庄司甚右衛門

庄司甚右衛門

・略歴など


1575年(天正3年)3月、小田原北条氏家臣の家に生まれたとされる。『語園』に、「姉はおしゃぶ(和尚婦)といひて氏政公の寵妾也」と記されている。

1590年(天正18年)、秀吉との小田原合戦で小田原城が落城。甚右衛門は15歳で江戸に出てきた。
やがて遊女屋を営むようになるが、武士の身分での生業を恥じ、自らの生い立ちを明らかにしていない。そのため甚内出生については謎が多い。
一説には、北条氏の家臣などではなく、生まれは駿河の宿屋で商売のため江戸に出てきたのだ、とも言われている。
甚右衛門の女郎屋では、のれんに鈴をくくりつけており、客がやって来るとチリンチリンと鈴が鳴り、これを合図に客を出迎えていたという。

1605年(慶長10年)に各地に点在する遊女屋稼業の代表として、府内(江戸幕府直轄区域内)に遊女町を建設したいと三ヶ条の書付を提出した。

1612年(慶長17年)再度提出。

1617年(元和3年)甚右衛門は御評定所に召し出され、葦屋町の下(しも)にて二丁四方の場所を下し給わる。そのとき、甚右衛門は遊女町の総名主に命じられ、五ヶ条の御法式をもって仰せ渡せられた。

廓町の成立と共にその町名主となり、親仁の名で呼ばれていたが、正保元年11月、69歳にて死亡。

・親父橋について


当時旧吉原?の西側にあった東堀留川には橋が架かっておらず交通の便が悪かった。そこで甚右衛門は幕府に願い出て、橋を架けたと言われている。
これらの橋は、親父橋、思案橋?と名づけられた。
親父橋の“親父(おやじ)”は庄司甚右衛門のあだ名。
最終更新:2007年09月25日 22:14
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