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スレ>>816-818 平凡な幸福の日常


 夜道を自転車で走り抜けながら、いのりんが何気なく腕時計を見ると、時間はもう22時をまわっていた。もう長い事、ゴールデンのバラエティ番組を見た覚えがない。
 放課後、生徒の相談に乗って、顧問を務める部活動に顔を出して、授業に使うプリントを編集して、他の先生方と学校行事の打ち合わせして、
パソコンに届いている卒業生からの相談メールに、丁寧なアドバイスを返して、うち一人は後日実際に会って相談に乗る段取りを、電話越しに話し合って、これだけやって22時前に学校を出られたのだから随分早い方だ。
 ここまでやってるのだから、せめて車で通勤して少しでも早く家に帰りたいのだが、歳を重ねるごとに大きくなっていく腹と、近頃のガソリンの値上げを見かねた妻に、自転車通勤を義務付けてられてしまった。
 まあ、自転車通勤というのも、学生時代を思い出して、それはそれで乙なものだ。だが、片道三十分の道のりは、肉付きの良い中年親父を汗だくにするのには十分すぎる。
 折り畳んだブレザーを鞄と一緒くたに自転車の籠に詰め、汗の染みたワイシャツは首もとのボタンが外され、ネクタイも緩め、本当にくたびれた姿だ。
 街頭に照らされた路地は、この時間帯になると交通量も少なく、坂も少ないので帰りは思いのほか楽なのだが、やはり片道30分の壁は大きい。
 ペダルをひと漕ぎする度に、突き出た腹がたぷんと揺れ、顎の毛皮から汗がぽたりとその腹に落ちる。
 顎の毛皮に溜まった汗を腕で拭いながら、ちらりと横を見やると、家族でよく利用するファミリーレストランを通り過ぎたところだ。
 このファミレスまで来たと言うことは、自宅までは後数分だ。そこから少し行ったところにある古本屋の角を曲がり、直進して3つ目の信号を左に曲がる。
 そうすると、ビルが少なくなり、周囲の景色は一軒家の立ち並ぶ住宅街へと変貌していく。彼の家は、その住宅街の中でも中流ぐらいに属するだろう一軒家だ。
 三丁目にある、2階建ての家を改装して作られた個人営業の英語塾を右に曲がれば、我が家の赤い屋根が見えてきた。
「もう少し。家に帰ればビールと晩御飯だ」
 いのりんはペダルを踏み込む足に力を込め、大きな尻をサドルから浮かす。もっとも、彼の短い足では大して尻も浮かないのだが。
 立ち漕ぎで一気に加速する自転車が自宅へと達する間際、急ブレーキをかけて停車すると、しばらく油を点していないブレーキが、キィキィと嫌な音を立てる。
 汗で湿った体毛を逆立てながら自転車を降りて、車庫へと押して行く。車庫の中には、買い物の時ぐらいしか使わない車が、寂しそうに控えていた。
 当時ではかなり高水準の燃費を持った車だったが、最近のハイブリッドカーに比べれば、見劣りは必至である。しかし、高い天井にゆとりのある座席と、家族で乗るなら中々の車だと彼は思っていた。
 スタンドを立てて自転車を停めると、尻のポケットから鍵を取り出そうと手を突っ込む。
 だが、尻の肉に押されて入り口は予想外狭い。突っ込んだ指先が少し痛むが、無理矢理鍵を取り出し、自転車の鍵を閉め、玄関へと向かう。
 自転車で走っている途中は、風のお陰でそこまで気にならないが、こうして歩き出すと、自分がどれだけ汗をかいているか、じっとりした服と毛皮の感触が伝わってくる。
 ドアの鍵を開けて取っ手を回しながら、晩御飯より風呂を先にした方がいいだろうかと、鼻を鳴らして自分の匂いを嗅いだ。……風呂を先にしよう。
 そう心に決めながら玄関の敷居を越えると、自転車のブレーキ音を聞きつけただろう妻が、すでにそこで待っていた。
 いのりんは微かに目を泳がせながら、それでもできるだけ平常心を保って挨拶をする。


「ただいま」
「お帰りなさい。子供寝ちゃったわよ」
「今日もかぁ。お休みを言って欲しかったんだけど」
 いのりん残念そうに呟きながら、ブレザーと鞄を妻に渡して、「ふぅ」と溜め息を吐くと同時に、彼女の機嫌を伺うように、ちらりと顔色を確かめる。
 8歳までは夜九時が就寝時間という妻の方針には、彼も賛成だったが、疲れて帰ってきたのに「おかえり」も「おやすみ」も言ってもらえないのは、少し寂しい。
 だが、そこでその寂しさの原因は、仕事をもっと早くこなせない、自分の要領の悪さだと解釈するのが、彼の感性だ。
 いのりんは申し訳なさそうな、自分の不甲斐なさを責めるような声色で、呟くように言った。
「家族で晩御飯もしたいけど、生徒の将来の一端を扱う仕事だからね。手抜きは出来ないよ。僕がもう少し要領良く出来ればいいんだけど」
 そんな彼を見ながら、奥さんは“どうしたものか”と考える。結婚してから分かったが、いのりんは意外と後ろ向きになりやすい。
 恋人になったときも、結婚しようというときも、「元生徒だから」と尻込みしていたのは彼だし、あれだけ人柄の良さや優しさを見せ付けておいて「幸せに出来るか不安」と言われた時には、彼女も声を上げて笑ったものだ。
 それ以来、彼女はいのりんが後ろ向きになったとき、笑ってムードを変えることにしている。
 だから、今日で一番笑えた光景、昼間弁当を届けに行った時の事を思い出し、イタズラっぽく口元を歪めて言ってやった。
「そう? 他の先生方と昼メロごっこして遊べるぐらい、余裕があったんでしょ?」
 いのりんは「そら来た」とばかりに苦笑しながら、傍目にも動揺している事が分かる声色で返す。
「そ、それは場の雰囲気で……。他の先生方との付き合いもあるし。
特にうちの学校は教師から生徒まで個性的な人が多いのは、君も知ってるよね?
君があんな目をするのも分かるけど、本当に仕方が無かったんだって」
 その困ったような顔に、昼間職員室で見た、彼の驚く顔を重ねて、奥さんはクスクスと笑い出した。
 今度はいのりんが“どうしたものか”と頭を抱える番だ。結婚してからというもの、彼女から恩師に対する尊敬の念が消え失せて、全て親愛に変わってしまった。
 敬語は消え失せ、年上に対する控えめな態度は身を潜め、今だって夫を笑いものにしている。
 いのりんは小さく息を吐き、鼻面を人差し指で掻くと、奥さんに合わせて口の端を吊り上げてと笑った。
 彼がそんな表情を浮かべると、二本の牙が相手に向けられたように露になり、目つきの悪さも相まって、非常に攻撃的な表情に見えるのだが、それが見掛け倒しというのは周知の事実だ。
「はぁ。心配して損したよ。そうだよね。君は僕と違って気が大きいから、大概の事は楽しめるんだったね」
「そのとーり。さ、いつまで玄関で喋ってる気?」
 奥さんはさらに、「お風呂沸かすの忘れてたから」と、彼の手を引いてリビングへ向かう。
 なんと今日の晩御飯は、子供が学校で習ったものを作ってくれたらしい。「みんなで食べる」とまで言ってくれたらしく、いのりんは惜しい事をしたなと悔やみながらテーブルについた。
テーブルについて、キッチンへ向かう奥さんの後姿を眺める。
 そのままぼーっとしていると、彼女が缶ビールを持って戻ってくる、それをいのりんの前に置いて言う。


「お疲れ様。ご飯食べたら、一緒にお風呂入りましょ」
 同時に、柔らかいものが彼の豚鼻に触れる。それが何かは確認するまでも無い。
 そこまで近寄ると、彼女の髪の毛がまだ乾いていない事も、よく見て取れた。シャンプーの芳香など、鼻の良い猪からしてみれば、玄関で出迎えてくれた時から周囲に漂っている事が分かっていた。
 もう子供と一緒に風呂に入った後なのに、こう言って誘ってもらえると、なんだか嬉しい気分になってくる。
 毎日朝早くに出かけて、くそ真面目に仕事をして、夜遅くにくたびれて帰ってくる甲斐があるというものだ。
 彼は冷えたビールを一口飲むと、気恥ずかしそうに豚鼻を人差し指で掻きながら答える。
「そうだね。でもまず晩御飯を。あの子の料理なんて初めてだから楽しみだよ」
「まあ、料理って言ってもただのたまごサンドイッチよ。
買ってきた食パンと卵全部使ってたし、量はあるからお腹は膨れるはず」
「うん。頼むよ。風呂のお湯は僕が入れておくから」
 そう言ってビールの残りを全て飲み干し、いのりんは椅子から立ち上がって風呂場へと向かおうとしたその時、テーブルの上でガタガタ音が鳴る。
 何かと思えば、携帯に電話が来ている。バイブレーションの音だったようだ。
 こんな時間に誰かと思いながら、形態を手に取り、通話ボタンを押して耳に当てる。
『いのりん! あの、私家出しちゃって、行く当てもないし、お金も無くて、それで、私……!』
「その声は……、菅野さんだよね。今どこだい?」
『駅前のコンビニ……』
「うん分かった。とにかく、僕が今から車で迎えに行くよ。そこで待っていて」
『うん……』
 彼は少女の返事を聞いてから通話を切ると、奥さんがハンガーに掛けてくれていたブレザーを羽織り、玄関に向かって歩き出す。
「どうしたの?」
「生徒が家出。今途方に暮れているらしいんだ。とりあえず車で迎えに行って話を聞いてみる」
 そう言ってまた玄関へ歩き出すいのりんを、奥さんは少しだけ呆れた口調で呼び止める。
「今さっきビールを飲んだばっかりでしょ。私が運転するわ。一緒に行きましょ。
私が車を車庫から出しとくから、その間にあなたはせめて着替えておいて」
 彼女がそう言い切ったときには、すでに彼の羽織るブレザーのポケットに手を突っ込み、鍵の束を奪い取った後だった。
 いのりんと同じように、服の上にジャケットを一枚羽織ると、さっさと玄関を出て車を取りに行ってしまう。
 同時に彼はブレザーを椅子にかけて、慌ててタンスへと駆け出し、服を取り出して汗まみれの体に着込む。もったいない気もするが、仕方が無い。
 家の外に聞き耳を立てると、丁度エンジン音が鳴り出したところだ。彼はブレザーに袖を通しながら、玄関へと向かう。
 さて、もうひとがんばりだ。



終わり