第2部 装甲猟兵編 第2話 「第三の軍隊」 Das Dritte Armee


2006年09月27日 放送

概要
ウーファーの施設で記録映像を見ながらの会話と回想。
ヒトラーの台頭の経緯や国内の軍組織の解説。
そのドイツの国情の中でケルベロスがどのような目的で誕生し、育成され、そして現在でも生き残った理由が語られる。


ヒトラー

ヒンデンブルク

パウル・ルートヴィヒ・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク(1847-1934)
元軍人、第2代ワイマール共和国大統領。ヒトラーを嫌っていたが、ナチス勢力を抑えることはできず1933年ヒトラーを首相に指名する。
34年の病死によって、ヒトラーは大統領を兼任する。

ホルスト・ヴェッセル

ドイツ北部の国粋主義団体で歌われていた既存の歌詞を党活動に合うように編集した歌「旗を高く掲げよ」を製作した人物。
この場合、ホルスト・ヴェッセルはすでに死んでるはずなので、「旗を高く掲げよ」の別名であるホルスト・ヴェッセル・リート(つまり「旗を高く掲げよ」自体)を指していると思われる。
ヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ)の党歌で、ヒトラーの首相就任以降は第二国歌的な歌として扱われ、ナチを代表する歌となる。
ちなみに、現在ドイツでこの歌を歌うと反ナチ法によって逮捕される。
ホルスト・ヴェッセルの歌(和訳と音声ファイル)

ブランデンブルク門

ドイツ・ベルリンのシンボルとされている門

レームと突撃隊(SA)

エルンスト・レーム
ドイツの軍人・右翼活動家。
第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約に反対してナチ党の突撃隊(SA)ほか多くの準軍事団体を組織したが、自身の突撃隊を正規軍とする事を望み、国防軍は次第にSAを脅威と感じるようになった。
また、ヒトラーに対する態度などから党内のゲッペルスなどにも危険視される。
職業軍人の確保のため、国防軍との連携が必要なヒトラーによって粛清される。
粛清の理由は突撃隊による反乱の計画を捏造されてのもの。
これによりSAは解体はされなかったもののその勢力は著しく減退、以後は国内及び一部占領地域での治安維持や国防軍の人材プールなど副次的な役割を務めるのみとなる。
一方SSはこの事件以後勢力を拡大して刑事警察、治安警察、ゲシュタポなどの警察組織をその勢力下に収め、強大な治安情報機関としてドイツ及びその占領地域に君臨することとなる。

シュタールヘルム(鉄兜団)

第一次大戦後に組織されたフライコールの一つ。
正式名称は「鉄兜団、前線兵士同盟」といい、その名の通り旧軍の将校・兵士からなっていた。
反ワイマール体制、国家主義、君主制支持を政治信条とし、右翼政治団体として一時は50万名近い構成員を有していた。
1929年に連合国から提示された賠償金返済計画「ヤング案」に対する反対運動で、他の右翼政党と共にナチスと共闘し関係を深めていった。
しかしナチスの政権掌握後、その君主制支持性向が危険視され、1934年から35年にかけて解散を命じられ、その構成員は突撃隊に吸収された。

ヒムラーと親衛隊(SS)

ハインリヒ・ヒムラー
ドイツの政治家。親衛隊全国指導者(1929-1945)
突撃隊の下部組織として親衛隊は生まれ、ヒムラーは1929年に280人に過ぎなかった親衛隊員数を1933年末までには20万9千人に拡大した。
親衛隊とドイツ警察機関全てを統括し、1,100万人にも及ぶユダヤ人、ロマ、ポーランド人、カトリック聖職者、ロシア人捕虜の虐殺に責任を負う。
長いナイフの夜に、親衛隊で粛清を実行し突撃隊やその他の反乱分子を除去する。
これによりSSはナチの中でももっとも強大な組織となり、また国防軍にも口出しできない組織として勢力を伸ばす。

シュライヒャー

クルト・フォン・シュライヒャー
ドイツの軍人でワイマール共和国の最後の首相でありヒトラーの前首相である。
長いナイフの夜で粛清される。

グレゴール・シュトラッサー

「ナチス左派」と呼ばれる同党左派の流れを代表する人物
長いナイフの夜で粛清される。

カール

グスタフ・フォン・カール
1923年当時のバイエルン州総督(首相)で極右政治家。
1923年11月、ヒトラーはバイエルン州の政権奪取とベルリンの政府転覆を図り、いわゆるミュンヘン一揆を起こした。
この時ヒトラーはバイエルン州政府の要人を一時軟禁し一揆への支持と協力を要求。
カールは一旦これを承諾したが後に変心して反乱勢力を弾圧、ヒトラーは投獄されナチスは一時勢力を著しく減退した。
カールはその後政界から引退したがヒトラーはこの時の恨みを忘れず、1934年6月の「長いナイフの夜」でカールに対する暗殺を命じた。

ゲッベルス

パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス。
ドイツの政治家。ナチ党政権下のドイツでプロパガンダを任務とする国民啓蒙・宣伝大臣を務めた。
作中では1942年には既にいない様子。史実では戦後まで生きて自殺する。

宣伝中隊の製作するニュース映像の頻度

当時のドイツは第一次世界大戦の敗戦国としてヴェルサイユ条約によって過激な賠償を要求されていた。
宣伝中隊はその国民の敗戦に対する歪んだ心理を、ケルベロスによるプロパガンダによって利用する。
宣伝中隊によるケルベロスの情宣が予想以上に受け入れられたため、どの組織も簡単に手をだせなくなってしまう。
おそらく、これがケルベロスが常に最前線に送り込まれる理由だろう。

彼女

レニ・リーフェンシュタールのこと
ドイツの女優、写真家にして映画監督。
宣伝中隊の人間で、マキが走り回っていた頃に党大会やオリンピックなどを担当したというところから。
作品はベルリンオリンピック記録映画「オリンピア」など

パウル・バイスバイラー

架空の人物ではあるが、物語中で語られた経歴は武装親衛隊の軍人であるパウル・ハウサーを元にしている。
史実ではハウサーはSS士官学校の校長を勤めた後、新設されたSS特務部隊(SS-VT)の総監となった。
ハウサーはSS-VTに実践的な訓練を施すと共に、当時は儀杖兵部隊であり、「(舗装道路行進専門の)アスファルト歩兵」と国防軍から揶揄されていたアドルフ・ヒトラー親衛連隊(LAH)とも活発な人材交流や訓練の指導を行い、この両部隊を精強な野戦部隊へと育て上げた。
LAHは後に第1SS装甲師団「LAH]」、SS-VTは第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」となり戦場で名をとどろかせると共に、その後続々と編成された武装親衛隊の多くの師団に経験豊かな将校・下士官を供給することになる。
その意味でハウサーは正に武装親衛隊の育ての親といえるだろう。
ハウサーは戦時中は装甲軍団長や軍集団司令官を歴任し、戦闘中の負傷で片目を失い眼帯をつけながらも終戦直前まで戦場にあり続けた。
戦後は元武装親衛隊員の互助組織として結成されたHIAGの幹部として活動し、1972年死去。

典礼部隊

儀礼用のお飾り部隊。

スパルタ

古代ギリシアのポリス・スパルタで子供は国の財産として、12歳から質実剛健の厳しい軍事トレーニングを課し、その過程で体に障害を生じたものは情け容赦なく切り捨て、有能なものだけを市民として育てた教育。

カーターハム



西方への攻勢作戦

1940年5月フランスに対して行われた電撃戦。
電撃戦とは軍隊を迅速に進撃させる事により、敵に防衛線を構築する暇を与えずに戦線を突破する戦法である。
この作戦の成否は一にも二にも時間との戦いに掛かっている。
フランス戦においてはマンシュタインの立案した攻撃計画に基づきドイツ軍はアルデンヌ森林地帯を抜けてフランス防衛線の弱点であったベルダンを突破、二週間足らずでフランス軍主力及びイギリス海外派遣軍をダンケルクに追い詰めた。
フランスの降伏は6月であったが、実質的にはこの二週間でその敗北は決定していた。

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最終更新:2006年11月15日 20:04