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 花の盛りも終え、深緑が風にそよぐ中に蝉の声が混ざり始めてからひと月ほど経った。生ぬるいばかりの風が、汗ばむ肌を撫でては吹き抜けていく。道の脇で売られるアイスキャンディに心惹かれながら、手の甲で輪郭をなぞるようにして滴り落ちてきた汗をぞんざいに拭った。
 半ば睨み付けるようにして子供は連なる石段へと視線を向ける。階段の先は樫と榊とに覆われた辻に繋がるのだが、子供の立つ位置からでは見えない。炎天に曝された遥か彼方の頭上で、涼しげな緑が静かに風にそよいでいる。
 遡ること一〇〇年ほど前に舗装されたこの町外れへと続く階段は、斜面ほど急ではなかったが気が滅入る程度には長い。苔むした石垣から垂れ込めた木々が、濃い陰影を落としている。赤錆の浮いた鉄製の手摺りにはとても手を伸ばす気にはなれず、子供は鞄を抱え直すと眼前に広がる灼熱の丘陵へと一歩を踏み出した。風が吹いて、アイスキャンディ屋のパラソルに吊された風鈴が涼しげに鳴った。
 忙しない蝉の鳴き声に背を押され、漸く平坦な砂利道を踏み締める。疲労というより暑さから、肩での呼吸を繰り返し落ち着いた頃を見計らって子供は歩きだした。町外れの坂の上にある辻は舗装もそこそこに、大小様々な砂利――と、いうより小石が敷き詰められている。薄い草履越しに足の裏を刺す熱さに子供はうんざりした。それでも坂の下に比べれば随分と涼しい道の、その更に木の陰の濃いところを選びながら歩く。坂の下の熱風が嘘のように、吹く風も何処か清涼としていた。右手側に竹林を、左手には町並みを一望しながら歩くこと数分、漸く見慣れた瓦屋根を緑の狭間に捉えた。更に視線を下へ移すと、「薬局」と擦れた文字の書かれた木製の立て掛け看板の傍らに男が一人立っていた。店先に水を撒いているのだということは、手にしたバケツですぐに判った。
 男は、この薬屋の店主で子供の下宿先の家主だ。外の血が混ざっているのか、薄ら白い肌と冬の湖を連想させる碧色の眼の、無駄に目立つ男だ。その上、髪も殆んど白のような砂色をしている。男は初めて会ったそのときに、フジョウと名乗った。それが本名なのかは分からない。分からないが、特に困ったことはないので構わない、と子供は思う。
 頭上を、青と緑に覆われた下で、薄ら白い男が水を撒いているという光景は何処か現実味を欠いて見える(だからと言って幻想的というわけでもない)。ただ、このフジョウという男を見ていると、夏の盛りのただ中に在るというのに背筋を冷たいものが這うような、そんな錯覚を覚えるのは確かだ。その錯覚に、多少なり心当たりはないこともなかったが、子供は敢えてそれを無視した。
 男は、白い長袖のシャツを肘の辺りまで捲った腕を額に押し当てている。子供がそれまでの歩調を僅かに緩めて近付くと、十数歩手前の辺りで男はその存在に気付いたようだった。子供の姿を見留めると男は口を開きかけて、それから形の良い眉をひそめた。俊巡するようにして子供から視線を反らし、やや演技掛かった溜め息をこぼす。
「店の方から入ってくんなっつってるだろ。裏口回れ、裏口」
「こっちの方が近い」
 どうせそう客が来るわけでもないんだろう、という言葉は言わないでおいた。言わないでおいたが、男は先に続いただろう言葉を察して眉間の皺を更に深くした。けれど彼の言い様に咎めるような響きがなかったので、子供はやはりあまり気にしなかった。
「俺がやる」
 子供が言うと、男は頭上の緑よりも青みの強く褪めた色の眼を瞬かせたあと、一拍の間を置いてから口を開いた。
「ありがと。でも、もう終わったからいい」
 手にしたバケツを軽く持ち上げながら言った。それから杓を空のバケツに放り込んだ。
「おかえり」汗と砂ぼこりで額に張り付いた子供の前髪に、指先を絡めて男は言う。「楽しかったか?」
 相変わらず妙なことを訊く男だな、と子供は思った。下宿先から中等学校の校舎へ、そしてまた中等学校から下宿先であるこの店へと戻るという、平坦ではないが平和であるには違いない道程に男の言うような楽しみを見出だした試しは残念ながら子供にはない。
 男の紹介でヒグチの受け持つ「特別クラス」に子供は編入している。子供にしてみれば彼女もまたこの男と同類の不可解な人種で、非人を「人間」として扱う。穢者である男と違い、彼女は間違いなく常人だ。穢者が被食者である非人を手元に置くという、その真意を察するより彼女の意図を推し測るのは難しい。それでも子供にとって、「学校」という一つの群衆は知識を得る上では非常に有益な場であることは間違いなかった。だから、子供はしつこく髪に触れる男の手を除けながら頷いた。
「……何というか、俺の問い掛けとお前からの返答との間に、ふっかーい溝がある気がしてならねー」
「そうなのか」
「いや、うーん……まあ、いいや、うん」
 少しも納得していない様子で、男はさっさと話を打ち切ってしまう。捕食者の心なしか落ちた肩を眺めながら、子供はことりと首を傾げた。
 男の後について薄暗い店内に入る。また裏口に回れ、と言われるかとも思ったが男は何も言わずにカウンターの奥に引っ込んでしまった。
 数百種類の薬草が交じり合った、粉っぽい匂いが中には充満していた。木造の家は風通しも良く、外の熱気はひどく遠い。
「それ、ついでに物置に片しといてくれ」
 カウンターの脇に置かれたバケツと杓だということはすぐに分かる。男の視線は届いてはいなかったが、子供は小さく頷くと手を伸ばした。
「手、洗ってこいよ。麦茶冷やしてあるから。あと、お客さんに貰った水饅頭もあるから食べていいぞ」
 謎の物体(植物の根だと言っていた)の瓶詰めと、昨日市場で仕入れた商品数点を無造作にねじ込んだ箱を抱えて男が顔を覗かせる。こんな辺鄙なところに客など来るのかと子供は訝しみ、けれどこの男はこれでいて人受けのする性格らしく確かに連れ立って歩いていると往来で声を掛けられる。それだけでなく、子供が一人で歩いているときですらこの男の家に下宿している書生だからという理由だけで声を掛けられたし、平均して五回に一回の割合で駄菓子の類を持たされた。恐らくはその、男の言う水饅頭を置いていった物好きな客というのも、子供に駄菓子を押し付けてくる人々と同じ人種なのだろう。そこまで考えを巡らせてから、子供は帰り際にヒグチに呼び止められたことを思い出す。思い出してから、忘れたままでいれば良かった、と何故か思った。それでも思い出してしまったからには伝えなくてはならないと、カウンターの上に箱の中身を広げ始めた男に向き直る。子供の視線に気付いた男が顔を上げた。
「ヒグチが来ると言っていた。家庭訪問……らしい」
 告げると、男は顔を上げただけでなくカウンターに手を突いて身を乗り出してきた。分かり易い反応に、だから思い出したくなかったのだと、子供は小さく息を吐き出す。
「ヒグチさん、来るのかよ」
「ああ。色々片付けてから来ると言っていたから、夕方くらいだろうな」
「夕方!どうしよう、今うち何もない!」
 理由をつけては週に二度、三度と「家庭訪問」する女に、何を出してやる必要があるのか、と主にその理由のダシにされている子供は呆れた。
 この、フジョウという化け物は何処で何をどう間違えたのか、ヒグチという善人に好意を抱いている――らしい。断言出来ないのは、はっきりとしたことを男の口から聞いていないからだ。そして、ヒグチが何かにつけてはこの町外れもいいところの寂れた薬屋に足繁く通う理由も――お察し頂きたい。と、言うのもあまりに頻繁に「家庭訪問」にやってくる彼女を煩わしく思った子供は、直接ヒグチに「フジョウに会う口実欲しさに、俺をダシにしているのか」、と訊いたことがあるからだ。対して、女学院出を卒業して間もなく、また生粋のお嬢様である彼女は子供の直球が過ぎる問いに、顔を赤らめ裏返った声で「フ、フジョウには内緒ですよ!」、と言った。
 だから子供は、それ以来彼女には何も言わない。多分、馬鹿馬鹿しくなったというのが理由だと思う。子供が何も言わないのを良いことに、ヒグチは頻繁に町外れの薬屋を訪ねる。子供が口をつぐんでいるから、男も何を疑うでなく彼女を迎え入れる。何か可笑しいと思っても、互いが互いに好意を抱く相手だから、自分にとって都合が良い事実である分には深く追求しようとも思わないのだろう。いい歳をした大人が二人も揃って怠惰なことだと子供は呆れる。呆れるだけで何も言わない。何も言わないのは、自分には関係のないことだからと子供が思っているからだ。
 一度、ただ一度、ヒグチに口止めをされたその日にこの男に問うたことがある。頻繁に「家庭訪問」にやってくる彼女の真意をどう思うのだと、ヒグチを坂の下まで送り、帰ってきて靴を脱ぐ男を玄関先で捕まえて子供は訊いた。男は「一人暮らしの長かった寂しい男に同情でもしてくれてるんだろ」、と何処か突き放したようにも諦めているかのようにも聞こえる響きで言葉を返した。子供は、ただ納得した。
 女は男の、都合の良い部分しか見ていない。男は、寧ろ初めから諦めてしまっている。そのくせ、自分の中のその「寂しさ」とやらを埋めるために女の恋心にも似た思慕を利用しているのだった。だからこの二人は、互いに思い合ってはいても相手の気持ちには何一つ気付かない。だが、それらはあくまで第三者的立場に在る子供の観点から視た二人でしかなく、その関係に口を挟む余地も、増して何らかの感慨を子供が抱くこともない。それでも抱く、或いは芽生えた感情があるとするのなら、この二人が真の意味で互いに向き合ったときに男の中から寂寥感といったものが拭い去られてしまうであろうことに対する不安だ。この人恋しい化け物が自分を気紛れに飼う理由は、恐らくはそこに起因している。けれど彼女が化け物の孤独を埋めてしまえば理由はなくなる。子供は――運が良ければお役ごめんとなって根なしの草暮らしに戻るか孤児院に強制送還され、悪ければこの男の腹に収まることになるのだろう。どちらにせよミナモリとの契約は果たせない(このことに関してはあくまで保留だが)。不安は、それらの事態に対する忌避感からだ。
 だが、相変わらず捕食者は安穏と羊の真似事を満喫し、惰性に任せて生温い日々を貪っている。子供は、だから余計な感情を挟むことなく冷厳な目で男を眺める。憤怒も、復讐も憎悪も、存在しない。ただ子供は生きるために男に寄り添う。誰の手を借りることもなく、子供は自分の力で人間として生きようとしているだけだ。
 首を傾げたまま固まる男に背を向ける。
「水饅頭があるんだろう」
 それをあの女に出せば済む話なのだと、そんな簡単な結論さえ導き出すことの出来ない男に多少の苛立ちを覚えながら片越しに言う。
「アレはお前のだから駄目」何を馬鹿なことを、とささくれ立った廊下に素足を下ろしたところで背中に掛けられた言葉に固まる。「アマクニ、好きだろ?水饅頭」
 振り返るが、男は子供の方を見てすらいなかった。ただ思案深く俯いて、変わらず首を傾けているだけだった。
「優先順位の問題だ」
 男の横顔に、何故だか込み上げた苛立ちに任せて言い放つ。するとそこで子供の視線に気付いた男が、ふと顔を上げてそれから少し困惑した様子で眉根を寄せた。
「?……優先順位ったってなあ…………まあ、確かにヒグチさんはお客さんだし、ここは身内に我慢して貰うべきなんだろうけど、なー……」
 男はそう言って語尾を濁した。子供は、この男を殴りたい衝動に駆られた。
「そういう意味じゃない」
「お前、たまに難しいこと言うね」
「……確かに、俺とお前との間に大きな齟齬があることは認める」
 子供の言う優先順位というのは、ヒグチが常人であり子供が非人であるという、その一点についてだ。子供は自分が非人であるからといって自分を人間ではないと悲観するほどの余裕はなかったし、そのためのミナモリとの契約でもあるが、いくら非人自身が己の存在の正当性(この場合は人間であるということだ)を主張したところで何の説得力も持たない。そういった子供の主張を抜きにした、社会的観点から見れば優先すべきは常人であるヒグチであるのだと、そう子供は言ったつもりだった。
 自分の意図するところが正しく相手に伝わらず緩やかに憤る子供を知ってか知らずか、男は何故か小さく吹き出してそのまま肩を揺らし笑いだす。そんな男の様子に子供が毒気を抜かれて立ち尽くしていると、一通り笑い終えて満足したらしい男が何故か両手を上げて降参の意志を示した。
「いいだろう。今回は譲ってやるさ、その可愛げに免じてな」
 この男は頭が可笑しいらしい、と少し本気で哀れになる。
「でも、そうなるとお前の菓子がなあ……」
「問題ない」
「問題あんの!ガキには甘いモン必要だって相場が決まってんの!」
 その根拠のない自信は何処から来るんだ、と思うが子供は口にしなかった。既に色々面倒になってきてしまっているのがいけない。
「何か他に食いたいもんとかあるか?小遣いやるからそれで……」
「アイスキャンディ」
「アイスキャンディ?それが食べたいのか」
「坂の下で売っていた。それでいい」
 糖分の補給が集中力の向上に繋がる――別の言い方をするのであれば糖質の欠乏が集中力を低下させるというのであれば、男の言い分を飲まない理由はない。この男はいやに子供に嗜好品を与えたがる傾向にあるので、帰り掛けに見掛けたアイスキャンディはお互いの妥協点としては適当なところだろう。
 坂の下、と聞いて男はあまり良い顔をしなかったが、結局緩やかに頷きカウンターの上の小銭箱に手を伸ばした。じゃあこれな、と硬貨を二枚手渡される。アイスキャンディを一つ買うには多いが、二つ買うには足りない額だった。身勝手なことだ、と子供は胸中で男の気遣いを毒づき溜め息をついた。男は、そんな子供の頭を一撫でして笑った。
「ほら、行ってこい」
 離れていく、手袋に覆われたままの男の手を目で追いながら子供は掛けられた言葉にどう返すべきか考えた。けれど、浮かんだ言葉のどれもが上手く舌に馴染まず結局口を噤んだまま男に背を向けた。その背中に男の声が掛かる。けれど子供はその声を遮るように、引き戸を閉めてしまったので何を言ったのかまでは分からなかった。
 後ろ手に、引き戸の取っ手に指先を掛けたまま長く細い息を吐く。溜め息ではなく、それは安堵の息だった。けれど子供は自分が何に安堵したのか分からず、そのまま息を詰めた。
 いくらか身軽になって、来た道を引き返す。木陰から見下ろす町並みの、その更に遠くに山々が連なっている。青空に浮かぶ入道雲が眩しくて、子供は目を細め逸らした。握り締めた手の平の中、生温くなった硬貨がその存在を主張する。緩やかな坂を進む歩がいつもより僅かに早いのは、傾斜のせいばかりではなかった。
 捕食者の道楽に、吐き気がする。それ以上に、飼い殺された、家畜に成り下がった自分にも吐き気がする。けれど、もし――もしも、もしもこれが、本当だったのなら、と子供はそこで思考することをやめた。同時に、何かに急かされるようだった歩みも勢いを落とし、終いには完全に立ち止まった。
 煩いくらいに、蝉が鳴いている。その鳴き声が、再び思考することを始めようとした子供の意識を散漫にする。けれど、意図して答えに踏み込む手前で停止させた思考を、再びそこへ導くのはとても簡単だった。
 困る。もし、もしも、あの男が捕食者の道楽でも気紛れでもなく、保護者が被保護者にするように自分を思っているのだとしたら、それは、とても、困る、と子供は思った。そんなことをされても、子供は何も持たない。あの男に、何も返せない。だから、困る。手の中の硬貨も、掛けられる言葉の一つ一つも、頭を撫でる手も、困る。お互いの妥協点すら存在せず、ただ男が折れているだけなのだと認めなくてはならなくなる。
 午後の日差しの中、木漏れ日に隠れて立ち尽くす子供は今度こそ陰鬱な溜め息をついた。