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the latter part ~ヒカルと学校~



女の人、ましてやぼくの担任教師。ぼくの手首をはじめて握った手の持ち主はそんな人のもの。
幼きぼくが書斎にこもり、誰かに構って欲しくなったように泊瀬谷先生は誰かを必要としているのかもしれない。
ゆっくりと揺れるぼくの尻尾が、泊瀬谷先生の尻尾に触れた。ぼくはどう答えていいのだろう。
言葉で答えずに、通り慣れた廊下をぼくは泊瀬谷先生と一緒に歩くことで返事とした。
ネコなのに柑橘の香りが好きだなんて、教師なのにすすんで生徒の手を握ることぐらい珍しい。

もし、幼きぼくが父の本を噛み破ろうとしたときに今の泊瀬谷先生に出会っていたら、というありえない仮説が頭に浮かんだ。
きっとぼくは泊瀬谷先生の甘い匂いに包まれながら泣いていたかもしれない。その匂いが全てを許してくれるかもしれないから。
柔らかい尻尾を枕によいこのねんねをしていたかもしれない。そして、本を噛み破ることもなかったかもしれない。
分別付く前だからネコとイヌというケモノの差を忘れて、思いっきり泊瀬谷先生の手を握っても許されたのに。
所詮、それは叶わぬ夢。現実に戻ると、玄関から吹き抜ける風に乗って、泊瀬谷先生の甘酸っぱい香りがぼくの鼻をくすぐる。
今の泊瀬谷先生は教壇に立っている姿を忘れさせるのに十分なくらい、小さく、そして幼く見えた。

「わぁーお?男の子!甘酸っぱいね!」
さばさばした声がぼくらに届くと共に、すばやく泊瀬谷先生は手を引っ込め隠すように後ろに回した。
声の主は杉本ミナ。ふわふわとミカンの林を歩いている間、気づかないうちにぼくらは玄関まで来ていたのだった。
手に野球のグローブをはめ、腰に手を当てている体育会系のミナ。彼女は校舎の様子を見に玄関まで来ていたのだ。
ミナは泊瀬谷先生の姿を見ると、グローブを外して軽くお辞儀をして、冷たい風を耐え切るような大人の口調でこう尋ねた。
「学校の方ですね?サン先生はいらっしゃいますか」
「ええっと、サン・スーシの方はただいま席を外していまして…」

泊瀬谷先生はさっきまで見せていた家庭的なお姉さんの顔でなく、世間と闘うりりしいキャリアウーマンの顔をして、低い声で答える。
ご生憎さまにサン先生は英先生に連行されたまま(表向きには『生徒と進路相談中』となっている)、未だ解放されていない。
泊瀬谷先生は職員用の下駄箱から自分の春物のパンプスを取り出し、履き替えミナと一緒に外に出た。
ぼくは追って生徒用の玄関から外に向かう。その間に考えた。ミナにぼくと泊瀬谷先生のことを見られてしまったのではないかと。
からっとした性格のミナのことだから、別になんとも思っていないだろうが…やはりぼくが気になるのは…。

「泊瀬谷先生って言うんですね?ども、浅川と申します」
「杉本です。サン先生とは学生時代、お世話になりました」
そう。とっぴな行動を見られたのじゃないかと、泊瀬谷先生が気にしていること。
泊瀬谷先生はなんでもかんでも自分のせいにして、自分で自分を追い詰める人だから尚更心配だ。

グラウンドに着くと、泊瀬谷先生と杉本ミナ、そして浅川が一堂に会してごあいさつをしていた。
浅川はかすかにつんとする香りを漂わせていたが、それは写真の現像で使う酢酸という薬品の匂いらしい。
朝方まで自宅の暗室にこもり、出版社に送る写真の現像作業に追われていたからだという。
「ビジネスのためだからね。ネコ用シャンプーの減りが半端ねー!」

ミナはミナでサン先生に会いに来たらしいが、会うことが出来ずケラケラと笑い飛ばす。
半ばあきらめモードのミナ。履き慣れた編み上げブーツで小石を蹴る。
「よし、浅川くんよ。キャッチボールを続けるよ」
「は、はい!不肖・浅川、杉本さんに付いてゆきます!」
グラウンド端に二人は走り、キャッチボールを再開させた。
長身の浅川から投げ出される球は結構速い。大空部の滑空には及ばないが、それを受け止めるミナも負けじと好球を返す。
ふと、ミナの投げた球を浅川が取りこぼしぼくらの方に転がり、飛び出した泊瀬谷先生が拾った。
泊瀬谷先生はわたわた走る。初めて見る鞠に何ごとかとじゃれる、幼い子ネコのようにも見えた。

「泊瀬谷せんせーい!こっち!こっち!」
浅川の声がするほうに泊瀬谷先生は思いっきり投球を試みるが、あさっての方向に飛んでいってしまった。
それでも愚直にも浅川は追いかける、そして遠くに走る。しかし、泊瀬谷先生の投球は偶然ではなかった。
泊瀬谷先生は例えば職員室で失敗したときの顔をしていなかった、というのがぼくの目にも分る。
玄関でミナと会ったときの顔と同じだったからだ。いや、後姿しか見えなかったから確証がないが、きっとそうに違いない。
それを裏付けるかのように、泊瀬谷先生は投球の後、「うん」と頷き、すぐさまミナの元に走っていった。
気になるぼくも付いていく。

ぼくがミナの元にたどり着くとミナは疲れたからと、ぼくにグローブをぽんと投げ渡し交代を申し出た。
「杉本さん、お待たせ…おお?今度はヒカルくんだね!よし、浅川大リーグボールを受け止められるかな!」
無駄に張り切る浅川の瞳は炎立つ。しかし、気になるのは背後から聞こえる弱気な泊瀬谷先生の声。
「杉本さん…」
「ミナでいいよ!」
「あの…さっき…。さっきのこと…」

生徒の手首を掴み、並んで歩く教師を見ればきっと教師の方に氷の視線が突き刺さるだろう。
でも、ミナはそんなことではやし立てるようなネコではない、はずだ。
泊瀬谷先生は本当に物事を気にしすぎる。早く泊瀬谷先生の尻尾を楽にさせてあげたい。
でも、大丈夫。ミナを信じて欲しい。

浅川のボールが返ってくる。ヤツは本当に球技が上手いのか、運動の苦手なぼくにでも上手く取れる球を返してくる。
しばらくはミナと泊瀬谷先生の声とボールの捕球する音しか聞こえない。
「ミナさん。あの…あの…」
「大丈夫。ヒカルくんを信じてね。先生、わたし…応援してる」
「そう、ですか」
「でもね。せんせは『お姉さんだから』って、張り切っちゃだめよ」
サン先生と同い年のミナは泊瀬谷先生より上だ。ミナは何でもこなせるようにも見える。が、こんな人ほど孤独に弱い。

校舎のほうから父の声がした。
「ヒカルー!仕事終わったよ」
「ずっと仕事してていいのに…」
父に聞こえるように大きな独り言。それでも懲りないのが父の良いところでもあるし、悪いところ。

「いやー、やっと仕事があがってね。詩ばっかり書いててもなかなか収入がねえ…、奥さんに叱られちゃうんだよね。
『あなた、もっとお金になる仕事をやってみたらどうなの?』ってね。このままじゃ、今度帰って来たときにまた怒られちゃう。
だ・か・ら、エッセイを書いてみたんだよね。思ったままつらつら書けばいいからねえ、周りのことを。
そうそう、我が息子よ。エッセイのネタ、ありがとう!出演料として10円あげよう!嬉しいだろ」
嫌な予感がした。父の尻尾は振り切れそうだが、ぼくの尻尾は力なくだらりと垂れている。
浅川は父に会えたことに興奮し、ミナはケラケラ笑い、泊瀬谷先生はご都合さまの愛想笑い。

「おお!浅川くんよ!素敵な企画を持ってきたね。作家が母校に戻って来る写真記事、編集さんに後生大切にしてもらえよ!
さて…浅川くん。鬼のような編集者の目に涙を溢れさせるほどの作品を撮ってやろうじゃないか!」
「犬上先生!それじゃあ、早速図書室に行きますか。オレ、機材持ってきますから!」
張り切る浅川はグローブをぼくに渡した後、どこかに走っていった。
泊瀬谷先生はぼくに「もっと数学を頑張らないといけないぞお」と強がってみせた。
そして、独りぼっちになったミナは心なしか無口になっていた。

こつんと小石を履き込まれたブーツで蹴っているミナは今までのミナとは違う声で呟く。
「いいお友達を持って、よかったと思うんだ。うん」
「……」
「ヒカルくん。泊瀬谷先生を大事にしないといけないよ」
例えばネコの女と、イヌの男。種族が違うふたりが一旦破れてしまえば元に戻ることはあるのだろうか。
幼きぼくが噛み破った本のように、元に戻らず痛々しくもちぎれたまま形を残してしまうのだろうか。
それを考えるのはつらすぎる。

グラウンドに大きな声が響き渡る。どうやらサン先生が英先生のお説教から解放されたようだ。
「いやー!生徒がどうしてもぼくと相談したいって聞かなくて!」
「サン!遅いぞ!サンの方から呼び出しといて、こっちは待ちくたびれたんだから!」
「ぼくも忙しいんだからね。早くぼくのポケバイを見てくれよ!コイツったら、駄々をこねてるんだぜ」
「ふう、今度はポケバイね。ホント、サンはバイクばっかり乗ってるんだから」
「ミナもね」
ミナはサン先生に向かって走り、ペチンと快音をサン先生の頭で鳴らして、二人とも自転車置き場へと消えて行った。
残されたのはぼくと泊瀬谷先生だった。

「英先生も大変ですね」
「でも…、サン先生はもっと大変かも」
ぼくらが二人の心配をする権利も義務もない。
英先生は教師の義務を果たしているだけ。サン先生は学園の一員としてぼくらを楽しませているだけ。
こんな小難しいセリフを言わなくても、理屈なく学校は楽しい。
「サン先生、楽しそうですね」
「そ、そうね。ヒカルくんもそう思うんだ」
多分、学園の誰もがそう思っているに違いない。大人のクセして、少年の行動力を持つ数学教師、サン・スーシ。
しかし、同じような人物がぼくの身の周りにいたことを忘れていた。彼の名前は犬上裕。そして、もう一人、浅川シャルヒャー。
学校にいても、家に帰ってもコドモな大人がいるぼくにとって、彼らの魅力はこうして初めて気付く。
犬上裕と浅川シャルヒャーが校舎からニコニコしながら出てくるのが見えた。嫌な予感がする。

「おお!我が息子、何を憂う?いやー、撮影は楽しいねえ。何しろカメラマンの腕がいいし、被写体も最高…だなんてね。
おや?お隣にいるのはもしやヒカルの担任の先生、とか?ヒカルも美人の先生に囲まれて、コイツったら!」
「犬上くんの担任の泊瀬谷です。お父さま、初めまして」
泊瀬谷先生は深々と父にお辞儀をした。
一緒にやって来た浅川はと言うと、ミナが居なくなっていることに気付いて少し落ち込んでいた。
「杉本さん…、帰っちゃったかな。あはは」
「……」
「でも…キャッチボール、楽しかったなあ。杉本さん喜んでたし、まっいいか…ははは」
力なく頭をかきながら笑う浅川だが、立ち直りは早そうに見える。

「父さん、尻尾が濡れているんだけど…」
「いや、その…なあ!浅川くん。説明してあげなさい!」
「いやいや!ここは『言葉の錬金術師』犬上大先生の素晴らしいセリフで、みなさんのハートを鷲掴み!」
「父さん…ぜったい何かやったでしょ」
父の尻尾が明らかにおかしい。尋常じゃない濡れかただ。いい歳して水遊びでもしたのだろうか。
それに、必死にぼくらから隠そうとしているところが怪しすぎる。
「浅川くんがやろうって言ったんだよね?『芸術の為なら、このアングルは外せない』とか、
『これを外すなら、オレは写真家を辞めてやる』って。ぼくは知らないよ!浅川くんのせいだもんね」
「い、犬上先生?!先生とあろう方がなんてことを!『ぼくの詩にはこのカットがぴったりだ』って言ったでしょ?」
いい歳をした大人が子どもじみたいい争いをしているのを見て、泊瀬谷先生は笑っている。
口数が少ないゆえ泊瀬谷先生の気持ちを動かせないぼくに対して、いとも簡単に泊瀬谷先生の笑顔をかっさらう父と浅川に嫉妬。
早くこの話題を振り切りたいのか、浅川はぼくらに提案を始める。

「ところでヒカルくんに、泊瀬谷先生。折角だからここで一緒に写真でも撮りましょうか?」
「そうだね、ヒカル。浅川くんに撮ってもらうなんてなかなかないぞ!お友達に自慢しよう!」
ぼくと泊瀬谷先生の写真…。
普段は無機質な建物ばかり撮影している浅川だが、お調子者の性格なら人物の写真を撮る方が向いているのではなかろうか。
内気な泊瀬谷先生を言葉巧みとは言えるほどではないが、どんどん乗せて教室で見せる以上の笑顔をレンズに向けている。
「ヒカルくん!もっと!ほら、泊瀬谷先生を恋人と思ってくっついて!あー!その先生の笑顔、頂きました!」

浅川のお陰で時が過ぎるのを忘れる。そして、浅川はぼくらをフィルムに次々と焼き込んでゆく。
姿は永久に残るが、心地よい柑橘の香りは今だけ。浅川とてそれを残すことは無理なこと。
「ほう、ヒカルも泊瀬谷先生もなかなかお似合いのカップルに見えてきたな」
「犬上先生!これが『浅川マジック』っすかね?人を撮るなんて久しぶりですけどね!
泊瀬谷先生の耳を摘みながらの上目遣い。最高っですよ!ヒカルくん。恥ずかしがらない!」
夢中でシャッターを切る浅川の背後から、ミナが自分のバイクを押しながらやって来た。
おそらく、自転車置き場に向かったと言うことは何らかの修理をしていたのだろう。

「素材は生かすものなんですかね?だんだん乗ってきたなあ!おおっ、ヒカルくんの尻尾の揺れがいい具合に
モーションブラーがかかってる。躍動的だな。ほら!もっと尻尾を振って、尻尾を振って!」
喜劇を演出する舞台監督のようにぼくに演技指導を始める浅川。背後にはその姿を見てよほど滑稽に見えたのか、
くすくすと笑っているミナ。浅川は悲しいかな、全く気付いていなかった。
「ははは!今度はあっちの銀杏の木の側に移りますか?被写体が良いとオレのシャッターの冴えもいつもとは格段に違…、す?杉本さん?」
全身の毛並みが逆立てた浅川。カギ尾がくるりとまるく収まる。
男・浅川は普段のおちゃらけたカメラマンの姿をミナに見せるより、仕事に徹する職人の姿を見せたかったのだろう。
今すぐ浅川に爪とぎ用の木の板を渡したい。きっと夢中で爪を研ぎ始めるだろう。

「う、うむ。これこそわたくしが求めていた芸術だな。はは…。で、では…後一枚でフィルムがお終いですが?」
「浅川くんよ、無理するな。体が針金みたいになっているぞ」
父の言葉なんか全く耳に入れず、カメラを構える手はしっかりとプロの姿をしているが、尻尾は少年の日を思い出したように揺れていた。
最後のシャッターを切ろうとした瞬間のこと。ミナがぼくらの前にバイクに跨ってすいっと横切った。

「わたしも撮ってよね?」
「す、杉本さん?お安い御用ですよ…!今度一緒に写真撮りに行きま…しょう」
ぼくらを背景に最後の一枚は愛車に跨るミナの姿で終わった。
浅川は悔しそうだが、むしろ満足気に見える。しかし、もっと満足そうなのは泊瀬谷先生だった。
何故なら、父の目線とカメラのレンズがミナの姿に隠れたのをいいことに、そっとぼくの手首を握っていたのだから。


おしまい。