌々しげに、床のボクシンググローブを睨むと、大きな足でそれを踏み付け、壁に向けて蹴飛ばした。
 鼻をフンッ、と鳴らし、洗面台の横のハンガーに掛けられたジーンズとTシャツに着替え、その上になコートを羽織り、顔を隠すように襟を立て、帽子をかぶる。
 もう秋になったとはいえ、未だ蒸し暑い日が続いている。本音を言うと、試合後の熱くなった体で、こんな暑苦しそうなコートを着込む気になれない。
 だが、一般人に顔を見られて試合の感想を聞かれるような事態は、精神衛生上、極力避けねばならない。
 彼はゆっくりとドアを開け、挙動不審気味に廊下の中を見回しながら歩き始める。
 ここはまだ関係者以外立ち入り禁止だが、以前有名な選手との試合があった後、控え室まで乗り込んで、敗者へのインタビューを敢行しようとした、マナーの悪い雑誌記者がいたため、あまり安心は出来ない。
 力強く柔軟な脚を、スプリングの様に使って、足音ひとつ立てずに廊下を歩いていく姿は、まるで忍者のそれだ。
 周囲の気配に細心の注意を払いながら、普段誰も使う事のない、廊下の片隅に設置されたトイレへと入っていく。
 ここの窓は、少し高い位置に設置されているが、カンガルー一匹でも通れる大きさがあるので、試合に負けた後の逃避行の際に、よく利用する。


「よっと……」
 左足で床をけると同時に、窓際の小便器に右足を乗せ、軽やかに窓へと飛び移る。
 こんな軽快な動きが試合中にも出来たらいいと思うが、常に状況の変わり続けるのが試合であり、そんな中でも自分の能力を完全に出し切れる奴が、天才と言われるのだ。
 彼は少なくとも、そう言った部類の人種ではなかった。
 「ちっ」と小さく舌打ちしながら、窓から飛び降りる。あのトイレは2階にあるので、高さもそれなりだが、強靭なカンガルーの足腰なら、着地の衝撃をほぼゼロに出来た。
 音もなく道路に着地した彼は、試合会場から逃げるように路地裏へと走っていく。
 入ってすぐの3階建てのビルの角を右に曲がり、次の信号を左に曲がったところで、道路脇に停められた、赤いスポーツカーを見つけた。
 ドアをノックすると、カチャリと音がして鍵が開く。彼は逃げ込むようにその車の中に入った。
「お疲れ様。試合、カーナビで見てたわよ」
「そんな下らねぇもん見てる暇があったら、深夜アニメでも見てやがれ」
 助手席に腰掛けると同時に、隣から聞こえる女の声に、彼は不機嫌そうに返した。
 帽子を足元に投げ捨てながら、隣を見ると、黒い髪をした人間の女が、カーナビに映る勝利者へのインタビューを見ていた。
 流行の黒くセクシーなシャツと、太ももをタイトに締め付けるジーンズは、プロポーションに自信がなければ着こなせるものではない。
 だが、そんな見慣れた姿は気にせず、彼は毛皮に包まれた指をカーナビへ伸ばし、チャンネルをバラエティに変える。
「インタビューなんか、試合そのものよりも見る意味がねえよ。
いい加減、俺がいるときはボクシングの話題はやめてくれよ。
俺は世界で一番ボクシングが嫌いなんだ。
これ以外じゃ食っていけねぇから続けてるだけで、本当なら今すぐにでもやめてぇんだよ」
 女性は彼の言葉に呆れたのか怒ったのか、端正な顔立ちを、眉間に皺を寄せて歪めながら、やれやれと言った口調で呟く。
「分かった分かった。もうボクシングの話は無し。
とりあえず、家に帰ってのんびりしましょう。
橋を渡った辺りでピザの宅配をお願いして。そしたら家に着いた後待たされないから」
 女物の小ぶりな鞄から携帯電話を取り出し、カンガルーに渡しながら、彼女は少し乱暴に車をスタートさせる。
 段差をし利用して、わざと車体を揺らしてやると、背の高いカンガルーは天井に頭をぶつけ、「あいてっ!」と呟いた。
 そんな反応にくすりと笑いながら、左手でスロットルを動かし、ギアチェンジさせて走り出す。
 オートマ車は風情がないと、頑なにマニュアル車の購入を押し通しただけあって、その手つきはとても手馴れたもので、この年代の若い女性には珍しい。
 難点を言うと、彼の方はオートマ限定免許しか持っておらず、一人でドライブが出来ない事だ。
 赤い車体が煌びやかな夜の街の景色を反射しながら、郊外へと走っていく。途中にある長い橋に差し掛かったところで、カンガルーは言われたとおりに電話をかけた。
「……ええ、トッピングはブラックオリーブとアンチョビ、それからイタリアンソーセージにバジルも。
耳までチーズが入ってるとか、そういうのはなくていいっす。あ、住所と電話番号は……」
 いつもぶっきらぼうな言動が多いカンガルーだったが、電話での注文の時などは、何故か結構丁寧な言葉遣いになる。
 人間よりも小さく、四本しかない指で、いつも頼むトッピングを数えながら、注文を終えると携帯電話を女性へと差し出す。
「4500円。俺は今日頑張ってきたから、お前が払えよ」
「はいはい。あなたの頼むピザって、トッピングがゴテゴテし過ぎて食欲失せるのよねぇ。
私は一切れで構わないから、残り全部食べてね」
「任せろ。試合の後は腹が減るから、それぐらいでもまだ足りねぇ。後で何か作ってくれ」
「いいけど、太るわよ?」
「太らねーよ。ボクサーの基礎代謝と運動量を舐めんな……っととと」


 横を向いて話していた最中に、車は信号で停車する。慣性に引かれて前のめりにバランスを崩しかけ、カンガルーは間の抜けた声をあげた。
 それを見た女性は、またくすりと笑う。車を発進させたときと言い、少しむっとしたカンガルーは、ささやかな仕返しに打って出る。
 信号を見ながらハンドルを握っている女性と、たわいもない話を繰り返し、その隙に長い尻尾を女性の腰へと伸ばしていく。
 そして一瞬の隙を突いて、服の中へとその尻尾を進入させた。途端、人間特有のきめ細かい肌に、ぞわりと鳥肌が立ったのが見えた。
 そのまま胸や脇をなぞりながら、くねくねと尻尾を動かすと、彼女は堪えきれずに笑い出す。
「や、やめ……! ひ、ひぃ、じ、事故る、事故るわよぉ! あ、ひひひひっ!」
「へへっ。どうだ参ったか」
 カンガルーの尻尾は短い毛皮に包まれていて、その尻尾が服の中を這いずり回ると、我慢しきれないほどくすぐったいらしい。
 特に人間には毛皮がないから、それが耐えられないようで、彼もしょっちゅうこの方法をイタズラに利用していた。
 と言っても、連続でやると警戒されるので、忘れたころにまた始めると言った感じだが。
「だ、だから、止めなさい、ってぇ! はっ、はぁ……、ぜぇぜぇ……」
 本当ならいくらでも続けたかったが、彼も一応の節度は持っている。信号が青に切り替わると、するりと尻尾を抜いた。
 整っていた髪の毛を乱し、肩で息をしながら車を発信する女性を、これ見よがしに笑ってやりながら、自宅までの道のりを行く。
 彼女が少しヘソを曲げてしまったため、次の信号停車まで、二人の間には何の言葉も行き来しない。
 次に停車したときも、女性は露骨にカンガルーを警戒しながら、尻尾の動きを目で追っていた。
 彼はため息をひとつ吐くと、女性の肩に腕を回す。
「気にすんな。俺流のスキンシップだって分かってんだろ?」
「そういう問題じゃなくて、冗談抜きに危ないのよ」
 振り払われそうになる腕を力技で押しとどめながら、カンガルーは話し続ける。
「んなことより早く帰るぞ。腹減った」
 彼には会話で器用な駆け引きなど出来ない。だから、口論はこうやって力技で解決するのだ。
 その姿勢を見せ付ければ、相手だってやる気をなくして諦める。
 女性もその策に完全に嵌ってしまったようで、反論する気もなくして、道路の向こうに見えてきた住宅街へ、車を走らせた。
 カンガルーはしたり顔で頷くと、女性の肩に頭を置いて、目をつぶる。家までのあと数分間は、こうやて過ごそうと決めたようだ。
 彼女からは「運転の邪魔よ」と声を掛けられるが、無視を決め込んで返事をしないでおくと、諦めたようで運転に専念し始めた。
 仕事と違って、同棲生活はまずまず順調に進んでいる。