3.06・社会葬・高尾君の思出


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社会葬
 吾々無産階級の解放運動に一身を捧げてゐた高尾平兵衛君は、遂に其の犠牲となつて斃れた。しかも解放運動とは全然反対の立場にある反対運動者の為めに悲壮な最後を遂げた。吾々は其の思想に於て、其の運動方法に於て必ずしも高尾君と一致する者ではないが、反動運動の敵たる点と、解放運動に志す点とに於て全く同志であり、兄弟である。
 吾々は同志高尾平兵衛君の此の尊き犠牲に対し、明後八日午後一時、無産階級社会一般の、最も厳粛なる社会葬を以て酬ゆることに決した。広く同志を誘ひ、諸君の奮つて会葬せられんことを切に希ふ次第であります。
 七月六日      故高尾平兵衛君社会葬委員一同
      社会葬執行順序
大正十二年七月八日午後正一時青山斎場に於て開式
一、開式ノ挨拶      一、弔歌合唱
一、遺文朗読       一、告別文朗読
一、経歴文朗読      一、弔文電報披露
一、各団体代表ノ弔文朗読 一、弔歌合唱
一、親族総代ノ挨拶    一、閉式ノ挨拶



高尾君の思出
吉田君。
 過日人をもつて故高尾君の思出を書いて頂く事をおたのみしましたが、といふ端書だが、僕は誰からも頼まれた覚えはない。数年も前に鈴木君から、愈々高尾君の遺稿や経歴を大々的に出版する事が出来る事になつたから、其内誰かお願ひに参る事になるだらうから何か思出を少し書いてくれ、といふ話はあつたが、コレはソレとは筋が違ひ、又コノ話も其後消えて失くなつたらしい。
 しかし、高尾君の事なら非常に書きたいと思つた事もあつたし、書けるような気もするから何か書いて見よう。が、今日中には少々弱る。尤も、他は全部あつまつて、そちらの分だけを待つてゐる次第であります。とあるから、僕はホンの少々書けばヨイわけだらう。
 高尾君の事を思出すと泣きたくなる事が度々あつた。泣けさうになると何か書きたくなる。僕が遺稿を出せの、伝記を出版しろの、僕にヤラせろのとイラざる世話をヤイたときは、アレは僕が何か書いて見たかつたときであつたのだ。処が今愈々コレを書き初めて、偖一人で先づ泣けさうにならうと思つて見たが、トテもだめだ。況んや、どうしてもコノ事は書かなければならないと思ふやうな事は一つも出て来ない。其後ドエライ事バカリ起るせいか、或は又時間が涙を涸らしたのか? もう止めたくなつたが、ソレでは余り曲があるまい。
 僕が高尾君を知つたのは無論例の川崎屋後で、岩佐君が僕の番頭時代だつた。岩佐君が第一次社会主義研究の校正だか、会計だかをセツセとやつてる処へヨクやつて来ては話をして居つた男があつた。アレは誰だへ。アレは高尾平兵衛といつて、イツカの川崎屋検束の収穫物だ。今は秘密出版を専門にしてる様な口吻だが、マダ注意しなくては! スパイと思つて話せば安心だね。などと二人で話し合つた事を覚えてる。其の後間もなく、例の出版法違反朝憲紊乱事件の被告高尾君は、一躍して斯界の名士となつた。
 高尾君の一番よかつた処は、僕は優しかつた点だと思ふ。アノ位の優しさはザラにあるに相違ないが、アノ無茶の強情者にアンナ優しい処が(此辺で一二時間人が来て頭が混乱し、考へが途切れ、書くのが益々厭になつてきた、)あるかと思つた事が度々あつた。強い人の弱い点は一入よいものである。高尾君は自分で自分の事を平公平公と称して居たが、アレは何時頃からであつたか。といふは、僕の処の堅公(実名堅吉)は昔から高尾君の顔を見ると、イキナリ平公平公と呼んでナズイタ。僕等の地方では人の名の下に公を付ける。僕なんかは今朝公サで通つてる。高尾君の平公も此類か、又は堅公の平公で考へ付いたのか。
 高尾君は仲間同志でケンカをしない事、強がりをいはない事、オツトリしてユツトリしてゐた事、で有名だつた。ソレが例の秘密運動をやる様になつてからは、目付も顔付も態度も丸つきり違つてきて、バカバカしい程ソワソワして何時もキヨトキヨトして居つた。此時も僕は秘密運動はよいものでないと思つた。しかし話は何時でも運動の話ばかりで、世間話一つした事もなかつた点は高津正道君と好一対のように思へる。ソレとも何か外に僕の知らない道楽があつたらうか。
 高尾君は共産党を脱退してからは多少アセツて居たようだつた。此のアセリが遂にアンナ事になつたのではあるまいか。誠に惜しい事をした。新聞雑誌では高尾君は共産党より除名された事になつてると思ふが、僕の聞いた処では、ダツトウがホントウだ。又露金は多少公然私用された事になつてるが、実は秘密に運動に公用されたとキイてる。もう秘密でもあるまい。誰かホントに知つてる者が高尾君の為に此点を明かにする義務があると思ふ。兎に角僕の見た高尾君は、強い弱い無茶な義理堅い、正直熱心真面目の大人になりかけた人であつた。(戦線同盟は高尾君を失ひ、適当の首領がなくなり、潰れたと断言しても決して失敬になるまいと思ふ。)此の大人になりかけた人といふは、結局小供の如きといふ意味になるだらう。僕の処の堅公は其頃人類を大人、小供、大人になりかけた人の三種に分類したが、よくカラカワレ、従つて与し安しとしてカラカヘル近藤憲二君、高尾平兵衛君の如きは大人ではないが、小供でもない、大人になりかけた人だと言つて居た。岩佐君の如きも堅公、作公でよくカラカツタが流石に、小供のある岩佐君の事は、岩佐さんは大人だと言つて居た。其の頃堅公がよく、大人になりかけたら僕にも一人でお銭を使はせてね、とセガンだは高尾君等が買物でもする処を見て羨ましく思つたのだらう。
 僕は赤化防止団襲撃事件の弁護で、僕の陰ながら常に尊敬する米村君を極力賞揚し、ソレにも拘はらず、高尾君が米村君の生命と自分の生命とを取替へ様としたは、金と鉛と交換しようとしたもので、古今無類の大バカ者であると一言するを楽みにして居た。(コレを今茲で云つて仕舞つたからには、もう云ふ事もないから弁護はしない積りだ。)又大正十二年六月二十六日早朝、吉田君、君と(此文は吉田君宛の手紙として書いて居たツけ)長山君とがウラからヌツと来て、今ソコで高尾君がヤラレて仕舞つたと話された時は、僕はホントに落胆した。正直に云ふのが失敬でないなら、僕はホントに両腕をトラレたような気がした。コレは何の故だらうか。共産党でも其の反対者でも亦戦線同盟員でもない僕、又高尾君と何等密約があつた訳でもない僕が、何故高尾君の死でさうガツカリするのだらう。思ふにコレは僕が高尾君に深く期待する処があつたせいではないだらうか。何んで僕が高尾君にさう深く期待したのだらう。ソレは思ふに高尾君が何か仕出かす人物、ヤリ遂げる人物、シツカリした人物として評判がよかつたせいであらう。僕としては僕が共鳴したのか、又は高尾君が僕に共鳴したのか、兎に角日本の同志が、ロシヤの指揮命令を神様以上に恐懼遵奉する事と、大庭柯公君を見殺しにする事とを非常に憤慨した点に意気投合した事を覚えてるのみだつた。僕がソレでもまだ生きてるかも知れないと思ふて、当時、新聞社を頼んだり、ヨツフエを脅迫したり、外務省へ建議したり、遂には日本社会主義同盟執行委員会の名を以てロシヤへ抗議書を送つたりして、大庭君救出の運動を起した最中であつた事も、君に一ピの力を借らんとした僕が余計に落胆した一つの原因であつたかも知れない。
 社会葬の事に付いても、一言して置きたい事がある。高尾君が死ぬ様になつたは、高尾君が南葛の河合君等を襲撃し、事が思ふ存分にいつたので調子に乗り、再び柳の木の下でどぜうをとらふと思ふたのが原因だらうと思ふ。コウ考へた僕は、葬儀について第一着に河合君に来て貰ふて諒解を求めた。河合君は快諾して前の事を水に流し、共産党や総同盟方面を奔走してマトメテ呉れた。高尾君と大杉君と河合君等との三つの社会葬中では、其緊張振りと云ひ、人出数といひ、全無産階級の一致振りと言ひ、何んと云つても元祖なる高尾君の葬式が第一の人気であり、成功であつた。勿論時節柄もあつたが。シテ此の功績か感謝かは第一に河合君の徳に帰すべきものだと思ふ。(河合君の死にはバカな事をしたなどの感は起らず、又惜しい事をしたと思ふ許りでなく口惜しい、気の毒だと云ふ気がトメドもなく起る。高尾君の社会葬は、階級意識に燃える無産階級は大事の場合には、共同戦線に立つものであるといふ一大脅威と激励とを社会に与へ、大杉君や平澤君、河合君等の社会葬は、其の責誰にあらうと、無恒心階級運動は遂に私利私慾と無知感情の烏合大衆運動であるといふ保証と安心とを識者に与へたといふ事も一寸一言いふて見たい。)
 序に社会葬の会計報告もして見たい。高尾君の社会葬費として会計たる僕の手許に集まつた金約四百円、入費約二百円、残金約二百円。尤も画ハガキ印刷代約百円近くと九州葬儀場へ誰かの出張旅費約四十円等は此二百円の中で、現金残り約四五十円だか六七十円。此の現金も大写真と画ハガキとは会計簿と共に戦線同盟に引渡し、戦線同盟では詳細に雑誌に報告する筈だつた。処が其雑誌が禁止になつて一部も残らず押収されたとの事で、僕は勿論、天下に誰一人見た者がないといふから僕はなんだか気持が悪く、此の機会を利用して此処にコレだけの報告をし、(今になつたら色々書きたい事、言つて見たい事が沢山出てきたが、もうお互アキてきたから、)併せてコレでおしまいとする。(一三、六、一三)
<山崎今朝弥著、山崎伯爵創作集に収録>
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