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雨上がりのツンととがった空気を掻き分けて、アミダクジのような住宅街を歩く。
昼間の大降りはどこへやら、よどみのないベタ塗りの夜空にペーパー・ムーンがふんぞり返っている。
こんな夜は優雅に遠回りなんかして、明日の朝まで残りそうなくらいまで空気を吸い込んでから帰るのだが、
今の俺にそんな余裕はない。なんといってもこの大荷物だ。
事の起こりは、改札を出てすぐに俺の携帯へ届いたメール。
『駅前の〇〇薬局でお水二箱買ってきて!  母』
死の宣告だった。
しかし見てしまったからには無視するわけにもいかず、
仕方なく2Lのペットボトル6本入りの箱×2を抱えて帰ってくることになってしまったのだ。
…やっぱり妙な意地を張らずに、店からキャリーを借りてくるべきだったか。
キャリーをお貸ししましょうか、と店員が申し出てくれたのだが、なんとなくその目が
『こんなヒョロい奴にこれは運べないだろ』という哀れみ嘲りを含んでいるような気がして、
いりませんといって出てきてしまったのだ。
うん。被害妄想だな。なんというか、損な性分だ。
自分のバカっぷりに突っ込んでも始まらない。そう思って俺はもう一度力を込めて箱を抱えなおす。
小学校の前を過ぎれば家はもうすぐだ。
塾帰りらしい小学生の自転車集団を避けて、少しバランスを崩しそうになった。
歩行者を優先しろよ。心の中で悪態を付く。
しかしそれにしても、徒歩十分の道のりをこれほど長く感じたのは初めてだ。
あの母親は何を考えてるんだか。息子にこんなピラミッド建設並の重労働を押し付けやがって。
「おーい、マーくーん」
そうだ、その呼び方もだ。中学生のときからやめてくれといっているのに、
今に至るまで呼び名はそれで固定と来たもんだ。
「マー君ってばー」
だからやめろっての。せめて外では。マー君が許されるのは小学生までだよねー。
「こらー、無視すんなー」
まだ何か言いおる。しかしうるさい。何を大騒ぎしてんだ。
だけど、何か変だ。さっきから聞こえるこの声、妙に若くて高――――
「おりゃー!」
「ぬわ――――――――!!!!!!!」
突然、首と肩にまったく予期していなかった重量が加わる。
そのまま倒れて荷物をばら撒きそうになったものの、なんとか踏みとどまった。
な、何をするだァーッ!


「い、いきなりなんだよ!?」
「だってー、ガン無視とかひどくない?」
卑劣にも背後からフライングモンゴリアンチョップを食らわせてきた犯人は、
この間会った女の子だった。
「なにしてんだこんな時間に」
「まだ8時前だよ?このぐらい普通だって。マー君は何してるの、そんな大荷物抱えて。強盗?」
「んなわけあるかい。パシリだよパシリ」
そういって俺はスルーを試みた。お喋りに付き合うのはいいが、今はそれどころではない。
何しろ地球の重力とガチンコバトル中なのだ。手はもう限界に近い。
「うーん、なんだかお疲れのご様子ですなあ」
小刻みに震えている俺の手に目を留めたらしく、深刻ぶった声で彼女が言った。
そのとおり。もう手がやばいんです。ヤバイヤバイのバイプッシュなんです。
だから今日は帰らせてくれ…
ところが、全身で必死ぶりをアピールする俺に対しての彼女の言葉は予想だにしないものであった。
「ちょっとさ、そこの学校まで来ない?」
なにそれ。いやもうボク帰りたいんですけど。
そう思ったが、それを口に出す前に彼女はさっさと歩き出してしまっていた。返事聞く気ないのか。
行く先にあったのは市立第一小学校。俺の母校だ。
そこの校門前まで来たところで数人の女の子が、ひとみちゃんどうしたのー、などと言いながら
駆け寄ってきた。そうだ。この子の名前は藤本ひとみだったっけか。
その自分より頭ひとつ分くらい小さい子達と短く言葉を交わすと、「ここで待ってて」と俺に言い残し、
ひとみちゃんは校門をくぐって中に入っていってしまった。
後に残された女の子たちと俺。なんか気まずい。とりあえず俺は荷物を下に降ろした。
…これは何か話したほうがいいんだろうか。でも話題なんてないしな。
なにより滑ったら目も当てられない。
そんなことを考えていると、一台のワゴンが来て校門のすぐそばに停車した。
すると女の子の一人が明らかにほっとした顔で、
「あの、迎えが来ちゃったから先に帰るって、ひとみちゃんに言っておいてください」
言うが早いかワゴンに飛び乗る。周りの女の子もみんなそれに続いた。
ワゴンが勢いよく去った後、校門前にはただ一人俺だけが残された。
なんなんだ、いったい。
「あれ、なんだ。みんな帰っちゃったの?」
入れ違いのようなタイミングで戻ってきたひとみちゃんは不満げに口を尖らせた。
「迎えが来たってさ」
「ふぅん。マー君が必殺トークで引き止めててくれればよかったのに。
あそこのおばさん、話し終わるまで待っててくれるし」
「んな期待されても。大体なんでこんな時間に子供が何人も出歩いてるんだ」
「あれ、言ってなかったっけ」
やたらと大袈裟に驚きながら、ひとみちゃんは肩に引っ掛けたスポーツバッグを持ち上げてみせる。
さっきは持ってなかったが、どこからか持ってきたのか。
「あたし週に一回、ここで空手習ってんの。道楽で教えてくれる人がいてさ。
あの子たちも同じ。体育館に集まって稽古して、さっき終わったとこ」
スポーツバッグを下に降ろして、彼女は俺のすぐ目の前まで歩いてきた。
たしかにこのぐらいの距離になると、かすかに汗の匂いがする。男のそれに比べて心なしか甘い匂いが。
1メートルも離れていない目と鼻の先、街灯の真下で彼女は少し意地の悪い笑みを作る。
「あー惜しいなあ。みんなに弄られて涙目のマー君見たかったのに」
「鬼かよ」
それは冗談抜きでやめて欲しい。あの集団の前で精神的リンチなんて受けたりしたら本気で落ち込みそうだ。
俺は視線に非難をこめて、このナチュラルボーン・サディストを見下ろした。
青白い光がTシャツの胸元に意外な影を作っている。あれ、これは意外に…


「ぐへへ、ひとみちゃんはけしからんおっぱいしとるのう」
「何イ!?」
こ、心を読むのかこやつは!
「そーいう顔してたよ、今。あたしは別に気にしないけど、そういうのバレてないと思ってるのは
本人だけだからね。気をつけるように」
「…善処します……」
「そうだ、そんなエロエロ野郎のマー君にプレゼントがあります」
「わーうれしいなー」
なんか会話の主導権が完全にあっち側へ行ってしまった感じが。これはまずい気がする。
嫌な予感にやや及び腰となっている俺に彼女が差し出したのは、
スポーツ用のストローつきドリンクボトルだった。
「…これをどうしろと?」
「飲んでいいよ、それ。まだ残ってるでしょ」
「え、あ…どうも」
ううむ。確かにここまで大荷物を運んできて疲れていたし、喉も渇いていた。
まあ飲んでいいというのならありがたく頂戴しようか、と口をつける。
濃い。濃ゆい。たぶん蜂蜜やレモンが入ってるんだろうけど、これは入れすぎじゃないか。
「お味はいかがー?」
「…のどに引っかかる」
正直な感想を述べると、彼女は「なんだよー普通の反応かよー」などとご不満な様子だ。
「そこはさ、うわーこれって間接キスだどうしよう、ぐらいの反応が欲しいじゃん」
「…そんな純情時代は過ぎちゃったなあ」
大体どんなネタ振りだそりゃ。俺に何を期待しているのだろうか。
「だからさー」
何か言いかけて、彼女は言葉を切った。慌てた様子でバッグを担ぎ上げる。
なんだろうと辺りを見回すと、道の向こうに停まった車から人が降りてくるのが見えた。
「ごめん、お母さん来ちゃった。また今度ね」
手をぱたぱたと振りながらそれだけ言うと、ひとみちゃんは車のほうに走っていった。
またしても置き去りムードか、俺。



《hitomi…雨やんだね がサインインしました》
《メッセージの受信》

『今日、空手の帰りにマー君に会ったよ』
『ほう。いきなり浮気ときたか。いい度胸だ。そこになおれ、お仕置きだ』
『ちがーう!ほら、あのことに探りをちょっと』
『で?』
『雑談で終わっちゃった』
『だめじゃねえか』
『ダメでした。てへ』
『しかし、あまり踏み込みすぎるのもどうなんだろうな』
『だっておもしろそうじゃん』
『程々にしとけ。あまり立ち入って痛い目にあったらどうする』
『マー君がサカっちゃって、てこと?大丈夫だって』
『誰だって魔が差す、ってことがあるからな、用心はしとけよ』
『ヘッ、オレはこう見えてもカラテのブラックベルトなんだぜ』
『死亡フラグだそれは。しかもまだ黒じゃねえだろ』
『いいの!次受かれば黒だし』
『そういえば帰りに会った、ってお前小母さんの車に乗せてもらってるんだろ』
『だからアレ。体育館の端っこの』
『丸見えスポットか』
『あそこからフラフラ歩いてるのが見えちゃってさ、荷物ほっぽっといて声かけに言った』
『それはまた熱心だな。しかしあそこもいい加減何とかするべきだと思うが』
『まあ、あたしたちの記念の場でもあるし、あのままでいいんじゃない?』
『そうか。そうだな。まあ、なんにせよお節介は程々にしとけ』
『はーい。あと一応言っとくけどマジで浮気とかないからね』
『知ってる。そうだ、この間の話父さんにしてみたら、別にいいだと』
『ほんとに!?やったー!じゃあお弁当持ってくね』
『一応墓参りだから、はしゃぎ過ぎないように』
『了解であります、サー!』