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ネコの願い


「ネコの日は、ネコの願いをなんでも叶えてくれる日」
そう信じていたころを思い出しながら、ネコの古文教師・帆崎は学内にある図書館の本棚を見上げていた。

実家で読み漁った本は、爪で傷だらけになるまで読んだ。
初めて夜更かししたときは、同じネコたちが他の種族に見せない姿を垣間見た気がした。
恋心に苦しむようになったときは、自分の尻尾の存在に疑問を感じていた。
社会に飛び出したとき、自分は果たしてガキな大人なのか大人なガキなのかと悩んだ。
そして、一生を捧げることが出来る娘を抱いたとき、大人になる前の帆崎の姿はいなかった。

何の因果か、古文を教える職に就いた。「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて」とのんきに暮らすことなんかは出来ない。
今を生きる古文教師なのに、昔の物書きの気持ちを汲み取らず、現代の物差しに当ててしまうなんて。だから、誰もが書に逃げる。本に頼る。
本に囲まれていると落ち着くのはそのためだ。カウンターでは「返却は2週間後の3月8日です」と、図書委員の声が聞こえてくる。

「せんせー。なにしてるの」
先生と呼ばれるほどのヤツでない。自覚が無い。それでも教師か。自分を責めても仕方あるまい。
そんな言葉で突き刺されても文句の言いようが無いぐらい上の空。帆崎は声の方へゆっくりと耳を傾けた。
声の主は帆崎と同じネコのハルカだった。彼女は帆崎の教え子。きちんと揃えられた前髪が礼儀正しい。
「ネコの日ですね!」
「ああ」
「昨晩は月がきれいでしたね!」
両手でしっかりと握られたカバン。それも彼女の真面目さか。しばし、二人してじっと本棚に並んだ蔵書を眺める。
この日の夜2時22分『ネコの時間』には、ネコたちがいっせいにお祝いをする。
『夜会』と称して公園に集う者、大切な人と家でその時間を過ごす者、無論一人きりで過ごす者も居る。それはみな自由。
この日は学校でも授業の間、何人かのネコはまぶたを擦っている者も多く見受けられた。

「ネコの日かあ」
「そうですよ!」
何度目のネコの日だろうか。去年、おととし、そしてその前……。思い出してもきりが無い。
そして、いつしかどうでもよくなる2月22日。隣で甘い髪の毛を揺らす、十代半ばの少女には理解は出来ないのだろうかと、
オトナになって三十路にお邪魔した自分の枯れた思考を悔やんだ。お祭りだぞ。楽しめ。
じゅうたんを踏みしめる足が進むたびに、ハルカのリボンが揺れているのが横目で帆崎に見えた。
帆崎だってこんな小娘にかどわかされる歳でもなかろうに。

「ネコの日は、ネコの願いをなんでも叶えてくれる日」

いつまでも子どものような甘ったるい言葉に目を潤ませている年ではないと、帆崎はいつまでもその言葉を頭で繰り返した。
「おなかすいたな」
小首を傾げるハルカは照れ笑いをしながら尻尾を跳ね上げた。帆崎が聞くところによると、ハルカは少しダイエットをしているという。
「朝ぐらいは食えよ」と帆崎は諭すが「食べてますよー」と笑われる。
「先生、お昼なに食べたんですか」とハルカが尋ねるので「バナナだけ」と答えると、くすっと笑った後に
「じゃあ、バナナはおやつに入りませんね」と返された。「わたしもそうしよっかなあ」と甘い声で付け加えて。
どうでもいい話題をしながら二人は図書館を歩いているうちに、児童書の棚へとたどり着いていた。

「わーい」
静かな図書館。静けさだけは自慢だが、来る者の胸の高まりは止められない。
小さい頃は大きく見えた本棚も、高校生にもなるとタメになり、大人になると年下に見えてくる不思議。
もしかして、本棚も生きとし生けるものと同じく、命を持っているのかもしれない。
ハルカが両膝揃えて屈み込むと、ふわりとセミロングの髪が翻る。短いスカートからハルカの女の子らしい身体がくっきりと。
帆崎だってこんな小娘にかどわかされる歳でもなかろうに。

「児童書の棚って、一人で来るにはちょっと恥ずかしいけど……。先生といっしょなら平気だな」
「……ふーん」
「やっぱり、『ネコの日』ってネコの願いを叶えてくれる日なんですねっ」
耳をちょっと、ほんのちょっと伏しながら、ハルカは本棚からくたびれた『11匹のねこ』を拾い上げた。
ハルカはましてや、帆崎が生まれる前に世に出た絵本とのめぐり合い。この本もずっと毎年『ネコの日』を過ごしているんだろうかと考える。

「ふふっ。もう一度ちょっと手にしてみたかっただけ!」
照れ隠しを忘れずに、ハルカは大分痛んだ絵本をしまった。誰かがきっと手にするだろうから。
子どもたちが手にするだろうからと、絵本の本分を全うさせたかったからと、心残りながら児童書の棚から遠ざかる。
後ろ手で鞄を持って振り返ると、二人が来る前の本棚が変わらぬまま居場所に立ち続けていた。誰かが来るのを待ちながら。
帆崎とハルカは結局のところ本を借りることなく、書の館に別れを告げる。
「おなかすいたなあ」と白い歯を見せながら、ハルカはぱたぱたと廊下を駆けて下駄箱へと急ぐ。
「廊下を走るなよ」と腕を組みながら、帆崎は尻尾を揺らして職員室の扉を開ける。

ふと、甘い香り。
若い女子高生のような花の香りとは違う、幾つか酸いも甘いも吸い尽くし、ほっと一息つかせてくれるような母親の香り。
焼き芋だ。泊瀬谷が焼き芋を抱えて職員室のストーブに当たっていたのだった。
カーディガンに厚手のスカートでも、やはり寒いものは寒い。ふわっと泊瀬谷の尻尾が心なしか温かそうだ。
「帆崎先生、こんなに焼き芋が手に入ったんですよー」
きょうはもうおしまいをしようと火を消していた焼き芋屋さんの屋台。残ってもしょうがないから、安くするからとたくさん焼き芋を譲ってくれた。
折角だからみんなにお裾分け。でも、職員室に残っていたのは帆崎と泊瀬谷ぐらいだったのだ。

「食べますか」
「食べます」
小さな焼き芋はその分火が通りやすいので、いくらか香ばしい。というより、やや焦げ臭い。でも、美味しいものは美味しい。
新聞紙に包まれた焼き芋を両手で丁寧に割ると、白い湯気がのほほんと昇り立った。
黄色い誘いを断りきれず、渋い皮を捲りながら鼻をくんくんと鳴らす。
「ネコの日ですね!」
「ああ」
「ネコの日って、わたしたちネコの願いをなんでも叶えてくれる日なんですよね!」
あまりにも泊瀬谷が無邪気に語る姿は、帆崎にはハルカの姿と多少重なって映る以外にないものだった。
「実はわたし、教育課程を取ってた頃のネコの日に『ぜったい、高校の教師になるんだ』って誓ったんですよ。
やっぱりネコの日って、ネコの願いごとを叶えてくるんですよね!ふふーん」
若い泊瀬谷は頬を緩ませながら、ネコの日の夕暮れを見つめていた。ネコの日の終わりが近づき、窓からグラウンドを横切る生徒が見える。
彼らの影は長い。一人、そして一人と家路を急ぐ。そのなかには、図書館で一緒だったハルカの姿も。

「焼き芋食べたいなー」
「え?帆崎先生……」
「いや。なんでもない」
きっと、ハルカはそう考えながらぱたぱたと駆けていっているんだろう、と帆崎の頭に浮かんだことをそのまま口にしてしまったことに、
帆崎自身は非常に恥ずかしくなってしまった。ネコのシルエットが夕日に照らされて景色に浮かび上がる。
職員室の窓は、部屋の明かりに照らされてうっすらと帆崎と泊瀬谷の姿を描いていた。
「ネコの日って、ネコの願いをなんでも叶えてくれる……とは限らないんだな」
「……そうなんですか」
「あいつを見ていて、そう思ったから」と、帆崎は小さくなりつつあるハルカを指差す。
泊瀬谷は額を窓にくっつけると、すでにハルカは校門を潜ってしまった後であった。

「帆崎先生らしくて、素敵ですっ」
帆崎だってこんな小娘にかどわかされる歳でもなかろうに。
口にしようとした焼き芋が泊瀬谷の言葉でのどに詰まりそうになり、帆崎はネコの日が過ぎ去ってしまうことを惜しんでいた。


おしまい。