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雪と、うさぎと。


ウサギのリオが化学準備室の窓からグラウンドを眺めていると、白いものが風に舞っているのに気付いた。
集団でふわふわと灰色の空をほしいままにする光景は、この季節には珍しくも無い。もう師走。雪が降ってもおかしくはない。
「お前、風紀委員長だろ。下校の時間を破るつもりか」
化学教師のオトナな忠告をよそに、長い耳を伏せることなくリオは外を眺め続けていた。
人肌恋しい季節に、ひんやりとした雪を降らせるとは天気もなかなか意地悪なやつだ、とリオは短い髪をいじっていた。
一方、朝からの強い風に煽られて、うたかたのように消えてしまう宿命を抱えた雪たちは、渦を巻いて風に身をゆだねていく。
「跳月先生はきっとクリスマスは、楽しみなんじゃないんですか?」
「うるさいな」
雪が自分と同じ毛並みの色なのは、はたして幸せか不幸せか。ストーブで蒸し暑い部屋の中のリオは粉雪に自分を重ねて悩む。

部屋の主である化学教師も半ば呆れ顔で居残りさんのリオを諭し、乱雑に放り込まれたがらくたで溢れかえるりんご箱から電気コードを取り出した。
ときはもう夕方近く。授業も終わり、これから自由な放課後だというのに、未だ不自由な校舎の中に望んで残る生徒はそうはいない。
逆に考えると、何か望むことがあって学び舎に居残ると考えたほうがよかろう。
「ウチに帰れよ、いい加減」
「クリスマス楽しみですよね、跳月せんせい。彼女さんと一緒に」
「お前、ぼくの言うこと聞いてないだろ」
みのむしクリップの付いた長い電気コードをぽんと壁際の机に置くと、長く垂れた耳を揺らして跳月は眉間にしわを寄せる。
彼もリオと同じくウサギだ。ただ、垂れた耳と十代と三十路というところが違っていた。

部屋はもので溢れかえっていた。棚という棚には電気機器、磁石、そして化学、物理学、心理学などの蔵書。
人を見ずして人となりがわかる例もなかなかない。PCは相変わらずスクリーンセイバーを躍らせていた。
スチール棚に据えられた、時空を超えた大きな箱を跳月は抱えて、部屋中央の木製の机に置いた。追うようにリオも机の椅子に座る。
アルミで出来た平べったい箱からは、ガラス製の縦長い真空管が伸びる。中に電極のような部品があるのが見えた。
メタルの小さな箱が真空管の隣に整然と並び、その光景はまるで開拓され始めた街のよう。大きなビルがやってきた。
小さな建物も伸びてくる。リオは好奇心を押えきれずに、真空管のビルの合間から街を見下ろす。

リオのメガネに昭和の香り漂うガラスの球が映り込む。その間に跳月は黙々とクリップをカーテンレールに咬ませていた。
「せんせい。聞いてもいいですか」
「知らないのか、これ。ぼくが小さい頃よく作ってたんだぞ」
「いや、違うんです。わたし、ふと思ったんです」
粉雪舞う外を眺めながら、跳月はしばらく黙り込んだ。

「例えば誰かがわたしを好きになるとしたら」
踵を返して、身に纏う白衣を揺らす跳月。では、なかった。
彼はハナタレの色恋沙汰にいちいち動じる三十路男ではない。
リオは続ける。
「わたし『因幡』を好きになるってことだからでしょうか。それとも、わたしが『ウサギ』ってことだからでしょうか」
跳月が口をつぐんで天井を仰ぐ。腕を組む。腕を組むのは警戒心が高い証拠だと、ものの本に書かれていたことを跳月は思い出す。
軋む木製の椅子に腰掛けて、ニーソックスの脚を揃えてリオはベーシュのカーディガンの裾をつまんでいた。

「例えばわたしが『イヌ』になっても、誰かはわたし『因幡』を好きでいてくれるのか。と、考えてしまうのです」
しばらく沈黙が続き、跳月の足音だけが響く。古い室内はよっぽどさびしがり屋さんなのか、床の一人ごとが多くなってきた。
跳月はカーテンレールから伸びるコードを手にして、リオの目の前に据えられた古めかしいアルミの箱に繋いだ。
そして、コンセントをテーブルに貼り付けられたテーブルタップに差し込む。慣れた手つきで。

「人を好きになったことはあるのか。因幡」
「……」
好きということ。
リオにだって思春期の訪れと共に、淡い思いを抱いたことだってある。
ただ、一歩踏み出せない。彼氏が欲しいです歴から年齢を割るとジャスト『1』であるリオには口にするにはつらい問い。

もしかして、好きということは雪と同じものなのかもしれない。
はじめはそんなに意識もせずに、何の気なしにしていたけれど積もり積もって身動きできない。
一歩踏み出すと足跡が付く。二歩進むと足跡が増える。きれいなままでいて欲しいのに、自分で傷つける勇気が無い。
そのうち陽気がよくなって、雪もだんだん消えてゆき、無くなった頃には後悔をする。

「お前、もっと後悔しろ」と、ぽんとリオの頭を軽く叩く跳月はアルミの箱のスイッチを捻る。
じわじわと真空管のガラスが頬を赤らめてゆく。ほんのりと、そしてゆっくり。命の息吹さえ感じる。
跳月が微妙な手つきでダイヤルを廻す。じっとリオの瞳は跳月の指先に集中していた。
「因幡は恋だの好きだので傷つきたくないから、そんな言い訳している。図星だろ」
「うう、はづきち!」
「考えてみろ。お前がウサギでもイヌでも『因幡リオ』だったら、結局『因幡リオ』が好きってことだろ」
「でもでも、一目惚れとか、ウサギには興味ないとかだったら……」
「三十路の理論に恥をかかせる気か」
目をつぶって、カーディガンの裾を握って、ニーソックスの脚を揃えてリオは身を縮ませる思いをしていた。
ただ、リオには跳月の声が自分にとって存在を認めてくれているような、弱気な心を踏みつけても内心許してくれているような気がした。
不思議な身震いがする。寒いからではなく、悲しいからではなく。初めて生を受けたときぐらいの喜び。

ふと、長い耳にはこの部屋にいない誰かの声が、ぼそぼそと広がり始めていた。ノイズ交じりの荒い声。
リオはくるくると長い耳を立てながら、声の元に傾ける。
「ラジオだよ。真空管のラジオだなんて見たことないだろ」
明々と真空管は灯り、いつの間にか配線されていたスピーカーからはAMラジオの声が響く。
真空管のラジオは電源を入れてから鳴り出すまでに時間がかかる。カーテンレールはアンテナ代わり、と跳月は言う。
『さあ、いよいよクリスマスも近づいてきました。こちら宇佐乃島からラジオネーム・ご飯さん……』
「こいつったら、中学の頃に作ったんだ」
「すごい」
リオが生まれる前のものなのに、じっと見ていると、いっしょにいるとほっとするような魔法がこのラジオにはあった。
そして、本当に勝手にリオはこのラジオと跳月を重ねていたのだった。じっと見ていると、いっしょにいるとほっとするような……。

『さて、時計の針は5時45分を廻りました!雪も降り止んだようですけど、駅前の……』
「因幡、いい加減帰れ」
「はっ」
雪が消えた代わりに、灰色の空が真っ暗になってきた。リオはいつまでもこの部屋に甘えている場合ではないと、カバンを持ってダッフルコートを羽織り、
いそいそと帰る準備を始めた。扉を開くと、廊下の冷たい空気が割り込んでくる。いままでぬくぬくとしていたから余計に寒い。
もじもじと入り口でリオは暖かい部屋から出ることを渋るように立ち尽くし、跳月からじっと見つめられる。

「あの。せんせい」
「ん」
「……」
「ぼくは仕事がたまっている。わかるよな」
跳月の声に尻を叩かれるように、因幡は家路を急いだ。

化学準備室には跳月とラジオが残る。
壁際の机の引き出しを開くと、冬休みの課題の資料と共にラジオの設計図、パーツ取りしたコンデンサ、
そして跳月の想い人の写真が顔を見せる。AMラジオが一人ごとを続ける中、跳月はたまった仕事をこなしながら頭の中で呟く。
「コイツを作ってた頃のぼくを因幡が見たら、どう思うんだろうかな」
ガラリと引き出しを閉める音が部屋に響いた。

    #

トントンとひとりでローファーを履くと、コンクリの床に響く音が耳に残る。
雪が止んだとはいえ、夕刻の空気は身を縮ませ、ニーソックスからはみ出した白い毛並みの太腿が食い込む。
冷たい廊下の風が意地悪くリオの脚を晒すと、すこし瞳に涙が滲んだ。マフラーをしていても長い耳が冷たい。
「はづきちーっ。寒いよー」
下校のアナウンスに追い出された風紀委員長が校舎から出て、ふと振り返ると化学準備室には未だ明かりが灯っていた。

「クリスマスは、はづきちが一人ですごしますようにっ」
リオは瞳に湛えるものを寒さのせいだと言い訳をして、ひと気のない校門をくぐる。


おしまい。