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 地を、這っていた。

 逃げる為の足も、抗う為の腕も、睨み付ける目も、自死に至る術すら、何もかもを奪われて、ただそこにそれは在った。
 痛みも、苦しみも今は遠く、何故己がこうして上も下も判らない場所に在り続けるのかをそれはずっと考えていた。否、思い起こしていた。識っていた筈なのに、忘れてしまった。忘れてしまったのは、時間の経過ばかりが全てではない。
 忘れようとしたからだ。忘れようとしたのは、そこに怒りや憎しみが伴うことを知っていたからだ。その怒りや憎しみが、決して果たせないことを知っていたからだ。
 それは、だから絶望を由とせず、諦念と忘却を以って世界を閉じた。

 時折、複数の何かがそれを運用したが、些末なことだった。視界も、世界も閉じた中に在って、「外」で何が起きていても、また「内」に何が渦巻いていても、伝える術を互いに持たないのなら、世界は各々が独立し、帰結しているのだ、とそれは考えた。痛みも、憎しみも悲しみも、それの「外」には存在しないのなら、固執し続けるのも滑稽な気がした。
 それが、何に使われているのかは、知らない。一度は認識したのかも知れないが、忘れた。時折、異物の混入を触覚から認識したので、それはそういう使われ方をするものなのだろう。異物は咀嚼と嚥下を要するものであることもあれば、飲み下すことのみを強要されることもあったし、牙を立てることを許さないときもあった。その後、口の中のものを全て引き抜かれたので、そこでそれは己が牙を、或いは歯を持つ「生き物」だったことを思い出した。思い出したところで現状が変わるわけではないし、自身の「内」に事実を留めるより他なかったが、それは取り敢えず今度は忘れないようにしようと努めることにした。久しく忘れていた強い痛みや、濃い血の臭いがそうさせたのかも知れない。

 それは、退屈していた。そう――また自覚に到り、それは暇という概念を有する「生き物」であったことを思い出した。血を流し、痛みを感じる「生き物」だった。
 そうして、そこでやっとそれは思い止まった。忘れようとしたことは、何となく、覚えている。何を忘れようとしたのか、そこまでは覚えていない。けれど、確かに忘れようとした。忘れようとした、それが、このままでは思い出されてしまう。
 例えば、それの名を憤怒という。
 或いは、それの名は憎悪といった。
 けれどまた、それこそが悲哀であり、絶望なのだと知った。
 だが、それは、それらではあったが、それらの名はそれそのものではなかった。けれど、充分だった。

 地を、這う。僅かな光すら届かない、暗い地の底を、這う。
 感触はまだ、肉のものだった。臭いも解る。潮の臭いだ。手足をもがれたとき、鼓膜も破られたが元々耳は上手く音を拾うことが出来なかった。治っていても、潮騒は聞こえない。だが、何よりもこの思考だけは確かに、肉塊のものだ。
 自由意志の命じるまま、四肢よ在れ、言の葉よ在れ、と肉塊は念じた。
 そうだ、確かにそれはかつて在り、今も在った筈のものだ。 自由の触覚と舌の先に乗せられ喉を震わせ紡がれる音は、確かにこの肉の塊にも宿っていた筈だった。だが、奪われた。
 悲哀も、絶望も性には合わず、だから怒りと憎悪に身を任せたが、すぐにそれにも飽きて諦観を以って世界に対峙することを選んだ。
 思い出す。憎しみや怒りは、息をするよりも自然に、肉が肉の如く今に到るよう生まれ落ちたその時から、常に、傍らに、影のように寄り添い続けていた。
 地を這う肉は、思い出す。上も下も判らない、光を捉えることの適わない潰れた目を蠢かせ、ごく当たり前に自分が世界を――テルカ・リュミレースを憎悪していたことを思い出す。憎しみの灯だけで、生きていけると信じていたことを思い出す。
 憎んでいた。滅びてしまえば良いのだと、そう願っていた。怒りに身を任せて生きるのは、ひどく心が安らいだ。同時に、そんな生き方しか出来ない自分に絶望もしていた。
 全てを思い出した肉塊は、声無き声で「内」より「外」へと吠えた。かつて確かに抱いた感情、それら全てをただの一つも奪われることなく、肉塊はそのとき強く、強く強く世界を想った。


 それでも確かに、光を映すこともあった。生まれたそのときから、色彩は亡く、音は遠く、舌の上に乗る尽くは砂ばかりではあったけれど、奪われて惜しいと感じる程には、光が在った。
 肉は嗤う。喉を引き絞り、くぐもった笑い声を上げる。
 舌は縺れたけれど、嗤いは止まらない。顔に張り付いた髪を欝陶しく思って、指先で剥がすように払い除ける。裸足の足や、背中からは冷たい石の感触が伝う。何より、閉ざした目蓋を透かして明滅する光に、肉塊は、

 肉塊は、目を開けた。睫毛が涙袋に張り付いて、引きつるように感じられた。目に映る全ては、いつか閉ざしたときと変わらず無彩色に揺れるそればかりではあったけれど、確かに、視界に映る鈍色の斑は空だった。
 ざまぁみろ、と肉塊は唇を動かした。声にはならなかった。けれどその言葉ばかり、胸の内で渦巻いた。
 空を仰ぎ見る肉叢は、ひとしきり世界を罵り嘲り笑い転げた後に、手のひらを陽に透かした。細胞死によって枝分かれした指先は強い光の下で輪郭を滲ませている。その色が、どんなものかは肉には知れない。
 腕を突き、上体を起こす。風は強い。潮風だ。けれど相変わらず殆んど機能しない肉の聴覚が、その音を拾い上げることはなく、世界には光と、そして無音だけが拡がっていた。
 強く、叩きつけるような風にも髪が舞うことはなかった。脂と頭垢にまみれた濃い色の髪は長く、重く、煩わしく、顔に、首筋に、腕に、足に、張り付いている。もっと色味が薄くなっていても良さそうなものなのに、と長いこと閉じていた世界を思いながら肉塊は脂ぎった髪を眺めていた。

 どれだけの間、空の下に座り込んでいたのかは知れない。どのようにして、地の底から這い出たのかも知れない。四肢が顕われた理由も、口内で舌が蠢く理由も、歯列が並ぶ理由も、眼球が光を認識する理由も、何もかもが知れない。だが、不思議と不安はなかった。
 肉塊の目は色彩を捉えることは適わなかったが、明滅の判別はついたので夜の訪れが遠いことだけは判った。そうでなければ肉が地の底とも海の底ともつかない暗がりに押し込められている間に夜というものがなくなってしまったか、だ。だとしたらそれは良い。肉塊は暗がりも狭いところもこりごりだったので、白く続く闇は愉快だった。反面、永いこと陽の光を知らなかった身体が徐々に疲弊していくのも感じていたが、構わなかった。白日の下に曝されて肉の器が果てようと、そんな些細なことはどうでも良かった。
 何処とも知れない、海のただ中、色味の薄い天地の狭間に在って、肉は概ね満足していた。地の底にて果てずにいたこと、陽の下に「世界の敵」として舞い戻ったこと、食い千切ろうとさえ思い、焦がれるほど憎悪した世界の平淡さに込み上げたのは嗤いだけであったこと――色々だ。趣きを欠いた、とも言える。
 何もかも、どうでも良くなった。強いて言うなら、真昼の明るさに紛れて隠れた人造の星一つ、落として割ったならそれはさぞ愉しかろうに、とそれが叶わないことだけを酷く残念に思う。
 強過ぎる光に灼かれる肉は、愉快な気持ちのまま喉を鳴らしてわらった。やがて薄ら白く霞む闇に、枯れた鼓膜が鈴の音を拾うまで不羈の肉叢は笑い続けた。

 闇の中に、少女が一人立っていた。瑞々しく柔らかな象牙色の肌と、赤みを帯びた黄金の髪が、幼い輪郭を縁取っている。十にも満たないような出で立ちの、金色の娘は微笑みすら湛えて肉塊を見据えていた。夜空に浮かぶ満月にも似た、ぽっかり空いた金色の目が二つ、揺るかな弧を描く。その様子を、肉は矢張り夜空の月でも眺めるかのような無関心さで、ただ見つめた。
「――まったく、地上を統べる人王が聞いて飽きれる。よもや封印の要たるザウデを、斯様にぞんざいに捨て置くとは」
 辛辣な物言いでありながら、笑う金色の娘は何処となく愉しげだ。「だが、」と口元を指先で覆う。これでは唇の動きが分からないな、と肉塊は思った。
 娘が肉の方へと一歩素足を進め遣れば、身に纏うレースをあしらった白いワンピースが翻り、金糸が揺れた。声音は歌うように軽やかに、けれどひどく落ち着き払った様子で紡がれた。
「エアルの乱れを感じて足を延ばしてみれば、稀有な場に居合わせることになったものよ」
 肉を見下ろし、娘は言った。娘を見上げて、肉はそこで漸く、己の網膜も鼓膜も、未だ世界の事象を捉えていないことに気が付いた。だが、同時に世界の全てが手に取るように解ることにも気が付いた。未だ覆われたままの娘の口元を見るまでもなく、言葉は肉塊に降り注いだからだ。
 少女の、白樺の小枝のような腕が延ばされ、髪の張り付くままの、垢まみれの肉の頬を指先がそっと覆った。冷たく、乾いた少女の手は心地よかった。
「答(いら)えよ、同胞」厳かに、少女の形をした生き物は言った。「そなたの目は、どのような世界を映している?」
 肉は、答えなかった。鎮まっていた筈の哄笑が、また口をついて出たからだ。喉を震わせて、空を仰ぎ見て、肉は笑った。涙すら滲んだ。
 少女は動じず、それどころか狂ったように笑い続ける肉の顔をその細腕からは信じられないような強さで引き戻し、月を思わせる双眸で覗き込んできた。
 答えよ――同じ問いを繰り返す美しい金色の化生に、肉塊は口の端を吊り上げると唾を吐きかけた。頬に添えられた手を振り払う。
「――気安いな、走狗」
 まだ、舌は縺れるようだったが、言葉を紡ぐのに不自由さは感じなかった。それどころか、今や肉塊は解き放たれ、自由だった。挑む為の足も、拒む為の腕も、敵を射る目も、死に至らしめる術も――何もかもを与えられて、ただそこにそれは在った。
「痴れ者が……」
 星の触覚たる始祖の隷長[エンテレケイア]が、怜悧な笑みを少女の顔に貼り付けたかと思うと、隠していた牙を剥き出しにする。――その瞬間でさえ、肉塊は笑みを深くするばかりだった。





不羈の肉叢 The Second Coming
20100224





誤りは真理に対して、
睡眠が覚醒に対するような関係にある。

人が誤りから覚めてよみがえったように
再び真理に向かうのを私は見たことがある。

J.W.V.ゲーテ 「格言と反省」