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蝙蝠の血


「痛っ!」

手に感じる異質な感覚と共に、有らぬ方へ滑るアートナイフ。途端に指先に走る鋭い痛み。
しまった! と自分の手へ目をやった時には、左の人差し指の先にルビーにも似た真紅色の珠が膨らみつつあった。
慌てて側に置いてあるティッシュを数枚取って指先を包むと、忽ちその部分が朱に染まっていった。

「……あ~あ、やっちゃったか」

血の赤を見て、彼の脳が指先の傷を認識したのか、ズキズキと人差し指が痛み始める。
全く油断していた。久々の有休は趣味の模型三昧と決めこんだ矢先にこれだ。
模型を作る時は、あれ程アートナイフは慎重に扱えと自分へ言い聞かせていたにも関わらず、
プラのバリを削っている最中にうっかりテレビに気を取られて、アートナイフに掛ける力の加減を間違ってしまった。
後悔後先に立たず。考えている間にも指先を包んでいるティッシュは赤の面積を広げつつある。早く手当てをしないと。

「あら、如何したのあなた?」

救急箱を探そうと自分の部屋を出た所で、彼は誰かに声を掛けられ思わず振り向いた。
其処にいたのは彼の妻であるコウモリ族の女性の姿。エプロンをしている所から見て料理の最中だったのだろう。
妻に対して急に申し訳無いものを感じた彼は、少し苦笑いを浮べながらティッシュで包んでいる指先を彼女へ見せて言う。

「いや、ちょっと模型作っている最中に油断しちゃってね…」
「それは大変! ちょっと傷を見せて」

言って、側に駆け寄った彼女は彼のその手を取って、傷口を包んでいるティッシュを剥ぎ取る。
しかし、血はまだ止まっていないらしく、ティッシュから開放された指先の傷口に再び真紅色の血の珠が形成されて行く。
それを前に、彼女は嫌悪を抱くどころかむしろ恍惚の表情を浮べ、真紅の珠が膨らむ指先へそっと顔を近づけ、

「いただきます……」
「あっ、ちょっ…おい!?」

自分の指先を咥え、舌先で傷口をねっとりと舐め始めた妻の行動に彼は困惑し、思わず彼女から指先を離そうとする。
しかし、彼の手を掴む彼女の翼手の先の鉤爪の付いた指の力は意外に強く、幾ら振り払おうとしてもビクともしない。
それでも暫くは振り払おうと試みたが、結局は抵抗が無駄だと悟り、彼は彼女のされるがままになるしかなかった。

「ん…おいひい…」

彼女の唾に含まれる麻酔成分のお陰か、ずきずきとした痛みこそ無くなったものの、
代わりに、血を舐め取ろうとする彼女の舌の、傷口をじっくりねっとりと執拗に舐めまわす動きがこそばゆく感じてきた。
舌全体を指先に巻き付ける様にうねったかと思えば、切り傷の線に沿う様に舌先が這いまわる、
それは目的こそ違うが、これは愛撫と言っても何ら変わりの無い動きだった。

「おい、もう良いだろう……?」
「ちゅ……まだちょっと……」

そろそろ恥かしい物を感じ、彼がやめる様に言うも、
血の味に夢中になった彼女は全く止める様子も無く舌を更にうねらせ、より多くの血を舐め取ろうとする。
指先に感じる彼女の体温、ぬるぬるぐねぐねと傷口を艶かしく這い回り続ける彼女の舌、しっとりと湿った彼女の口腔。
その感触に、彼の姿勢が自然と中腰になるのは如何しようも無い男のサガと言うべき物か。

「ふぅ、ご馳走様」
「……全く、少し怪我をしたら直ぐこれだな、君は……」

暫く後、満足したのかようやく彼女が指先を開放した所で、何とか佇まいを正した彼は呆れ混じりに言う。
先祖が血を糧としていたチスイコウモリ族である彼女は、血を見ると舐めずには居られない習性?を持つ。
特に、傷口から溢れ出る新鮮な血は彼女にとっては極上のスィーツと同位なのだ。見れば堪らず飛び付いてしまう。
そんな本能に一瞬だけ支配された事に、彼女は少しだけ申し訳なさそうに笑って言う、

「だって、こう言う時じゃ無いと正々堂々と血を舐める事が出来ないじゃない?」
「まあ、そりゃそうなんだろうけど……って、ちょっと待て」

言いかけた所で、彼はふと有る事に気付き、その疑問を彼女へぶつける。

「正々堂々…って事は、こっそりとなら何度か舐めた事はあるのか?」
「――っ!? そ、そんな事無いじゃない? ね、ねえ?」

ああ、完全にクロだな、これは。 彼は彼女が嘘をついていると心の中で確信した。
何故か? それは疑問をぶつけた瞬間、彼女の大きな耳がびくりと震え、紅の双眸がすっと横へ逸らされたのだ。
夫婦の関係を続けてきたからこそ分かる、都合が悪い事を聞かれた時に妻が見せる些細な変化。

「そう言えば最近、身に覚えの無い小さな傷が増えたなと思ったら……」

彼は彼女へジト目を向けながら、自分の顎の下へ手を当てて言う。
しかし、彼女はそれ以上の追求を避けようとしたのか、微妙に赤く染めた翼膜をばたばたと振って

「そ、そう言えばお鍋をかけっぱなしだったわ! いけないイケナイ」
「…………」

スリッパをパタパタと鳴らしながら台所へと逃げて行くその背を見送って、彼は独り考える。

道理で、先週の会社の健康診断で貧血気味と診断された訳だ。
知らない内に妻に血を舐め取られていれば、そうなってしまうのも当然と言う訳か。

自分の身体の不調の原因を突き止めてしまった彼は、何処までも深い溜息を漏らすと、
妻の唾液の所為で血が止まらなくなった傷口をティッシュで包みながら、救急箱を探しに行くのだった。


                         *    *    *


夜、日光注ぐ昼を生きる者が等しく眠りに身を任せる時刻。
空に輝いていた太陽が地上へ暫しの別れを告げて、その空を宇宙本来の色へ変える時刻。

「…………」

月と星の輝きが梅雨の雨雲で覆われ、その闇の色をより一層濃くした部屋。
蒸し暑い熱帯夜を凌ぐ為に開け放たれている窓に、すっと唐突に一つの影が現われ出る。
影は二度三度周囲を見やると、慣れた動きで音も無く部屋へ降り立ち、その大きな耳と敏感な鼻で有る物を探し始める。
それは生き物が立てる寝息の音、そして寝息と共に放出される二酸化炭素の僅かな匂い。

「……!」

部屋の中心から少し南の辺りのベッドの上。
其処に目的の物――熟睡している彼がいると感じ取ると、
影は四つん這いになって目的の物の方へ飽くまで慎重に、そして大胆に忍び寄って行く。

「――――――――」

ある程度まで近づいた所で、影は人間には知覚出来ない声を出し、その反響音で彼の身体を探る。
エコーロケーションと呼ばれるそれは、例え闇の中であっても物の形状を正確に読み取る事が出来るのだ。
そして、その計測結果から一番都合の良い場所を探り出した影は、笑みを深めてその方へ顔を寄せる。

「…久しぶりに血を舐めさせたあなたが悪いのよ?」

ポツリと、眠っている筈の彼へ呟く影、その正体は彼の妻だった。
そう、彼女は昼頃に久しぶりに血の味を味わった所為か、チスイコウモリとしての本能が騒ぎ始めてしまった。
しかも、その時は彼の追及を逃れたい余り晩御飯をあまり食べずに済ませたので、お腹の虫も騒いでいるのだ。
だから、彼女は彼が寝静まっているであろう時を見計らい、こっそりと彼の血を舐める事にした。
さっき起こられたばかりだけど、騒ぎ出す本能と空腹だけはどうしようもない。

「良し良し、ぐっすりと寝ているわね……」

未だに熟睡しているであろう彼の様子に彼女は笑みを浮べると
そっと彼の首元に顔を寄せて口を開き、狙いをつけた場所へ自分の牙を向ける。
下手な剃刀より鋭い彼女の牙は、彼に何ら痛みを感じさせる事無く皮膚へ小さな傷を付ける事だろう。
後は、傷口から溢れ出した血を心行くまで味わうだけ。その味を想像するだけで涎が口腔を満たす。
ああもう我慢できない。その無防備な首元、頂きます!

「――きゃっ!?」

――牙を突き立てようとしたその矢先。唐突に灯される部屋の蛍光灯。
闇に慣れていた網膜を突き刺す蛍光灯の光りに、彼女は立ちくらみにも似た感覚を感じつつ戸惑いの声を漏らす。

「…案の定って所か」

かかった声に彼女が驚き振り向いて見れば、其処にはベッドに身を起こした呆れ顔の彼の姿。
彼のその手には蛍光灯のリモコンスイッチが握られていた。
恐らく、彼は彼女が近づくのを待って、リモコンを操作して蛍光灯を灯したのだろう。

「…あ、あなた、起きてたの!?」
「ああ、お前が窓からこっそりと入って来る以前からな」

どうやら、彼はあらかじめ彼女が来ると見越した上で、寝たふりをして待っていた様だ。
彼女は騙されたと心の中でホンの少し憤慨すると同時に、彼に黙って血を舐め取ろうとしたのを申し訳無く思った。
多分、彼の事だ。これから自分が黙って彼の血を舐めようとした事でたっぷりと説教するに違いない。
そう、こう言う事に対して彼が厳しいと言う事は、彼と夫婦生活を続けている彼女が良く分かっていた。

「あの、ゴメンナサイ……」
「ったく、仕方ない奴だな、君は……」

その彼の言葉に、説教が来る、と彼女が思わず正座して身を竦めるも。何時まで経っても説教が来る様子が無い。
それを不思議に思いつつ彼女が顔を上げて見ると、彼が絆創膏を巻いた指先を差し出している所だった。
いよいよ彼の行動が理解出来なくなり困惑している彼女へ、彼は不思議そうな目を向けて言う。

「……如何した? 呆気に取られた顔をして……僕の血を舐めたいんだろう?」
「え? いや、あの……あなた、怒らないの?」

てっきり説教される物だとばかり思っていた彼女は思わず彼に聞き返す。
彼は、フゥ、と溜息を漏らすと、穏やかな笑みを浮べて答える。

「どうせ、ここで僕が怒った所で、君の血に対する本能的な欲求は止められないのだろう?
君が幾ら本能を抑えようとも抑え切れないのは良く分かるよ。なにせチスイコウモリって呼ばれている位だしね?」
「あ、う、うん……」

ここで彼女はふと、自分の学生時代のことを思い返す。
学生の頃、同級生達は皆、自分がチスイコウモリ族と知るや、危険な物を見るような目を向けて避けていた。
そんな彼らに対して、彼女はチスイコウモリ族なだけで忌避する彼らの単純さに呆れ、自ら距離を取っていた。
しかし、彼らが忌避するのも当然だと思う。何せ、自分は今さっき、本能に身を任せて彼の血を舐めようとしたのだ。
これでは他人に避けられてしまっても文句が言えない。自分がチスイコウモリであるのが嫌になる。
そうやって自己嫌悪を陥っている彼女を知ってか知らずか、彼は彼女の両肩に手を置いて優しく言う。

「言っておくけど、僕はね? 君がそう言う習性を持っていると分かっている上で君と婚約したんだよ?
今、君が血を舐めたいと言うなら、僕は喜んでそれに応じるまでさ」
「あ…あなた…」

嬉しかった。彼の言葉が如何しようも無く嬉しかった。
彼は自分の性癖を知った上で、敢えてそれを受け入れてくれているのだ。
それを愛と呼ばずして、何と言うべきだろうか?
この時ほど、彼女は彼と結婚して良かったと深く感じた事は無かっただろう。

「さて、と。話を戻すけど、如何するんだい? 血が欲しいんだろう?」
「う、うん。…けど、あなたの指からは貰わないわ」
「……?」

再び指を差し出した所で彼女に頭を横に振られ、彼は思わず首を傾げる。
そして彼女はクスリと彼へ微笑みかけると、

「今、私が血を舐めたい場所はね……ここ」
「――――っ!?」

視界一杯に彼女の顔が迫ったと同時に、舌先にちくりと感じる小さく鋭い痛み。
舌先を噛まれた、と彼が感じた時には、血の塩味を共に彼女の舌が自分の舌へ絡み付く所であった。
そして暫くの間、舌と舌を絡ませる形で血を舐め取った彼女は顔を離し、彼へ妖艶に微笑む。

「あなた。今夜は血液以外にもいろいろと欲しくなっちゃったから。覚悟して頂戴ね?」
「血液以外って……まさか――――うむぅ!?」

彼が言葉を言いきる間も無く、再び彼女に唇を塞がれ、彼の声はくぐもった声に変わった。
そして、彼はそのままベッドへ押し倒される、気がつけば彼女の翼手が彼のズボンへと伸びようとしていた。
そんな状況の最中、彼の思考の中で冷静な部分はある事を考えていた。

……自分の予想が正しければ彼女の言う血液以外の物と言うのは、多分、『アレ』の事なのだろう。
そうなると、これからより仕事を頑張らなくては行けないだろう。――いや、頑張らなければならないのだろう。

――そう考えた所で、彼の意識はピンク色に染め上げられ、やがて何も考えられなくなった。

                        ※    ※    ※

そして翌日

「久しぶりね、朱美。元気にしてた?」
「うん! 言われるまでも無くアタシは元気よ♪
……で、それで旦那さん、如何したの? なんだかげっそりとしてる様だけど」
「あ~…ちょっと、頑張りすぎたと言うか何と言うか……」
「……?」

久しぶりに会った親戚の少女の前には
妙に毛並みをつやつやさせた彼女と対照的に、妙にげっそりとした様子の彼の姿があったと言う。

―――――――――――――――――――――終われ―――――――――――――――――――――