正力事件の告訴状

正力事件の告訴状
          本郷区曙町十三番地
          告訴人 大杉 栄
          警視庁刑事課長警視
          被告人 正力松太郎
      告訴の事実
 被告は大正八年七月十九日被告の勤務する警視庁に於て、同庁関係の時事を報道する為め同庁に詰め居る東京市内の各日刊新聞記者に対し
 (一)大杉栄は大正五年以来、支払を為すの意なくして十数人の商人より米、味噌、醤油等の日用品其他の物品を取寄せ之れが支払をなさず
 (二)又同人は大正五年以来家賃を支払ふ意思なくして住宅を借入れ之れが支払を為さざるのみならず家主より立退を請求せらるるときは直ちに居直りて立退料を請求し
 (三)特に同人は現住宅なる前警視庁消防本部長占有の家宅に無断侵入移住し其立退を請求せらるや却て立退料を請求せり
 (四)故に大杉栄が家宅侵入詐欺並に恐喝取財の犯行あること確実にして警視庁は同人を右事件の被告として告発したるものなれば、不日必ず処罰せらるべし、細工は流々仕上を見よ
との趣旨を語り以て公然右事実を摘示し告訴人の名誉を毀損したる者なり
      告訴の申立
 右は刑法第二百三十条に該当する犯罪にして一年以下の懲役又は五百円以下の罰金に処すべきものと確信し茲に告訴提起仕り候条至急相当の御処分相成度(註一)
      参考の事実
 (一)名誉毀損罪は元より事実の有無を問はざる処なるも、告訴人には被告が新聞記者に語りし如き犯行絶対に無之候、尤も告訴人は借宅するに他人の名義を借り、時々家賃其他の滞りを生じ又立退料を貰ひたること無之にあらざるも、右は全く左の事由に基くものに有之候
 (二)警視庁は告訴人に絶へず数名の尾行巡査を付すが故に之れを承知の上にて告訴人に家を貸す者恐らく天下には一人もなかるべく告訴人は止むを得ず他人の名義にて住宅を借り居りたる者に御座候、又告訴人は著述を業として生活を営む者なれば言論出版の自由を圧迫され時々予定の収入に狂ひを生じ遂約束の時期に支払を為し能はざる事も出来候、尚又告訴人が立退料を貰ひたるは甲警察が尾行監視の手数を省く為め告訴人に乙警察の管轄区域に転宅を懇請し其費用として甲警察が家主の名義を以て移転費用を提供したる場合に限り候
 (三)殊に被告が大々確実毛頭疑なしと称したる家宅侵入云々の如きは、以ての外の大々的無根にして、告訴人は家主より借家したる借家人方に同居したる者、其後借家人は同居人たる告訴人と分れ告訴人は転借人たる関係となりたるも何人も家主に対し借家を明渡し占有権を家主に帰属せしめたる事無之、従て家宅侵入の問題等夢にも起る筈無之候
 (四)被告人の所謂右告発は、告訴人の信ずる処に依れば事実無根として不起訴と為りたる事と存候(註二)何となれば係検事は告訴人に其通り話され候
 (五)被告人が右無根の事実を社会の耳目たる新聞記者に語りたる結果、翌七月二十日の都下十数の日刊新聞は異筆同調、正力刑事課長の談として前記の談話趣旨を掲載し、次で全国数百の地方新聞に転載され、告訴人は到底忍ぶべからざる苦痛を感じ候、思ふに之れが凡間ならば告訴人は既に必らず悶死若しくは憤死したるものならんと存候
 (六)告訴人は多年社会改革家として運動し多少世に認められ居るものと自信致候、故に人格に関する本件の如き犯行ある旨を遠慮なく公表され候ては名誉毀損は特に重大なるものと存候
 (七)刑事課長たる被告が其職務に関する事実を公表する職責を有せざるは勿論(註三)却て之れを黙秘すべき義務あるに拘はらず特に本件を世に発表したるは、身官吏として其職にありながら常に自己の都合のみを考へ、事の結果を察し人の迷惑を慮らざるの致す処にして独り法律の無知のみの致す処にあらずと信じ候、然らざれば他に何か深き理由ある事と存候、故に告訴人は今後或は被告が人情上、事に託して告訴人に復仇することもあるやも図られざる事を懸念しながらも、尚社会一般の為め茲に告訴に及びたる次第に候
 (八)貴官は告訴人の傷害事件論告に際し苟も犯罪あれば被害者が満足を得ざる限り其犯罪者が官吏なると社会主義者なると。其官吏が警視なると巡査なるとを問はず一視同仁公平に其処分をなす方針なる旨を宣言せられたるに由り告訴人は之れを信じ、被害者たる告訴人の満足する解決処分を貴官より得たく茲に貴官宛に本告訴を提出したる次第に候
 (九)告訴人は決して事を好む者に無之、本告訴の如きも忍耐に忍耐して今日に及び候か、又翻て熟々之を考ふるに告訴人にして此儘打過ぎ結局泣寝入の外なしとせんか、被告等は愈々増長して告訴人に対し如何なる事を仕出かすやも計り難き事、今回林倭衛氏の二科会入選名画が、単に告訴人の肖像なるの故を以て警視庁が其不法を知りつつ懇談の名を以て畏怖戦慄せる弱者に其撤回を厳命せるに依て益々明なりと信じ候、依て告訴人は茲に一は自衛上決死天に代り告訴提起仕候
      立証の方法
 本件に付ては被告は決して犯罪事実を否認するものにあらずと信じ候萬一左様の事あり候節は大正八年七月二十日の都下各新聞に掲載されたる被告談話の記事を突付け尚之を否認するか若くは兎角の弁論を試みる場合は其各新聞の当該記者を御喚問被下ば事実明瞭すべきことと存候
      付属の書類
告訴委任状 一通
 大正八年九月二日
          右告訴人 大杉 栄
          右告訴代理人弁護士 山崎今朝彌
東京区裁判所
検事 棚町丈四郎 殿
~~~~~~
      (註)
一 名誉毀損が侮辱に止まるときは、刑法第二百三十一条により拘留又は科料に処せらるに過ぎず、又名誉毀損罪は告訴なければ罰する事を得ざるものとす
二 事件が不起訴となりたるとき、告訴人あるときは其告訴人に不起訴処分の通知を為すも、告発なるときは告発人に通知せず、何れにするも被告は其処分を知るの道なし
三 日本の法律にては官吏の職務行為の不法には人民に救済権なしとするを通説とす
<山崎今朝弥著、弁護士大安売に収録>
最終更新:2009年10月25日 20:58
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