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 月のない、闇が濃く鮮やかな夜を往く。
 家々の灯りも消え、日中は健やかな喧騒に包まれている大通りも今は重く静かに沈んでいた。照らすもののない町並みは、影すらも闇に寄り添い酷く平坦に感じた。
 踏み固められた冷たい土の道を、フジョウの歩みを遮るように真っ黒い猫が足早に通り過ぎていく。やあやあご同類今晩はとても芳しく散歩には最適だ、とその後ろ姿を目で追いながら胸中で語り掛ける。それからすぐに何が散歩だ、と半ば自棄から来ている己の浮ついた言葉を否定した。
 週に一度の定期連絡、それが政府が穢者であるフジョウに出した自由への交換条件だった。気が付けば感じる露骨な監視の目だけでは足りないようだ。労力が有り余っているのか、暇を持て余しているのか、どちらにせよ毒にも薬にもならない第五判定の穢者相手に念の入ったことだ、と呆れを通り越して感心する。それでも、馬鹿馬鹿しい監視ごっこに律儀に付き合っているのは、その定期連絡を少しでも怠ればイ号で突っ込んで隔離病棟に強制入院させる、と文字通りのデカイ顔に――ではなく、デカイ顔で脅されたからだ。愛着はあっても自分のものではない家に戦車で乗り込まれるのも、完全監視体制であり病院とは名ばかりの監獄に再入院することにも然程抵抗はなかったが、その、デカイ顔で凄まれると何故か首を縦に振る以外の選択肢が浮かばないのは不思議だ。
 デカイ顔というのは、よく分からない被り物を身に付けた男だ。フジョウは男の素顔を知らないので、実際にはそう大きいということもないのだろうが、それでも彼の被る面は普通の顔の二倍以上の大きさなのでどうにもそう形容してしまう。男の名前はキカといい(下だか上だかの名前は知らない。もしかすると本名ではないかも知れない)、フジョウの監察官――つまりは監視だ。それだけなら特に気に留めるほどの人物でもなかったが、その男は先程気紛れに呟いたような軽口などでは決してなく、正真正銘の「ご同類」でもあった。しかも、第一判定だ。
 自分なんかを放し飼いにして監察するより先に、その狂犬に縄を着ける方が先だろう、とフジョウは思う。
 それでも、嫌なことは前倒しに終わらせてしまった。明日の仕入れも済んでいるし、顔ばかり綺麗な悪魔の笑顔にも耐えた。あとは家に帰って帳簿をつけたら風呂にでも入って寝てしまえばいい。今日は気分も良いし、湯は相当な勢いでもなければ水ほど穢は流れない。
 猫が路地裏の暗がりに消える際に掠めた釣鐘草が揺れる様子をぼんやりと眺めながら肩を竦めて息を吐く。
 本来なら、そのまま通り過ぎる筈だった。けれど何か違和感を覚え、フジョウは足を止めた。猫の消えた暗がりに目を凝らす。月のない夜の闇は濃く、穢者の暗視野を以っても見通すことは適わない。だが、そこには何かが居た。こんな真夜中、灯りもなしに暗がりに身を潜めるような物好きに心当たりは一つしかない。
 夜は、穢者の時間だ。そう遠くない場所で血が流されている、と生温い風が教えた。
 こんなことなら銃の一つでも持ってこれば良かった、と居間に飾られた壺の中に入れたままろくに手入れもしていない骨董品を思う。生憎、フジョウが今持っているものの中で武器になりそうなのは先の潰れた万年筆くらいだった。しかも、鞄の中にしまい込んでいる。
 回れ右をして一目散に駆け出すにはもう遅い気がして、せめてもの気休めにと視線は路地裏の暗がりに固定したまま鞄に手を伸ばしかけたところで闇が動いた。
 黒く、小さな塊が闇の中から飛び出してきた。
 拙い、と万年筆を取り出すより鞄そのもので応戦しようと判断し構えかけたところで洗練されてはいたが、あまりにも容易に追うことの出来る小さなものの動きに慌てて振りかぶりかけた腕を止める。飛び出してきたその塊は音もなく足元に降り立つと、しなやかな肢体をフジョウの足回りに撫で付け長く黒い尾を絡み付かせた。猫だ。それは先刻、暗がりに消える姿を見送った猫だった。
 勘違いであるならそれに越したことはない。けれど、それでも確かに鼻を突いたあの芳しさは確かに――そこでフジョウの思考は途切れた。足元の猫を咄嗟に掬い上げると身体を捻り後方へ跳ぶ。無理な姿勢からの跳躍に脇腹が引きつるが、逃げ遅れた鞄が地面に落ちきる前に引き裂かれる様を目の当たりにしたとあってはその痛みも無視するしかない。次の攻撃が来る、と目だけは良いくせにいまいち反応の鈍い身体へ避けろ、と命じる。脊髄反射は一撃目を避けて鈍くなっているようだったので、この方が速い。だが、その命令に上手く身体がついてくるかというと微妙なところで、攻撃を避けることには成功したものの軒先の水瓶に肩を殴打した。衝撃に驚いた猫が、そこで漸くフジョウの腕をすり抜け逃げ去った。遅ぇよ、と指摘する余裕はフジョウにはなかった。
 水瓶が倒れる。どわあ、ともごわあ、ともつかない奇声を発してフジョウは逃げ去った猫よろしく、手足を突いて倒れる水瓶から逃げた。こちらは完全に回復したらしい脊髄反射からの動き――更に言うのであれば本能的忌避感からの行動だったが、それがいけなかった。目の前に閃光が走る。フジョウの鼻先紙一重を掠めていった角材が、ゆっくりと地面から引き抜かれた。入れ替わるように、そろそろ切ろうと思っていた、薄ら白い灰色の髪が数本吸い込まれるように落ちていった。
 フジョウは焦った。顔を上げることも出来ず、地面に突いたままの手を掠めて落ちた髪が吹かれ行く行方を追うこともせず(これはしなくていいことだ)、ただただ焦っていた。
 怖い。角材が、怖い。殴られるだけでも相当痛いそれで鞄をずだずたにするわ、髪の毛切ってくれるわというのは、どれ程の力で振り回されているのかと考えるだけで、怖い。なのに倒れて割れた水瓶から、フジョウの方へゆるゆると水が流れてくるのだからこちらにも困る。そういえば一昨年近くの川が氾濫したとかいう理由で、川を中心に傾斜を作る工事がされた、というような話を聞いたことがあったかも知れない、と町外れの丘にある薬局の主人は思った。
「ご同類、か」
 しゃがれた声が降ってきた。取り敢えずの言語能力と状況判断力はある個体か、と頭が理解すると漸く視線だけを上に遣ることが出来た。
 声から想像した通り、その穢者(仮に、としておく。フジョウは固有能力のせいなのか穢に対する感知能力が低いらしい)は男だった。見た目にも、目立った澱はないように見える。つまり、多少くたびれているようにも見えたが男はごくありふれた一般人にしか見えなかった。それも筋骨隆々といった言葉からは程遠く、痩せこけた頼りない風体の男だ。しかし、男の手からだらりと無造作に垂れ下がった角材が二回――地面にめり込んだあれも数えるのなら三回の攻撃を仕掛けてきた本人であるのだと、暗に物語っている。角材の先端は夜の闇に溶けるような黒色に染まっていた。
「おたくみたいなのと一緒くたにされたくはないね。少なくても、そっちの趣味はねぇよ」
 顎で男の持つ角材を指しながらフジョウは言う。そして視線は穢者に固定したまま、後ろ手に背後を探る。不意打ちでなければ平気なのだと自分に言い聞かせながら、倒れた水瓶に手を掛けた。倒れた直後のように勢い良く水が流れだしている様子はない。殆んど流れ出てしまったのだろうか、とこの時ばかりは不安になる。本能が忌避すべきだと警鐘を鳴らすが、それ以上に能動的な危機に立ち向かえる武器はこれしかなかった。
「やめておけ。私の方が速い」
「……ご親切にどーも」
 何が、どうなるのか、を具体的に言わないでいてくれたことも含めて返す。
「共食いなど、余程の悪食か獣の所業であろうよ」
「や、人間サマに言わせりゃ大差ないと思うがね……俺含め」
 言いながら、ならば常人――人間と穢者と、どちらが恐ろしいのだろうか、とフジョウは思った。フジョウのような能力の低い穢者には群れで襲ってくる常人も脅威であるには違いない。退院して一〇余年、非人に遭遇したことはなかったので引き合いには出さずにおく。
「非人を見なかったか」
 思考を巡らせた間一髪を入れずに問われ、思わず視線が泳いだ。しかし不審とも言えるフジョウの様子を穢者は気にしていない風だった。
「見てねぇよ。なぁんか、さっきから臭いとは思ってたがね」
「非人だよ」
 穢者が促すように空を仰ぐので、フジョウも僅かばかり顎を突き出す。鼻腔をくすぐる、血の匂いばかりではない刺激臭に軽い眩暈を覚えた。
「芳しいだろう?」
「悪酔いしそうだ」
 意識を傾けなければ感じないとはいえ、穢者が蓄積するものとは比較にすらならない程の濃密な穢の気配がそこかしこに漂っている。目を凝らせば視認すら可能にしそうな穢に、フジョウは目蓋を伏せた。
「非人にありつくのは二年ぶりだ。ここ何年かの政策で囲われているからな」
 感覚と意識とを切り離して、非人の気配を追いやってから目を開く。穢者は相変わらずフジョウの傍らに居て、獲物の居場所を探っているようだ。やるなら俺の目の届かないところでやってくれ、とフジョウは念じた。
「手傷は負わせたが、さて――」
 穢者の視線が自分に落とされる。フジョウは、取り敢えず目を反らした。
「あんたの言うところによる二年ぶりのご馳走には興味ないんで、どうぞ俺のことは棄て置いて狩りを再開しやがって下さい」
 視線を地面に落としたまま、フジョウは懇願してみた。そして今日一日、自分は何か悪いことをしただろうかとか、人様に何か迷惑を掛けるようなことをしただろうか、と必死に考えを巡らせた。だが、生憎と心当たりはない。
 そんな葛藤を人知れず続けるフジョウに穢者が寄越したのは、蔑みとも憐れみともつかない溜め息だった。フジョウはそろそろと顔を上げる。居ない。その溜め息を一つ残して、穢者は消えた。フジョウの周りは、また穏やかな夜の静寂を取り戻した。
 長く、細い息を吐きながら肩を落とす。それからゆっくりと立ち上がるが、少し足下が覚束ない。非人の血が近くで流されているからか、と額を押さえて考える。
 ミナモリキョウスケが祓の指揮系統を取り仕切るようになってからは、非人の隔離保護が政府の管轄で行われている筈だ。穢者が先天的に存在しないように、非人もまた後天的には存在しない。何処かの施設から逃げ出したにせよ、まだ発見と登録のされていなかった個体にせよフジョウ――に限らず、「市民」とそれに類する政府の保護下にある者には非人発見の報告が義務付けられている。
 面倒臭い。フジョウは顔を両手で覆う。
 凄く、面倒臭い。何故か、少し本気で泣きたくなった。
 何も悪いことをしていないどころか、ミナモリと顔を突き合わせるという苦行に耐え、その帰り道に穢者の襲撃に合い命の危機に晒されるという不運に見舞われ、剰えこれから来た道を引き返してまたあの悪魔と会うのは御免こうむる。一日のこう、何かしら許容範囲というものがあるとして、どう考えても今のフジョウはそれを越えている状態だった。早い話が、さっさと家に帰りたい。家に帰って、当初の予定通り帳簿を付けて、ゆっくりと湯船に浸かり今日一日の疲れを洗い流し、戸締まりをして薄っぺらいがないよりマシな固い蒲団に入って寝てしまいたい。けれど、そういった類いの願望を切実に抱けば抱くほど、叶えられた試しはない。その殆んどは人為的、或いはいっそ悪意的な意志を以ってして妨害されるのが常だが、果たして今回の例は何物の意図が働いたのかと後にフジョウは何度も思い返すことになる。
 非人の気配にも慣れ、報告も明日にしてしまえと、帰路につくため踵を返した視界の隅で何かが揺れた。視線を巡らせると先程フジョウの腕を擦り抜けた猫が、吊鐘草の傍らでミャオウと鳴いた。首輪は着けてないようだがいやに人懐っこいというか、警戒心の薄さが元は飼い猫だったのだろう、という憶測をフジョウの脳裏に去来させる。だから猫が逃げないのを良いことに、身を屈めて手を伸ばそうとしたのは魔が差したとしか言えない。そうすれば、見通しの悪い暗がりから奇妙な物音が耳に届くこともなかった。フジョウの耳が確かなら、その物音は呻き声と、次いで何かが倒れこむ音に聞こえた。
 非人が居ました(多分)。でも死んでいました。報告遅れてすみませんでした。
 明日、後倒しに報告することになるであろう文句と、その後に返されるミナモリの笑顔が走馬灯の如くフジョウの頭の中を駆け抜けて行った。おかしい。走馬灯は死の間際に垣間見るものではなかったか、と遠からず訪れるだろう未来を思い、固まる。
 結局、フジョウは判定こそ解らないとはいえ立派な穢者と、その穢者を「保護する」立場にある祓の最高責任者とを秤に掛けて後者の意志を尊重することにした。化け物と政府のお役人さまとでは、お役人さまの方が恐ろしかった。
 鞄の中から万年筆を取出し握り締めると、一歩路地裏へと踏み出す。暗がりは踏み入ってしまえば早々に、鮮明に彩度を欠いただけの視界に切り替わる。その、見通しの良い闇の中を危なげなく歩く。この先は袋小路だ。血の――恐らくは非人の流した血の臭いはそこかしこに漂っていて、鼻の方が馬鹿になっている。距離感が掴めない。だからただただ視覚にばかり頼って、フジョウは路地裏の奥に辿り着いた。
 ふたつ、塊が落ちている。大きいものと、小さいものが重なり合うようにして落ちていた。その双方は、どちらもぴくりとも動かない。片方は、穢者だ。先程角材を持って襲ってきた穢者とは違う。そして、もう片方は、非人だった。
 乾いているわけではないのに、喉が鳴る。成る程これは、とフジョウは納得した。
 穢者と非人は、どちらも動く気配がなかった。フジョウは二つの大小折り重なった塊を遠巻きに見やりながら頭を掻く。もう、こうなってしまっては死んでいてくれるのが一番楽な気がしてきたからだ。生死確認をする為に近付いたところで、いきなりガバッと来てぅおーとなって剰えグッサリグッサリ来られては洒落にならない。だが、またしてもまだ見ぬ、けれど容易に思い描くことの出来るミナモリの笑顔に突き動かされた。
 すぐ足元に転がる二つの遺体(希望)を見下ろしながらフジョウは何故二つなのだろう、と思う。捕食者と被補食者という穢者と非人の関係から鑑みるに、どうにも今目の前に広がる光景は腑に落ちない。だが、結局もの言わぬ死体(希望)二つを前に明確な答えなど出る筈もなく、丁度穢者は非人に覆いかぶさるようにして倒れていたので、齧ろうとしたところを反撃にでも遭ったかな、と結論付けてしまった。だからきっと、本日もう何度目になるか分からないような不意討ちに反応するにはフジョウは色々と疲れ過ぎていた。
「新手か」
 嫌々ながら生死確認をしようと穢者の肩に手を掛けたところで、舌打ちと共に柔らかいくせに硬質という、何とも形容し難い声が降って沸いた。それとほぼ同時に、穢者の首筋に傷跡を見た。これは、致命傷だ。思わず死体(確定)を取り落とすと、それより早く小さな塊――非人は穢者の下から這い出してフジョウと対峙した。
 手には、夜の闇の中でさえなければ赤々と血濡れていただろう、黒い刀身を剥き出しにした短刀が握られている。凶器だ。あの小さな小刀がこの穢者を絶命に到らしめた。だが、それ以上に短刀を手にした非人の姿に釘付けになる。
「子、供……」
 忌避すべき脅威からでなく、純粋な驚きに突き動かされ言わなくても良いようなことを思わず口にした。
 それは、痩せこけた小さな生き物だった。纏う麻布から伸びた手足は憐れなほどにか細く、肉は削げ落ちてしまっている。それでも、垢に塗れた顔にはまった眼光は鋭く一切の同情をよしとはしない力強さに溢れていた。それは、子供と呼ばれる生き物だった。
 口にした言葉に漸く理解が追い付いたところで、次に込み上げてきたのは怒りだった。子供だ。ほんの小さな、まだ十歳になるかならないか程度のか細く、か弱い子供だ。それを、寄ってたかって化け物に分類されるようなのが群れになって追い掛け回している。その事実に、ただフジョウは憤った。
 子供――非人はフジョウに短刀を突き付けたまま動かない。当たり前だ。フジョウは捕食者である穢者であり、子供は搾取される側の人間だった。子供の牙は小さく頼りない。頼りないが、鋭い。だから、子供は極限まで相手を引き付けて、自分の首許に相手の気が向いているその隙に牙を突き立てて来たのだろう。一歩間違えれば、例えば少しでも狙いが反れてしまえば最後の危ない賭けだ。そして、今フジョウの前には子供の牙は晒されてしまっている。不意討ちは、無理だ。
 怪我をして痩せこけた非人の子供を目の前に、喚起されたフジョウのなけなしの本能は忽ち霧散してしまった。こんなものは、例えどんなに素晴らしい嗜好品と言われても食べる気にはならない――道徳的に。本当なら連れ帰って傷の手当てくらいしてからミナモリに引き渡すべきなのだろうが、きっとこの小さな獣のような生き物はフジョウを警戒している(当たり前だ、フジョウは彼らの天敵である穢者なのだから)。今自分に出来る最善の行動は、一刻も早くこの手負いの獣から離れることなのだと判断してフジョウは子供を見据えたまま一歩後ずさった。フジョウを見つめる子供は微動だにせず、視線は依然として鋭い。だが、それで構わない。背を向けたその瞬間、牙を突き立ててくれるなよ、とそれだけを願いながら踵を返そうとして――固まった。
「うし」
 ろ、は言葉にならなかった。それはもう本当に一瞬の出来事で、フジョウも子供も、お互いがお互いに意識割き過ぎていた。そこは袋小路で、子供は家の壁を背に立っていて、足元にはもう息をしていない化け物、逃走経路はフジョウの後ろという状況にあってまさか壁から手が突き出るだなんて、そんな規格外の不意討ちにここにきて遭うだなんて思ってもみなかった。
 何でもない民家の壁を突き破り、突如として子供の背後に現れた腕はそのままか細い首を鷲掴みにすると手にした獲物を引きずり込んだ。慌ててフジョウは腕を伸ばすが、指先は麻布に擦りすらせず空を切る。それでも勢いに任せて、崩れ掛けた壁の穴から子供の引きずり込まれた家の中を覗き込む。
 迂濶だった、としか思えない。非人の血の気に充てられて、他のことに気が回らなかった。
 生活の匂いを確かに残して、その空間は静止していた。フジョウの覗き込んだ穴は、丁度居間になっていた。ひしゃげた机と、何かを引き摺ったような血の跡がいやに目につく。もうこの家の住人は生きてはいないだろうな、と奇妙に冴えた頭で考えた。
 フジョウはまだ、家の中には入っていない。まだ、まだ無関係と無関心を決め込むことの出来るギリギリの境界に立っている。壁に掛けた手に、額を押し当てた。
「いや、だってなあ……無理、無理だろう普通。いくら俺が汚れもんだからって…………」
 出会って、それこそまだ数秒の子供に命を懸ける義理はない、と思う。思うのだが、困った。真っ直ぐにフジョウを見据えた、あの鋭い眼光を思い出してしまった。非人なのに、何一つ諦めることなく必死に生きようとしている者の目だった。常人には疎まれ利用され、穢者には捕食される、生きていたって何も良いことはない筈なのに、それでもフジョウが対峙したどの瞬間も、子供はただ生きることを渇望していた。
 生臭い空気を鼻腔に通すと、フジョウは壁を潜った。構造から察するに、廁へと伸びる廊下から物音がする。子供を引きずり込んだあの手が、角材を振り回していた穢者のものであるとしたらフジョウに勝ち目はない。けれどあの手の人種――転化した自分に酔っている傾向にあるあの穢者ならば、捕らえた獲物をすぐに殺してしまうということはないように思う。形式だか格式だかに則っての食事を愉しむ筈だ。口が裂けても言えないが、ミナモリが同じような人種なのでよく分かる。
 希望的な憶測の、希望的な部分ばかりを誇張させてフジョウは台所へと向かう。流石に万年筆一本では決定打に欠ける。先ず最初に目に止まったのは血濡れた包丁で、次いで未だ血の渇ききらない食べ残しが足元に散乱していた。時折、安物の靴の薄い靴底が何か柔らかいものを踏み締める感覚を必死に頭の中から追い出しながら、武器になりそうなものを探す。包丁は――駄目だ。奪われない自信がない。
 同類との戦闘経験が全くないわけではなかったが(半年とはいえ仮にも軍に在籍していたのだから当り前だ)、勝率は散々なものだ。それでも、戦い方を知らないわけではない。有効な攻撃手段は純粋な物量攻撃による身体機能の停止か、大量の水に因る体内に蓄積された穢そのものの除去のどちらかに絞られる。前者は常人を遥かに上回ることの多い身体機能と自然治癒力を持つ穢者相手に得策な手段とは言えない。祓のような対穢者を専門とした集団ならまだしも、今フジョウは一人だ。後者は勿論、フジョウ自身の穢が流れ兼ねないので端から除外するより他はないし、そうそう都合良く大量の水があるわけでもない。後は致命傷こそ与えられないとはいえ少量の水や日光、それに塩なども有効だ。
 結局、フジョウは小脇に抱えられる程度の塩壺を手にして台所を出た。幸か不幸か上水道の引かれたこの家には蛇口から水も出る。音がするだけでも嫌なものだと、開け放したままの蛇口に背を向けてフジョウは廊下を駆け出した。
 耳の奧が痛む。それでも、そんな些細なことは気にならない程に非人という嗜好品は魅力的であるらしい。子供は、恐らくまだ生きている。動いている。少し齧られていたりするかも知れないが、フジョウ自身こうして捕食者と被捕食者とのやり取りを壁の陰から伺っている自分の神経が信じられないのだから仕方がない。思えば少しばかり黴臭いが平穏な我が家から、随分遠くに来てしまったものだ。今朝糠床を探ったとき、茄子とキュウリが良い具合に漬かっていたことを思い出す。晩ご飯のときの楽しみに、と朝食のときは食べなかった。食べておけば良かったのだ、とそれだけを心残りに思う。――そして、それだけしか心残りがないことに軽く絶望してみる。
 もう一度覗き込むと、いよいよ穢者が子供に食い付こうというところだった。子供も善戦したらしく、穢者もところどころに擦り傷を負っている。だが、子供の唯一の牙はフジョウに背を向ける穢者の背後に落ちていて、どう考えても子供の手は届かない。フジョウはこの期に及んで、引き返すならこれが最後の好機だ、と自身に問うた。問うて、自答するより先に、穢者の背中越しに、子供と、目が合った。
 壁の陰から飛び出して、右の小脇に抱えた塩壺を大きく振りかぶる。走るが、距離がまだある。穢者が振り返り、フジョウに反撃する方が早いだろう。
「目ぇ潰れ!」
 叫んで、投げた。塩壺は放物線を描き、重力に従って落下を始める。穢者は振り向き様に腕で落下物を阻止しようとする。その判断は悪くない。流石にこの距離と壺の落下速度では並みの穢者では避けきれない。そして角材という道具を用いること、その凶器から繰り出される攻撃の速度や威力、非人探索の手際の悪さと群れを成す習性(袋小路で返り討ちに合った死体は、仲間である可能性が高い)から察して――この穢者は、並みだ。
 穢者の弾いた塩壺は衝撃に耐え切れずに割れる。そもそも、角材も直接当てるのではなく風圧のようなもので対象を切り刻んでいた。つまりそれは、直撃させれば得物からして壊しかねない力、それがこの穢者の蝕部だ。ならば塩壺くらい簡単に割れる。
 案の定怯んだ穢者に追い討ちを仕掛けることもなく、フジョウはその脇から手を伸ばし子供の襟首を掴んで引き摺り出す。よし五体満足、とそれだけ確認した。気休めに腕で顔を庇うが、降り注ぐ塩が痛い。自分から仕掛けたお陰で覚悟がある分身体は思うように動いたが、想定より相手の回復が早かった。
 体勢を直すより先に足首を捕まれる。拙い、これは拙い、と本能的に邪魔な手荷物――非人の子供を台所側へと放り投げると、倒れこむ勢いそのままに短刀を拾い上げ足首を掴む腕に切り掛かろうと身体を捻る。
「……ってぇ!」
 だが、刃が肉を切り裂くより先に掌に熱い痛みが走る。穢者は怯み、緩んだフジョウの手から小刀を弾くとそのまま肩を押さえ付け鳩尾を膝で踏み抜いた。息が詰まり、衝動に任せて咳き込む。
「全く……興味のないような顔をしておきながらこれか」穢者の冷ややかな声が降り注ぐ。「無様だな、ご同類」
 その感想には不本意ながら同意せざるをえない。迂濶だったとしか言いようがない。非力な子供が穢者を撃退する手段などそう多くない中で、牙が霊刀である可能性は充分にあり得る。柄であっても、穢者が素手で握り込めば膚も焼けるというものだ。
 本当に、無様だった。何をどう間違ったのか気が付けば穢者に転化していて、入院なのか投獄なのかも分からない病院生活を経て、それでも何とか毎日を慎ましやかに過ごしていたのに、ここに来てこの有様だ。他の穢者のように人を襲った覚えもなく、寧ろ人間様に顎で使われる常を甘受せざるをえない現状を肯定するつもりはない。
「……けど、なあ…………」未だ乱れた呼吸の合間に呟く。「一緒にされたかないね」
 こんなものは、気紛れだ。そして、偶然だ。今日、今ここで不運にも非人の子供と出会いこれを助けても、別な何処かで別な非人は確かに捕食されている。或いは無意味だとも言い換えられる。フジョウは確かに穢者だったが判定は第五位でしかなかった。また、余程餓えが込んだ穢者でもない限り共食いはしない。やや特殊な蝕部も関係して、どうしてもフジョウは捕食者と被捕食者との循環から外れてしまう。だから人が、人の形をしたもの、かつては確かに人だったものが、同じように人を食らう異常性も、常人が非人を穢者とは違う意味でまた忌避するという社会性にも興味がなかった。まるで遠くの出来事は現実味を欠いてしかそこに存在せず、人食いの横行すらただ平坦に流れていく毎日の光景に過ぎなかった。
 けれど、目にしてしまったのだから仕方がない。衝動が、こんなどうしようもないところまで突き動かしてくれてしまったのだから仕方がない。世界を変えることも、全てを救うことも出来るわけはないにしても、ならば目に留まってしまったものくらい何とかしてやりたい、とフジョウは思った。
「だから――ちょいと邪魔なわけだ、おたくがさ」
 袖口に忍ばせていた万年筆を滑らせて両手で握り込む。思わぬ反撃の予備動作に穢者は一瞬怯むが、フジョウの取り出したものの滑稽さに再び余裕を取り戻す。だが、その一瞬で構わなかった。握り込んだ万年筆を折ると、後は力任せに真上に突き出した。万年筆の折れた断面は穢者の頬骨を引っ掛けて、そして剥き出しの眼球に突き刺さる。浅い。骨に擦って勢いが削がれたか、と胸中で毒づきながら穢者の下から這い出る。穢者もまた思わぬ反撃を受けたもののそれが対した攻撃ではなかったことをすぐに判断し、再びフジョウに手を伸ばす――が、届かない。穢者の手が空を切ったことを確認すると、フジョウは立ち上がり一目散に駆け出した。背後で想定通りの絶叫が上がる。如何な真夜中といえあれだけの大音量でご近所に迷惑を振り向けば誰かが起きて通報するだろう。そして明日の朝一番に一家惨殺という今のご時世、珍しくも何ともない事件の概要がミナモリの耳に届く筈だ。
 逃げれば良いのに穢者同士の無様この上ない乱闘を物陰から視ていたらしい子供を、手荷物よろしく小脇に抱えると流し台から溢れ出し床を濡らす水を跨いでそのままの勢いで壁の穴をくぐる。子供は流石に猫のように大人しくも軽くもなかったが、気にしている余裕はない。あの状態で穢者が追ってくるとは思えなかったが万一ということがある。
 日頃の運動不足を罵りながら光の差さない夜の闇を駆け抜け、郊外に出る。境坂を越えて暫らく行けば漸く我が家だ。そう思うと気が抜けて、手にした荷物ごと地面に倒れこむ。子供は自分を抱き込んでいた力が緩んだと知ると、衝撃の前に腕から擦り抜けていってしまった。強かに打ち付けた肩が痛いが、まあいいさ、とフジョウは思う。お互い五体満足なのだから、何を言うつもりもない。
 フジョウから逃れた子供は一旦は距離を置いたものの、遠巻きに崩れ落ちた穢者を眺めている。警戒したまま探る者の目をした子供は、まるで猫の仔のようで可愛らしい。仰向けに、月のない夜空を眺めながら呼吸を調えていると、白い吊鐘草が視界の端で揺れた。こんなところにまで咲いているのか、と上体を起こせばその脇を本当の猫が擦り抜けてフジョウへと寄ってきた。
「やあ、ご同類。お互い無事で何より」
 寄ってきた猫を膝の上に乗せて抱き込む。猫は抵抗らしい抵抗もせず、されるがままにしていた。
「何故……」
 膝の上の小さな生き物を撫でていると、相変わらずの距離を保ったまま猫の仔が問うた。フジョウは、それが子供の発した声だと気付くのに時間が掛かった。遅れて、顔を上げると警戒と不信とを露にした鋭い視線が突き刺さる。
「だってあのままあそこに居たら、俺が殺したとか思われるかも知れないだろ?だからってお前置いてくのも気が引けたし……」
 思ったままのことを言うと、子供の大きな目がすう、と細められた。やはり、この子供は猫のようだと思いながら何か怒らせたかな、と視線を本物の猫へと落とす。
「違う」
「違う、って…………あー……えーっと、アレか。万年筆。中身さ、インキと水入れ替えといたんだよ。柔らかいとこに直に突っ込んだから、あんなんでも結構効くんだぜ」
 喉を鳴らす猫の、耳の脇を掻いてやりながら言った。だが、子供から言葉は返されず沈黙だけが二人の間に流れた。このまま逃げてくれるのが一番楽なのだが、と子供の存在を意識の外へ追い出して思う。こんなところまで来てしまったが、非人は対策室に引き渡さなくてはならない。
「……違う」
 子供はまた同じ言葉を繰り返した。だからフジョウも、また顔を上げた。フジョウの視線が自分に向いたことが知れると、子供はまた違う、と繰り返して、丁寧に首を横に振った。
「何故、来たんだ」
 子供の表情は気持ち和らいでいる気がする。だが、それは逆を返せば感情が削げ落ちているようでもあり、却ってフジョウを居た堪れない気持ちにさせた。それに、そんなことを訊かれても困る。
「目の前で掻っ攫われた子供が喰われるっての分かってて見て見ぬふりとか恰好悪ぃだろ」どうにも、他人事のように自身を捉えての返答になってしまった。「何、迷惑だった?」
 誤魔化すように付け足す。子供は何も言わず、ただ眉根を片方だけ器用に寄せてフジョウを見つめていた。
「で、どーすんの?行くの、このまま。修祓機構に保護して貰うってなら、俺が連絡しても構わねぇけど」
「あそこには戻らない」
「……あー……そう、です、か」
 思っていた通り面倒臭いことになった、かも知れない。
 膝の上の猫を抱き直し、フジョウは立ち上がった。それから、子供へと向き直る。身じろぐこともせず、子供はフジョウを見つめていた。距離は五歩、フジョウの足なら三歩とその半分で済んでしまうかも知れない。その微妙な距離を一歩縮めようとして、半歩に留める。どう切り出そうか、と改めて見下ろせばそれは細く頼りない子供の目を真っ直ぐに見つめて思う。
「えーっと……いい具合に茄子とキュウリが漬かったんだけど、どう?」
 言ってから、自分の頭の悪さに目眩がした。もう誰か自分を殴ってくれないだろうか、とも思った。子供は、相変わらずの無表情だ。けれど先ほどまでと微妙に無表情の質が異なっている気がした。
 屈み、猫を地面に下ろすとフジョウは子供の返事を待たずに踵を返す。寧ろ返事は聞きたくなかった。階段を上って少し歩けば念願の我が家なのだと、夜の空気を孕んでひんやりとした手摺へと手を伸ばす。暖かい風呂も、煎餅のように薄っぺらな蒲団もすぐそこだ、と自身を鼓舞して石段を踏み締めた。途中、踊場に差し掛かる頃背後で砂利の鳴る音がした。それはすぐにぺたり、とした音に変わる。フジョウが階段を上る調子と少しずれて、その音はぴたりと後ろに付いて来た。ぺたり、ぺたり、と素足で石段を踏み締めるその音が居た堪れず、振り返って抱えて行ってしまおうかと何度も過ぎるが、そうするとこの仔猫のような子供は忽ち逃げ去ってしまうように思う。別段不都合があるわけでなく、寧ろその方が在り難い筈なのに、逃げ去る子供の背中を見て地味に落ち込む自分の姿は容易に思い浮かべることが出来る。
 だから、フジョウは振り向きもせず歩調を緩めることもせず、ただ居た堪れなさを誤魔化すように訊いた。
「名前、何てぇの?」
 足音が止む。失敗したかな、と思いながらそれでも歩みは止めない。それはほんの一時のことで、すぐに再開した背後の足音に混じりアマクニ、と柔らかく硬質な声が返された。