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きっと、ずっと


泊瀬谷が誰もいないと思っていた保健室には、犬上ヒカルが一人で本を読んでいる姿があった。
とくに身体の具合が悪いというわけでもないのに、純白のベッドに腰掛けてハードカバーの本を黙々と捲っていた。
しかし扉が開く音に気付いたヒカルは、必死に大きな本を背中で庇おうとする。
「ヒカルくん?」
顔ではウソを突き通しても、尻尾が全てを暴き倒す。白い毛並みが真実ならば、足元の影は虚言を表す。
真っ直ぐに閉じた口から、誰からも見透かされるウソが聞こえてくる。
「具合、悪いのかな……」
「いいえ」
「それじゃ、保健室に来ちゃだめでしょ」
「……ごめんなさい。一人っきりになりたくて」
保健室の主・白先生の姿はない。こともあろうに、無用心にも鍵がかけられていなかった。
消毒と薬品の匂いは保健室が保健室であることを物語り、飾られたマグカップやコーヒーのサイフォンも端役として演じている。
部屋に置かれたベッドのシーツは乱れていない。几帳面な白先生が整えたままの姿であろう。
そのベッドにイヌ独特の毛が然程付いていないということは、ヒカルがここに来てそれ程のときは経っていない証拠。

スリッパの足音を鳴らさぬようにイヌの少年に近づくネコの泊瀬谷。ヒカルの担任教師だからこそ、気がかりで、ほっとけなくて。
泊瀬谷の白い毛並みを窓からの夏最後の光を浴びる。白い毛並みが真実ならば、足元の影は虚言を表す。
「先生は?」
「具合なんか悪くないよ。ただ」
後ろに見え隠れする本をヒカルが隠す姿は、親にお説教された幼稚園児と比べてもなんら変わりがなかった。
と、例えても誰もが納得するようなものだった。秋の稲穂に被さる綿雪を思わせる尻尾がベッドからこぼれる。

泊瀬谷は一介の現国教師。
泊瀬谷はただのネコ。
教えてくれなくたって分かっている。それでも、イヌの少年を自分の瞳に映そうと、映そうと。眼球に焼きついたって構わないぐらい。
だけど、理屈はどうしても答えられません。理屈は考えるもの。考えても、考えても、考えても。
この場から離れたくないという理屈はどうしても答えられません。だからと言って、親切な答えはご遠慮いただきたい。
内に秘めたる思いをひたすら隠し続けることの苦しさで、我慢が出来ずに爪が顔を見せるのだが、ヒカルには悟られたくはない。

「先生、一人で本を読みたいなって、思ってね」
「先生もですか」
つい『先生も』と、こぼすヒカル。気付いているのか、わざとなのか真意は不明。
そこに深入りすることなく、泊瀬谷はトートバッグから適当に一冊取り出して、笑顔を繕う。
ひとつウソをついて、またひとつ自分を苦しめ、泊瀬谷は自分の爪をそっと仕舞う。

     ××××××

泊瀬谷が生を受けて17度目の夏。

学校からの帰り道に親友である飛鳥の恋人の話を聞くのが、泊瀬谷の日課になっていた。
潮風が飛鳥と泊瀬谷のスカートを揺らし、ごろごろとのどを鳴らしているかのように二人は目を細める。
垢抜けない白いカラーのセーラー服に反抗して、ちょっとばかしオトナっぽく紺色のソックスが足元を引き締める。
突き抜けるような青い空と、物静かな海には花が咲き始めた二人のネコには良く似合う。
「はせやん、タケルのことなんだけどー」
「またー?」
「うん」
甘えるような言葉で飛鳥の相談ごとはいつも始まり、泊瀬谷もその相談ごとを受けることは、苦であるよりもむしろ楽しみであった。

飛鳥は背中まで伸ばした黒髪が自慢のシロネコの少女だ。揃えられた前髪が清楚さを物語る。
泊瀬谷からは飛鳥のことが非常におとなしく見え、飛鳥から見ると泊瀬谷こそ大人しいと言う。
しかし、泊瀬谷は飛鳥の方が同い年なのに年上のように感じ得る。それは、タケルの存在だ。
タケルは彼女らが通う高校から少し離れた狗尾高校という男子校の生徒。大柄な洋犬で女の子なら
だれでも抱きしめられたくなるような、真っ白く誇り高い毛並みを持つ男子生徒だ。
学校から帰りの電車の中で、飛鳥にタケルが話しかけてきたことから二人は始める。

飛鳥がタケルと付き合い始めたのは、それぞれが高校に入った頃のこと。
「ここ、涼しいですよ」
タケルの心遣いからだった。
青い海の見える涼しげな窓際、タケルの純粋な親切心が恋心に変わる。そして、二人が付き合うようになるには、そう時間は必要なかった。
そのとき泊瀬谷も一緒に電車の中に居たので、タケルのことは少しばかりは知っている。
始めこそぎこちない二人だったが、日に日に二人はお互いのことを深く知るようになる。
立派な体格のタケルの姿を見て、泊瀬谷は飛鳥のことを嫉妬したと同時に心から幸せを祝った。
友人の恋人だもの、応援しなきゃ。

あるとき、飛鳥はタケルの普段見せない仕草を嬉しそうに話していた。
タケルの尻尾にきゅっと爪立てちゃった、だの。
「尻尾を握ると嫌がるんだよ。大きい体してるのに。で、いきなりわたしが指から爪を出すと『ひっ』って声出して驚くんだ。かわいい」
泊瀬谷は飛鳥の話を勝手に自分に当てはめて、にこにこと楽しんでいたのだった。

「飛鳥も果報者だぞっ。あれだけの男子を彼氏にできるって」
「ううん。そう思われても仕方ないけどね」
「だって、タケルくんすごい人気者だよ」
海岸沿いのコンクリの護岸の上、両手を広げ尻尾を立てて歩く。飛鳥は子どものようにはしゃぐ泊瀬谷と違う目をして俯いていた。
両手でしっかりとカバンを携えた飛鳥が歩くたびに、膝でぽんぽんとカバンの背がぶつかる。
海風がスカートを捲ろうとふわり。泊瀬谷は海側に背中を向けてカバンを持ったまま押さえる。
同時に飛鳥の黒髪が揺れて足取りを止める。遠くで私鉄電車が揺れる音が聞こえてきた。
しかし、飛鳥の不安を誘うような、何かに必死に縋りたいような気持ち。泊瀬谷にはそれが分からない。
「わたし、タケルと別れようかなって、思ってるんだ」
「えっ」
興味から理解。知ることは気持ちの晴れることかもしれないが、同時に伏せたくなる事実もはらむ。
「タケルと付き合ってきて考えたんだけどね」
両足揃えて護岸から飛び降り、ローファーの足音鳴らす。スカートがふわりと舞い上がる。

大柄なイヌが小さなネコを連れて歩く姿は、学校の女子たちの間では目を引くものだった。
できることなら、ずっと二人が幸せでいて欲しい。たとえ、自分の幸せを二人に分けて、ぽっかりと穴が開いてしまってもいい。
だからこそ、飛鳥の気持ちを理解するのが困難だった。

「タケルくん、優しいのにどうして」
「どうしてって……。なんだかねえ、優しすぎてイヌのことが分かんないのよね」
「頼り甲斐があって」
「そうなんだけど、ほら。わたしたちってネコじゃない。それが彼には分からないみたいなのね」

種族が違う。
イヌとネコだから。
ツメが違う、牙が異なる。
瞳も違う、そして何もかも違う。
言い訳を見つければ見つけるほど、湧いてくる二人の違い。
所詮はオトナの言い訳だ、と吐き捨てても泊瀬谷には受け入れられない純粋な子どもの気持ち。
「タケルはタケルで『お前は気まぐれすぎる』って言うし、わたしはわたしでタケルのこと『真面目すぎだよ』って思うんだよね」
「真面目って、だめ?」
「うーん。放っておいて欲しいときに心配してくれるんだよね。うれしいけど」
「……うん」
同じネコ同士だからこそ分かる、ネコの価値観。
親切心が恋心、恋心が老婆心へと変わるとき。
「はせやんもイヌの男子はやめた方がいいかも。はせやん、恋愛初心者だし」
「教習所も通ってないけどね。それに、わたし」
「いつかは『泊瀬谷センセ』って呼ばれるようになるんだもんね」
「なれるかな」
「なれるよ」
海岸沿いに立つ古い建物が目に入る。同じ制服の男女が群れ、解きかけのクロスワードパズル雑誌を伏せて駅員が改札を始めていた。
二人が乗る私鉄の郊外線に、成人式を二回ほど迎えた電車がゴトゴトとホームになだれ込む。
ブレーキの空気が吐き出される音に、身体の小さな生徒は怯えていた。運転士が窓から顔を出す。
その中には狗尾高の男子生徒が幾ばくか乗り合わせており、イヌの生徒ばかりとあってか、かなり車内が狭く感じる。
『好きっていうことと、なりたいっていうこと』
泊瀬谷が悩み続けているうちに、飛鳥は駅入り口に駆け込んで定期券をすっと出す。

――――恋が実ることなんて無いと思っていました。
全ての恋は、氷漬けにされた花。眺めているうちは美しい。だけども取ろうと思って氷を触ってみると手を傷めてしまうのです。
爪を立てても、けっして花には届かない。いつかあの花を手にしたいと、氷が融ける日を毎日ずっと待ち続けていました。
わたしが高校生のころ、友人たちは、氷を一ミリでも融かそうと熱心に暖めたり、かじったりしていたのですが、
わたしにはその頃それに興味が無かったのです。いや、無かったと言えばウソになります。手を出すことが出来なかったのです。

時間はわたしに残酷です。
頭をぶつけて母親を追い駆けていた子ネコは、いつの間にか大きくなって、一人だちの日が来てしまったのです。
教師である父の元、わたしは一生懸命に教師になる勉強をしました。大学に入りました。学校に勤めることになりました。
社会的な地位も手に入れることも出来ました。しかし、氷漬けの花のことをすっかり忘れていたわたしが、
がむしゃらにオトナになることだけ考えていた頃は、終わっていたと気付きます。そして、花のことをふと、思い出したのです。
すっかり氷が融けて、水に濡れた若い花をオトナになってしまった今、手にしてしまったのでした。

花はきれいでした。何処にでもあるような花でした。そして、もうそれは、冷たくもありませんでした。
一輪の花を手にすることがこんなに嬉しいことだとは思いもしませんでした。しかし、同い年のみんなは、
とっくにわたしよりも大きくてお値段も高い立派な花を両手一杯に抱えていたんです。

それでも、わたしは自分が手にしている小さな花が愛しくて堪らないのです。

―――時と雲は流れる。

     ××××××

交わす言葉は無くていい。
そっと側にいることだけが、約束だから。

義理を重んじるイヌと自己を愛するネコだって、二人を繋ぐものがあれば、きっと。
種族が違っても、きっと上手くやっていけるはず。
「先生、分かってるよ。一人で本を読んでいたってこと」
「……ごめんなさい」
耳をたたんだヒカルは、そっと隠していた本を腿の上に差し出す。
ヒカルの一緒にベッドに腰掛けて、顔を赤くしてお説教。だって、泊瀬谷は担任教師。

「いけないことしていたから『めっ』てするよ」
白くて豊かなヒカルの尻尾を泊瀬谷は握る。そっと、大切なものを手にするように。
柔らかい。温かい。くすぐったい。そして、ヒカルの表情が胸を打つ。
小さなネコだって、イヌを困らせることができるんだよ。と、言いたげな泊瀬谷は、ヒカルが油断している隙を狙って、指から爪を伸ばす。
「ひっ」
「へへへ!」
するりと抜けたヒカルの尻尾の感触が泊瀬谷に残る。もう、二度は触らせてくれないのだろうかと、心残り。

「お仕置きはおしまい。だから、もう何も言わないよ。今度は、ヒカルくんが先生にお仕置きする番だからね」
「……お仕置きだなんて」
「具合も悪くないのに、保健室に来たんだもん。ヒカルくんからお仕置きされなきゃ」
泊瀬谷の声は授業のときよりも明るい。そして、つづけて。
「こんなお仕置きはどうかな。『ヒカルくんが保健室に勝手に入っていたことをわたしはずっと黙っておく』っていうの」
いつの間にか泊瀬谷はヒカルの肩に寄り添って、瞳をそっと閉じる。
「だって、先生はきまぐれなネコだもの。こんなお仕置き、苦しくて苦しくて……」

きっと大丈夫。ずっと大丈夫。
わたしはヒカルの気持ちをきっと、ずっと分かっているはずだから。
泊瀬谷は自分がネコでヒカルがイヌであることに深く感謝しながら、くんくんとヒカルの襟首を嗅いだ。


おしまい。