宮地嘉六・奇人山崎今朝彌

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奇人山崎今朝彌-法曹界のアメリカ伯爵-           宮地嘉六       最後の対面  山崎今朝彌氏とは終戦後、久しぶりで偶然に或る追悼会の席で落ち合つた。それがついこのあひだのことのやうだが、もうそれから三四年は経つてゐる。そのとき、丁度、卓を挟んで向ひあふことになつたので私は少しバツがわるかつた。山崎氏の方でも何か同じやうなことを感じただらう。が、氏はそんなことには頓着せぬ風で、例によつてキヨトンとした顔で隣席の荒畑寒村氏と何やら話を交へてゐた。とんだ場所におれは席を選んだものだと思つたが、もうどうにもならなかつた。見渡したところ、みんなの席はきまつてしまつてゐる。  ずつとおしまひのあたりに、空いた席がなくもなかつたが、すぐ私の隣席には小生夢坊氏がゐ、その他、私と山崎今朝彌氏との曽てのイキサツを知つてる人が多数ゐて、その人達の手前、今更席をかへるのも見えすいてゐて、逃げをうつ心弱さを嗤はれさうな気もしたので頑ばりぬいて腰を落ちつけてしまつた。向ひあつた以上はお互に顔を見まいとしてもさうはゆかない。  私には三十年ぶりで目近に見る米国伯爵山崎今朝彌氏だつた。で一切を白紙にした気持で私の方からおじぎをし、挨拶した。おじぎだけではよそよそしくもあり、白々しくもあるので『--御元気で・・・・・・』とか何とかいはねばならなかつた。山崎さんの方でも軽く応答した。挨拶をして悪い気持はしなかつた。偶然にも彼氏の近くに席を選んで挨拶する機会を得たことは却つてよかつたやうな気がした。  が、そのとき、お互に席が遠く離れてでもゐたら、私とても、わざわざ近づいて行つて氏に挨拶する勇気は出せなかつたにちがいない。そして当夜、あいさつをせずにゐたら、もうこの世では氏と挨拶を交へる機会はなかつたわけである。山崎さんの急逝の報をきいて、私は、あのとき、挨拶をしてよかつたと今は思ふ。       かかあ天下の山崎家  法曹界の名物男、奇人の定評あつた山崎今朝彌氏と私との曽てのイキサツなど今は知らない人が多いのは私にとつては勿怪の幸ひでもある。が、山崎氏の半面を茲に描くには一応過去の荒筋を語らねばならぬことになる。  今から三十年前、今朝彌夫人実の妹俊子と私とは、堺利彦先生のおとりなしで結婚したのであつた。そして同棲僅かに一年余で別れてしまつた。丁度その年の師走近くに生れた赤ん坊を彼女に抱かせて、お産後の初の挨拶の意味で芝の桜田本郷町の山崎家へ母子を俥にのせてやつたところ、それつきり彼女は戻つてこないのだつた。平素、心やすい隣家の人も心配して迎へに行つてくれたりしたが『本人は戻りたいとおつしやつてゐますが、お姉さま御夫婦がお引きとめになるさうで・・・・・・』といふのだつた。  私としても山崎今朝彌夫婦のこじれてゐる気持がわからぬではなかつた。それは、私が結婚後、九州の福岡日日新聞(今の西日本新聞)に群像と題する小説を連載したこと、そして、その小説の内容が山崎夫婦の気持をいたく害してゐることだつた。百六十回ほどのもので、それは主として俊子との結婚生活を描いたものだが、その心理描写が山崎氏夫婦、殊に夫人のお気に喰はなかつたのである。いくら新婚生活を主題として描くにしても目出たし目出たしでは小説にならないから大努力で、突つこんで書いたのが祟つたわけであつた。  ところで私としては一方、新婚生活をきりぬけるために、さうした連載小説をどうしても書き続けねばならぬ苦難の途上にあつた。が或る日、堺先生の家を訪ねると『山崎夫婦は福日の小説を読んでるらしい。心理描写が深刻だといつてゐる』と堺先生はいはれた。  そんなことから私は山崎今朝彌氏の家にしばらく御無沙汰した。構はずにときどきゆけばよかつたかも知れないが、行けばブンとした顔をされるし・・・・・・だから、赤ん坊が生れたときも、鳥の子餅を持つて私自身出かけはしたが、つい神経質的に気おくれがしたので、山崎家の一丁ほど手前で俥を留め、私はそこに居て車夫君に贈物をとどけさした。それがまた先方に感づかれて、いやが上にも山崎夫婦の気持を害したといふわけであつた。  離婚が表面化してからはお手のものの法律を楯にギユウギユウ私は山崎氏にとつちめられた。喰ふか喰はれるかの激闘にまで展開しかけた。山崎今朝彌氏としては、一つは夫人の御機嫌とりに私を存分やつつけねばならなかつたらう。また、ひいては山崎夫人の実家に対してもさうであつたらう。といふのは、山崎家は嬶天下の傾向が多分にあつたから、夫人に対して、また夫人の実家に対しても、そこのかしら娘のお婿さんらしい腕まへをこんな時に山崎さんは見せねばならなかつたらう。事実、夫人の実家は弘前の旧家であり婿の山崎氏を偉大なる人物として信頼してもゐた。  新聞では私を悪者のやうにかいたがこれも山崎氏がさう書かせたらしい臭ひが多分にあつた。女房の持参金(そんなものを見たことも私はなかつたが)をまきあげたの、女房の物を入質してなくしてしまつたの、あることないことを新聞記者に書かせた。ところが、私の手もとには既に、女の所持品全部を受取つたといふ証書が山崎の方からとどけられてゐたのである。  私はその証書を、王子署の特高が来たときに見せて納得させてゐたあとだのに、私がよこしまなことをしたかのやうに世間に発表した。夫人の御機嫌とりに私をやつつけるのではあつたらう。けれど、山崎今朝彌といふ人はもともとさうした茶目な偽悪癖のある人だつたともいへよう。山崎家が嬶天下であつたといふことは決して悪いとは私にはいへない。あの、ものにこだはらない生一本の負けぬ気の先生が嬶天下で家ではをさまつてゐたところは愛すべきであつた。戦時中は遠くへ妻子を疎開させてゐたさうだが終戦となつても、家族を東京へよびよせることは転入禁止の場合、おいそれとはできなかつた。そんなこんなで手もとは不如意となり遂に持家を売りとばしたりしたらしい。その頃の苦難はひとり山崎氏一家ばかりではなく、御同様であつた。然し山崎夫人は良人が家を売り飛ばしたことをひどく残念がつたらしい。『あなた、あなたが死ぬまでに家だけは建ててから死んで下さいよ。お願ひだから・・・・・・』とあけくれいつたものださうだ。そのため、山崎氏は老体に鞭つてやつともと通り一軒の家を手に入れ、夫人の望みを実現して死んだ・・・・・・とこれはまた聞きの話しである。       モンペ姿の山崎氏  ところで、それと関連した話がある。終戦直後のこと、山崎今朝彌氏は杉並区の区長改選のとき新居格を向うにまはして立候補したことは周知である。これは興味ある選挙相撲、よい取り組として地元内外を熱狂させた。が、まんまと山崎氏は土俵際で突つ張りがきかずに惜敗した。しかし、新居が区長になつたお蔭で、その頃、住宅難で弱つてゐた山崎氏は新居のはからひで区長公舎に一時ころげこむことができたのであつた。選挙戦で勝者の地位にありついた新居は、せめて好漢山崎への心づくしとして区長公舎へ山崎を住まはせたのであつた。美談といへば美談。のうのうと準区長気どりで公舎にころげこんで、すましてゐるところも山崎らしい心臓だよ、といつてゐた人があつた。  女権尊重の国、米国仕込の山崎今朝彌氏が、一生を嬶天下でをさまり、サイノロの定評を残してこの世に終りを告げたのはあやしむに足らぬ。生れは信州諏訪で、法律家としてのふり出しは検事だつたさうである。が、それは、ほんの僅かの期間で、米国に渡り、あちらから帰ると米国伯爵と自称し、弁護士大安売、などと引札をばら撒いたりして剽軽ぶりで先づ世人を釣りこんだ。元来多分に諧謔家的素質の人。占領軍がバッコしてゐた頃のことだが、新憲法法文中の『主権在民』といふ字句を『主権在マ』などとヒニクつてゐたのも面白い。在マのマはマツカーサーを指していつたもので、さうしたことにトウイ即妙的な天才をひらめかす人だつた。明治文壇の鬼才齋藤綠雨ふうのところがあつた。  弁護士としては刑事弁護よりも民事を多く取扱つてゐた。一頃、二年あまり私は仕事の関係で毎日裁判所に出入りしたものだつたが、彼の刑事弁護は一度も聞く機会がなかつた。或る人が彼の刑事弁護を唯一度傍聴したことがあるといひ『山崎今朝彌の弁論ぶりは一風変つてて面白いよ。なんにもいはないで唯「被告は親孝行であります。何卒執行猶予を・・・・・・」と、それでおしまひなんだ』と私に語るのだつた。それでゐて裁判長の受けは、くどくどとわかりきつたことをいふ低調な弁論よりも簡にして要を得てゐたので案外よかつたさうである。  私は或るとき、山崎氏がモンペをはいて裁判所の民事部の廊下を大股でさつさと歩いてゆく姿を見た。終戦前後のことである。少し前かがみに歩いて行く姿は、元気さうには見えたが、年齢は争はれないものか、だいぶお爺さんらしく見えた。きけば晩年はよほど耳が遠くなつてゐたらしい。  氏は袴をはくことをめんどくさがる風で、芝の桜田本郷町から小田急線の成城町に移つてから、毎朝、蝙蝠傘のさきに小さな風呂敷包をつつかけて、それを肩にかけ、尻端折りで自宅から駅へと歩いて行く姿は珍風景に見えたさうである。そのコーモリのさきの風呂敷包は袴と法廷できる法服(戦後は廃されたが)だつたらしい--さういへば山崎今朝彌氏の洋服姿は恐らく見た人はないだらう。長らくアメリカにゐて戻つた人にはめづらしく、和服と無帽主義で一生を通したのではなかつたらうか。       二人で銀ブラした話  私が山崎氏の風□にはじめて接したのは堺先生主宰の売文社でであつた。その頃、売文社は今の日比谷の日活会館のあたりにあつたが、私もときどきその売文社を訪れた。或る日、ストーブのそばに五十近いイガグリ頭の和服の男が椅子にかけたまま両足を投げ出して話相手もなくポカンとしてゐた。袴もはかずに足を開いてゐたので膝坊主のへんまでまる見えだつた。円顔で頤の短い中柄な体格でどことなしに凄味があつた。社員と話をするときはにこにこと笑顔を見せるが、私にはゴロつきのやうにも見えた。場所がその頃の社会主義者の本城であつたから此の男はただものではないぞと思つた。ところがそれが米国伯爵山崎今朝彌氏であつたことがずつと後になつて私にわかつたのである。  彼の義妹との縁談の進行中、私は彼に誘はれてギンブラをしたことがある。堺先生、長谷川如是閑氏、加藤一夫その他左翼文士をグループとする著作家組合の会合の帰りだつた。散会したのは夜の九時頃であつたらうか、『どうだ、これから銀座を歩いてクリスマスデコレーシヨンでも見ないかね』と山崎氏の方から誘ふので『お伴しませう』といつて、それから二人は人出の多いクリスマス前夜の銀座をぶらついたが、銀座を一緒に歩かうかなどとめつたにいふ山崎氏ではない。  して見れば既に私はそのとき彼の意中での義弟になりかけてゐたのであらう。破格の親しみを仕向けられたといふわけである。が一緒に歩きながら二人は啞のやうに無言であつた。誘ひをかけたほどだからお茶でものまう、といふのかしらと思つたがさうでもない。酒を一滴ものまない山崎氏に私からバーに誘ひこむわけにもゆかない。唯ぶらぶら銀座の歩道を歩いてシヨーウインドーなどを覗いたりしてから『ぢや、さよなら・・・・・・』と彼氏の方からさういつて別れてしまつた。煙草も酒もたしなまない人であつた。  『君も印税で喰つてゆけるやうにならなくちやね・・・・・・』といよいよ彼の義妹と結婚してから彼は私にさういふのだつた。私も社会主義者、山崎氏も社会主義者のつもりだつた私はその言葉をちよつと受入れかねた。一人の大金持ができることは多くの貧困者をつくることになるといふ私のその頃の考へ方では、印税で、不労所得で生活することなど神の御心に反するものと思つてゐたのだ。       無口なユーモリスト  山崎さんが酒のみだつたら私にはとりつきよい男だつたかも知れない。酒も煙草もやらないといふ義兄だつたので呑助の私は当惑した。然しいつも酒に酔つてるみたいな愛嬌はあつた。無口でゐてユーモリストであつた。ところが、あれほど服装を構はぬ人でありながら、何々会などで私と出あつたりすると、それとなくジロリと私の服装に視線を向ける人だつた。私はもともとおしやれが好きで少少気どりやでもあつたが、どうかすると、無雑作なふだん着の粗服で同志の宴会に出席した。そんな時、山崎氏と出くはしたりすると氏はよい顔をしなかつた。自分の女房の妹の亭主としての関心を払ふのであつたらう。そんな場面が二三度あつたのを今でも思ひ出す。  私たちの結婚披露会は銀座横町の、その頃あつたカフエー・バウリスタ(三十年前の時事新報社前)でやつたが、次の日は山崎今朝彌氏の宅で山崎氏の平素親しい弁護士仲間を招待することになつた。その趣向がまた山崎流でふるつてゐた。数十人の客を迎へるだけの食卓がなかつたので八畳の広間にリンゴ箱をならべ、雨戸を持ち出して来て架け渡し、その上に白布をひろげて即席のテーブルができあがつた。料理は、おでん燗酒。その頃、社会主義のおでんや岩崎で聞えてゐた(有楽町のガード下でおでんをやつてゐた)岩崎善右衛門君が、屋台車を庭さきに曳きこんで、おかはり御自由といふのであつた。さういふヒヨウタクレたことのすきな山崎今朝彌氏だつたのである。(作家) <以上は、宮地嘉六氏(1958年没)が著作者である。> <旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正し、旧漢字は適宜新漢字に直した。> <底本は、『文藝春秋』(文藝春秋社)第32巻17号165頁(昭和29年(1954年)11月号)> <この評論は、第三者による客観的な人物批評であるとはいい難い(森長英三郎『山崎今朝弥』(紀伊國屋書店)200頁参照)。とはいえ、山崎の人となりを知るうえで参考となると思われたから紹介することとした。>

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