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由香里と隆志


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 この時期は日差しが強く、汗だくになって自転車をこいでいる俺が滑稽に思えて仕方がない。そもそも、会ったこともない遠い親戚の娘など、俺にとってはなんの興味もないわけで、薄情かもしれないが赤の他人に対していきなり優しくしろと言われても無理なのと同じように、たとえ親戚であっても知らないヤツだったら血が繋がってようが繋がっていまいが、他人に変わりないのである。捨て子は親を愛さないが、親は捨てた子を愛するようなものなのだろうか。
 いつの時代も、女々しく名残を惜しむのは親だけで、子供のほうはさっさと先へと進んでいくものだ。俺もきっとそうだろう……親の愛情など、重すぎて困るほどだ。そう言うと、いつだって普通に愛されていることに対して感謝しなきゃいけない、と言う大人もいるけれど、そもそも愛情を求めていないのならば、どうして愛されることに感謝しなければならないのだろうか。もっとも、俺は自他共に認める冷めた性格だが。
 愛情を期待しすぎてはいけないと知ったのは、昔のことだ。大好きだった親父が脳梗塞で倒れた時に、俺のことだけを忘れていた。その時からだ、俺が誰も愛さなくなったのは。
 今思い出してもツラい。親父が、俺だけをヘルパーだと思って接していたのは。結局、何も思い出すことがないまま逝ってしまった……それまでは、まだ期待を持ってもよかったのに。天国では、お袋と兄貴と、そして姉貴だけを見守っていることだろう。俺は親父に、愛されていなかったのだ。いや、この言い方は語弊があるかもしれない――親父は俺よりも、兄貴や姉貴を愛していたのだ。
 しかし、本当に暑い。蝉時雨が憎たらしくなってきて、おまけに急な坂道へと差し掛かったものだから、全身の毛穴という毛穴から汗が噴き出す。暑い、嫌だ、帰りたい。涼しい部屋で、クーラーを効かせて、ゆっくりと趣味の世界へと没頭したい。
「ったく、ざけんじゃねぇよ……」
 思わず、愚痴を吐く。誰も聞く人がいない分、いくら吐いても迷惑にならないだろう。
「そもそも、なんでこんな時に限って兄貴も姉貴も! お袋は免許持ってねぇし、不公平じゃねえかよっ!」
 怒鳴ったら、わき道から飛び出してきた女の子がビクッとしてこっちを見た。
 ……イラつく。おどおどしてる女の子の姿に、俺は眉間がピクリと動くのを感じた。
「文句あっか!?」
 凄みをきかせて睨むと、泣きそうな顔をしてもときた道を辿っていく。そんなことで、少しだけ気分が晴れる俺はどうかしていると思うが、やはり人に当たるのが一番せいせいするものだ。
 ってか、マジで熱ィ~、これ死ねるんじゃないか? そんなことを思いながら、俺は舌打ちをした。その音が、閑静な住宅街にいやに大きく響いて、余計にイライラを募らせる結果となった。病院まで自転車で一時間以上かかるから、あと三十分はこの暑さに耐えなければならないのか……。坂道を上り切って下りになっても、顔面に吹き付ける風は生ぬるいばかりだ。その風も、俺をからかって楽しんでいるような気さえしてくる。
 今から家に戻ってやろうかと思いつつも、そうした時は後日再び、俺が赴かなければならない状況になるため、手間を損得勘定した俺はやはり病院への道のりを必死で頑張ることにした。

 病院は、寒いほどにエアコンが効いていた。もっとも、寒いのは俺が汗だくで倒れそうだったり、暑い場所から涼しい場所へと急に移動したためなのだろうが。このまま病院の中に居たら風を引くと思い、受付へと急ぐ。
「すみません、今日退院する女の子を迎えにきたんですけれども……」
「あ、はい。お名前はなんでしょう?」
 確か、臼井由香里だったか。携帯のメモを見ながら、俺はそう告げた。
 俺が通された病室は、薄いクリーム色にも見える白壁の、共同病室だった。扉を入って、左右にベッドが三つずつ。臼井由香里は、左の列の一番窓側に住んでいた。
 いや、住んでいたという言い方が正しいかどうかは分からない。そこのベッドで生活していた、というのが正しいのかもしれない。もっとも、大差はないのだろうが。
「臼井由香里ちゃん。お迎えが来たわよ」
 と、看護士の方が白いカーテンを開く。既に荷造りは済ませているようで、中にはポツリとベッドに座る少女と、小さめのバッグが一つ。
「おい、お前着替えとかは?」
 フキゲンな俺は、小さな荷物を見て由香里に問いかけた。ビクリ、と肩を震わせて、俺のほうを窺う由香里に、再び苛々……。
「俺が今日からお前の家族で、お前の兄貴だ。質問には答えろ」
「……あまり、服持ってないから」
 やっぱり、ビクビクしながら答える由香里。しかも、人の目も見ず、俯きながら……。まあ、俺って髪の毛金髪に染めてるし、無駄に身長高いし、結構強面だから仕方ないんだろうな。ピアスとか付けてるから、余計に怖さ増幅してるかも。それでも、苛々するものは苛々する。
 病院だし病人だし、あまり声や態度を荒らげるのはいかん、と俺は思い、必死で苛々を押さえつける。自制心をフル稼働にして、ようやくストレスを抑えつける。熱中症になりそうなくらいの暑さから解放されたんだ、多少のことには我慢しないと……。
「生活の上で、何か気をつけることはありますか?」
 気分を変えるために、看護士さんに由香里の病気のことを訊いてみる。まあ、どうせ退院出来るなら大した注意はしなくていいだろうけど。
「はい。家族性突発死症候群なので、強い刺激を与えたりしないでください。雷や、インターホンの音にも気をつけて、なるべく安静に生活させてください」
「え? 突発死て……」
 普通に重病じゃん。退院させていいのかよ。
 つまり、突然死ぬってことだろ?
「普通に生活を送っていれば基本的には大丈夫だと思います。ただ、発作を起こした時には直ちにここへ来てください」

 病院を去る時、由香里は亜由美ちゃんって女の子と別れの挨拶をしていた。世話になった医者には、ありがとうの一言で済まして、同室の女の子とはあれだけ別れを惜しみ合うなんてな……まあ、女の子ってのはそんなもんなんだろうと俺は思い、病院を後にした。
 この暑さでは、熱中症が心配だ。俺は被っていた麦藁帽子を由香里の頭に被せる。
 すると、びっくりしたように俺を見上げる由香里。
「暑いだろ、これ被っとけ」
「……でも、お兄ちゃんは?」
 上目遣いで〝お兄ちゃん〟と来た。まあ、確かにそうなんだけどあまり慣れていないからこっ恥ずかしいな……。
「俺は平気。それより、後ろ乗れって」
「自転車怖い……」
「はぁ? んなこと……」
 と言いかけて、俺は続きを言うのをやめておいた。あまり強く言い過ぎると突発死してしまうらしいし、親父の死がトラウマの俺は他人だろうと誰だろうと、誰かが死ぬのは嫌だ。
「……歩くか?」
 由香里は、黙ってコクコクと頷いた。
 仕方ないので、俺は由香里の荷物を担ぐと、自転車を押して歩き始めた。由香里は後ろから、テトテトと歩いて着いてくる。……このペースじゃ、家に着く頃には太陽が沈んでるだろうな。
「由香里、歳いくつ?」
「……十二歳」
「親父とかお袋とかは? どうして俺ん家に来ることになった?」
「パパとママは私を捨てた。他は知らない」
 場が持たないので適当な話題を振ってみるが、元々口数が少ないのか由香里はすぐに黙ってしまう。親父とお袋に捨てられたってのは可哀想だと思ったが、それを口にすると余計にツラくなるだろうから敢えて触れない。トラウマが刺激になって突発死されても困るしな。
「暑いな……アイス、食うか?」
 近くにコンビニを見つけたので、声をかけてみた。由香里は黙って、首を横にフルフル。
「俺が食いたいから寄っていいか? 嫌なら寄らないでおくけど」
 今度は首を縦にコクリ。
 はぁ……。

 コンビニでアイスを買い、由香里はといえばスナック菓子を欲しがったので買ってやった。おそらく、咽喉も渇くだろうから飲み物も。
 しかし、俺の服の裾を引っ張りながらスナック菓子を指差した無言の行動は、こっちが驚くしかなり分かり辛いのでやめてほしい。もう少し喋ってくれるヤツだったらよかったんだけど……。まあ、仕方ないんだろうな。親子の関係も悪かったらしいし、病院ではあまり喋るヤツもおらんかったんだろう。
 そんなことを思いながら、理不尽な暑さもそろそろ和らいだ頃、由香里がピタリと足を止めた。
「どうかしたか?」
「……疲れた」
 まだ歩き始めて三十分くらい。歩けなくなるほどに疲れると俺は思わないが、病院に一ヶ月もいたなら足腰が弱っていてもおかしくない。自転車を道の脇に寄せてから由香里を抱き上げ、縁石に座らせてやる。マッサージしてやろうと思い、肉の薄いふくらはぎを触ってみると、パンパンに腫れている。
「うわっ……ガチガチじゃんか」
「うん……」
「こんなんになるまで、何で黙ってたん?」
「だって、迷惑だと思ったんだもん……ゴメンなさい」
 目を伏せて、やはりおどおどしたように謝る由香里。確かに迷惑だけど、こんなんになるまで歩かせてたなんて思うほうがよっぽど心に悪いんだけどなぁ……と思いつつ、ガチガチになったふくらはぎをもみもみ……。
 五分くらい経つと、由香里はまた歩けるようになったようだ。
「おぶさるか?」
 一応訊いてみるが、
「ううん。大丈夫」
 と言って、由香里は俺の後ろに着く。
「ああ、そういえば俺の名前だけどな。速水隆志。まあ、よろしくな」
「……うん」
 そんな調子で進んでいたら、家に帰るのも当然遅くなるわけで……。ようやく家に到着した頃には、既に七時を回っていた。病院は三時頃に出たはずなのに!

 家で待っていたのは、お袋の説教だった。
 どうやら、帰りが遅くなったことに対して怒っているらしい。由香里が歩くと言ったから一緒に歩いたため遅くなったのに、怒られるのは俺だ。腹立たしいことこの上ない。
「五月蝿ェな、仕方ないだろ。由香里が歩いて帰るって言ったんだから」
「あんたが無理やり歩かせたんじゃないの? 由香里ちゃんがそんなこと言うわけないでしょ!」
 理不尽な説教は、俺が嫌いだからではないと知っている。親父のこともあり、俺のことが心配なんだろう。だから、必死で俺を愛そうとしてるんじゃないかと思う。でも、由香里に刺激を与えちゃいけないから黙ってもらわないと……。
 俺、いつの間にか由香里に気ィ使いまくってるな。そう思いながらお袋を諭す。
「由香里も疲れとるみたいだし、飯食わせて早よォ寝かせたろうや? あんまビックリさせても、身体に毒だし」
 お袋も納得したのか、渋々といった体で口を閉ざす。そして、飯の支度をする間、家の中やら色々案内してあげろと、俺に言い渡した。俺も、家の中を案内する必要を感じていたので、大人しくお袋の言いつけに従う。
 風呂やトイレ、後は適当にリビングや座敷など、家の中をざっと案内すると、由香里は楽しそうに色んな部屋を見て回った。はしゃいで飛び跳ねたり、リビングのソファに抱きついたり。姉貴の部屋では、大きなクマさんのぬいぐるみを抱きしめて気持ちよさそうに目を瞑っていた。俺からしてみれば、血の通っていないぬいぐるみのどこが面白いのか、全く分からないのだが。女の子はそういうものが好きなのだろう。
「由香里、そんなに楽しいか?」
 と訊くと、茶色がかった、まとまりのいいロングの髪を靡かせながら振り返って、満面の笑顔。
「うん!」
 細い手足を思い切り動かして、精一杯に喜びを表現しようとしている姿は、とても可愛らしいと不覚にも思ってしまった。子供らしく、丸みを帯びた顔をくしゃくしゃにして、アーモンド形の綺麗な二重の、大きな瞳も小さくして、無邪気な笑顔を俺に浴びせる。
 ――その姿があまりにも無垢で、あまりにも眩しくて。俺はフッと、目を逸らしてしまった。
「お兄ちゃん……?」
 いつの間にかの『お兄ちゃん』。今日初めて会ったくせに、俺のことを何も知らないくせに、無邪気に笑いかけてくる由香里が羨ましい――と、荒んだ心で思い出してしまう。世の中の酸いも甘いも知らず、今の由香里のように無邪気に微笑んでいた頃を。
「なんだ、由香里?」
 取り繕うように、由香里に微笑みかける俺の顔は、どんな風に見えていたのだろうか。そんなことを考えている俺の手を、小さな手でギュッと握り締める由香里の瞳は、不安げに俺を見上げていた。
「そろそろ、ご飯だろ? 行くぞ、由香里」
「うん……」
 由香里は目を伏せると、俺の手を離した。その代わり、服の裾を掴む。俺が歩き出すと、テトテトと、アヒルの子のように後をついてきた。
「金魚のフン」
「え?」
「いや、なんでもない」
 思わず口に出すと、丸い瞳で由香里が見上げてきた。どちらかというと、犬のようでもある。
「さて、今日のおかずは何かな~、由香里は何が好き?」
 と訊くと、元気な声で『プリン!』と由香里は答えた。
 プリンはおかずじゃないんだけどなぁ、と苦笑して、ちょうどその時兄貴と姉貴も帰ってきて、由香里の歓迎パーティーのような、珍しく家族全員が揃った食卓になった。
 エビフライに牡蠣フライ、からあげ、かきあげ、他にも異常に揚げ物が多い食事だった。ツナサラダや海草サラダなどもあり、豪華といえば豪華だが量が尋常ではなく、普段食べている量の二倍では済まないほどの量だ。
「お袋、さすがにこれは多すぎだろ。俺や兄貴達だって、こんなには食えねぇよ」
「あんた、言ってなかったっけ?」
 言ってないから訊いてんだろ。
「明日から三日くらい、この家開けるから。これだけ作っておけば、あんたと由香里ちゃんだけならそれくらい持つでしょう?」
 明日から三日くらい、家にいない? なんだよ、それ。俺は聞いてねぇぞ。
 怒鳴ろうとして、隣に座る由香里が目に入る。つぶらな瞳で俺を見てきて、小さな頭をペコリ。よろしく、って意味らしい。俺とはそれなりに話せるみたいだが、俺の家族とはまだ無理みたいだ。人見知りしてるんだろう。
 突発死っていう恐ろしい病気なんだから、俺もちょっとは我慢しないとだ。まあ、ここで怒ったところで仕方もない、明日からいないって事実が変わるわけでもない、開きかけた口を閉じて、そして落ち着きを取り戻してから再び口を開く。
「……分かったよ、行ってらっしゃい。念のため、少し金も置いてけよ」
「はいはい、分かってます。あんたも、由香里ちゃんと仲良くね?」
 そんなん気まずくて出来るか! と怒鳴りつけたい感情を抑え、俺は口を閉じ、仕方なく頷いた。明日から子守りの日々、と思うと、心に黒い雲が一つ、ポッカリと浮かんだ気分になってしまった。
 鬱っている俺の胸中など知る由もない俺の服を掴んで、由香里がポツリ。
「お風呂、入りたい」
「そうだね、由香里ちゃん。そろそろ、お姉ちゃんとお風呂入ろっか?」
 俺に向けられた呟きにも関わらず、夕菜姉ェが口を挟んだ。もっとも、俺としては嬉しい限りなのだが。風呂に入りたいと言われたところで、俺に何を求めているのかが分からない。無論、夕姉ェと風呂に入ればと俺も言ってやる。
「姉貴と仲良うなる機会だし、一緒に入ればいいだろ? 由香里も、女同士のほうがいいだろ、なんならお袋も一緒に三人でさ」
 でも、由香里は首をフルフルと振る。
「じゃあ、一人で入るのか?」
「ううん……お兄ちゃんと入る」
 ……はい?
 お兄ちゃん? って、この場合俺の兄貴のことを言ってるんだよな、そうだよな……?
 助けを求めた俺の視線は、二人の兄の微笑みで相殺され。
「隆志、由香里ちゃんと一緒に入ってやんなさい」
 お袋様の一声で、俺は発育不良の女の子と一緒に風呂に入ることになってしまった。

 風呂を漫画で表現するなら、『カポーン』やら『チャプーン』やら、多様な擬音が現れてくるものだが、由香里の場合は『ドターン』だった。おそらく、長い距離を歩いて疲れたのだろう、滑るタイルに足を取られて、見事に横転。
「大丈夫か?」
 慌てて声をかけてみると、驚いたのか息をゼイゼイと切らしている。切らしながらも、由香里は大丈夫という風に、コクリと頷いた。
「う……うん。だいじょう――」
 そこまで言って、ゴホゴホと咳き込む。細い体が折れそうなほどに、身体を九の字にして咳き込む姿は、あまりにも不憫過ぎた。廃れた俺の心が開きそうになるが、それをぐいと押し留める。
 ここで同情したら、またツラい。ここで大切に思ったら、またツラい。勘違いするな、俺は人が死ぬのが嫌なだけで別にこのチビスケを大事に思ってるわけじゃない。
 俺自身に言い聞かせる言葉は、あまりにも薄っぺらで。そして、自分で思っている以上に必死なのが余計に腹立たしかった。
「落ち着いたか?」
「うん……大丈夫」
 しばらくすると落ち着いたようで、しかしまた、滑って転んだら大変だから俺が支える。足やら手やら、細いくせに必死で俺の腰にしがみ付いてきて、そのあまりのいじらしさが苦しくて目を逸らす。
「お湯熱いから気をつけろよ……ゆっくりな」
 湯を汲んで、足元から慣らしていく。屈んだ俺の首筋に、顔を押し当てるようにしてすがり付いてきて、まだ子供だと分かっていながら不覚にもドキリとしてしまう。
 ――恐らく、不安なんだろう。
 ゆっくりと湯船に浸かり、ほうっと息を漏らす。湯気に当てられて上気した頬が、赤く染まっている。由香里の後に続いて湯船に入った俺の腰に、由香里は腕を回してくる。そのまま胸に押し当てられた感触は、なんなのか――俺の胸に顔を埋める由香里は、生まれたての赤ん坊のようで、あまりにもおぼろげな幻のようで、見ているのがツラくなる。
 違うだろ、俺――自分に言い聞かせる言葉は、どこまでも頼りなく、もっと無慈悲な人間だったと自分を貶め、それでもどこか折り合いの付かない胸中で、由香里を大切にしなければいけないという義務感が湧き上がる。それは確かに、俺の義務なのだろう。由香里を任されたのは俺なのだから。
 由香里はというと、口端を上げて、穏やかに微笑んでいるようだ。少なくとも、何かに怯えているような様子は見受けられない。明日死ぬかもしれないというのに、常に恐怖に晒されているというのに、ここまで穏やかな表情が出来るものなのだろうか。俺には絶対、無理だ。ただでさえ湿気がこもる浴室の中、俺は由香里が抱きついてくることによって、数割増しに湿気が纏わり付いてくるかのように感じた……何かの鎖に絡め取られている気がして、思わず舌打ちをする。