作り話の様な実話(貝塚渋六)

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作り話の様な実話           貝塚渋六  米国伯爵、平民大学総長、道楽社会主義者、奇人、変人、弁護士、山崎今朝彌君のオトウサンが死んだ。  私は曽て『山崎今朝彌君の死』といふ一文を天下に発表して、粗忽の大罪を犯した。山崎君はそれが為に自分の猶ほ生存して居る事を広告するのに、大変な手数と金銭とを費した。そこで今度は其の粗忽を再びせざらんが為に、十分の調査を遂げて此の一文を発表する。山崎君のオトーサンは確かに死んだ。大正八年十一月廿七日午後三時五十二分を以て正に判然と死んだ。享年九十六歳。嗚呼悲しい哉。  彼は名を山崎勝左衛門と云つた。奇人の親だから自然に子の遺伝を受けて矢張り奇人だつた。私が『今朝彌君の死』を書いたのは、彼が奇人たりし事を適確に論証せんが為であつたが、今ここに『オトーサンの死』を報ずるのも、今朝彌君の奇が如何に其の父の心に遺伝し発展しつつあつたかを適確に論証せんが為である。  山崎勝左衛門は実に奇人であつた。自ら笑はずして常に人を笑はせる人だつたそうだ。成程、考へて見ると、落語の大家などは高座に座つて話をしてゐる時。決して自らは笑はない。そして其点に於ては、実は不肖渋六も亦た正に其軌を一にしてゐる。現に此の通りマジメくさつて、厳粛な文字を並べてゐながら、それでいつも人に笑はれてゐる。只、不肖と勝左衛門君及び落語の大家と違ふ所は私は笑はれて不本意千萬心外至極であるのに反し、それらの諸君は内心甚だ得意だといふ点に在る。  然しそんな事はさておき、私は今、勝左衛門の死を報ずるに急である。彼は去頃流行性風邪に罹つた。彼は今度こそ死なねばならぬと考へた。彼れの父は九十六歳で死んだ。彼れの祖父も同じく九十六歳で死んだ。彼たる者、豈に同じく九十六歳の当年に於いて死なざるを得んや。然るに年は病中に段々と暮れて行く、彼は気が気でなかつた。若し年内に死なれないでは大変である。死ぬに死なれず死なれずに死ぬといふ様な事あつては実に大変な大晦日である。そこで彼は一切薬と食物とを斥けた。家内の人々がナゼそんな事をするかと云つて色々に勧めたが、彼は只『一度そう云つて仕舞ふたから』と云つて済ましてゐた。  之より先、医師は彼に注射を施した。痛いかと聞くと、痛いと答へた。二度目の注射の時、又痛いかと聞くと『同じく』と答へた。三度目の時も四度目の時も、矢張り只『同じく』と答へた。然るに薬と食物とを斥けてから後は、注射をしようとすると『痛い痛い痛い痛い』と火のついたやうに叫びだして、どうしても注射をやらせなかつた。  或日、彼は起きて座りたいと云ひだした。体を動かしては危険だと医師が止めた。起きるとアブナイからと云つて、家内の人々も止めた。ハハア起きれば死ぬるのだな、と彼は考へた。或日、彼は又ぜひ起きたいと云ひ出した。家内の人々は止むなく総がかりでソーツト彼を寝床の上に起した。彼は端座して合掌した。然し彼は一向に死なない。「何アんだ、うそつ事を云つたな」と、彼は又ごろりと寝た。  彼れの従兄弟に勝右衛門といふ人があつた。之は八十九歳だつたが、同じ頃から風邪に罹つた。ミギヒダリでやつてゐるが、どちらが先になるか知らん、と医師は首を傾けてゐた。とうとう右が勝つて、勝右衛門が或日参つた。  此死相撲の勝負は、誰も勝左衛門に知らせなかつたが、家内のゾワゾワするので自然とそれと知れたらしい。其日、勝左衛門は突然酒を飲むと云ひだした。酒でも飲むか食ふかして呉れれば有りがたいと家内の人々は大喜びで酒を持つて来た。彼はそれを一杯グイと飲んだ。家内の人々は之をキツカケに、何か食べたいものは無いかと聞いた。すると彼は『サーネー、馬の角があつたら食ひたいが』と済して答へた。人々は意外の言葉にドツト笑ひだした。其の笑はれた拍子に彼はゴクリと参つて了つた。  今朝彌君は一旦奇死を遂げて間もなく蘇生し、為に私をして粗忽の罪を犯させたが、そこは勝左衛門君は徹底したもので、それきり『同じく』とも云はなかつた。  勝左衛門君の生前の逸話に斯ういふ事がある。彼は道を歩く時、草蛙でも菜ツ葉でも鼠の死骸でも見つかると、必ずそれを拾ひあげて、近処の田や畑に放りこむのが常だつた。天物を暴殄せずと云つたような心持で人の田畠と自分の田畠との差別なく、只だ地力の回復と持続とを考へたものだらう。此の一事から考へても、若し彼をして其の天寿を全うせしめたならば、人間の天寿は少くとも百廿五歳だと私は信じてゐるが、彼は必ず其子今朝彌君からの遺伝を更に発展させて『道楽社会主義』ぐらいな所でなく、正直正銘の所まで進歩してゐただらうと思ふ。此点に於いては私は特に彼れの九十六歳といふ早世を惜しむの年に堪へない。嗚呼悲しい哉。茲に蕪辞を陳して聊か追悼の意を表すと爾云ふ。 <以上は、堺利彦氏が著作者である。貝塚渋六は堺利彦氏の筆名である。>  ~~~~~~  私の父は村近在では、諦のよい人思ひ切りのよい人。胸勘定(暗算)の早い人、喧嘩の嫌いの人、解つた人、極りのよい人、なりふりに構はない人、達者のお爺さん、善いお爺さん、松葺のお爺さん、等で評判であつた。逸話なども沢山あるが私が一番父に感心していた事は諦のよい事であつた。私の兄が製糸を初めた時村の人は、今に見ていろ、山よ(兄の家号)のお爺さんが繭買に出る博奕を打つ家が潰れる。と云ふた。父は小供の時には家伝で有名なバクチ好きだつたそうだ、然るに七十歳か八十歳で若隠居してからは父は決してバクチは愚か家事には決して手を出さず世話一つ焼かなんだ。兄が如何なる大失敗をした時でも、愚痴一つコボさず自分はセツセと野菜畑を耕してゐた。若い時分から喧嘩が嫌いでサア喧嘩だと云へばスグ手当り次第に物を担いで逃げ出し、父の居つた時の喧嘩には未だ曽て紛失物と壊はれ物とが無かつたとの事である。兄が七十歳にも満たずに夭死し為めに半年もツンボになつた位父に心配を懸けた事や、セメテ百歳迄生かしたいと思ふたに早く死んだ事やは、悲しいやら口惜しいやら気の毒やらには相違ないが、父の思ふ時に死ぬ事の出来たはせめてものあきらめである。(山崎今朝彌) <以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。> <山崎今朝弥著、弁護士大安売に収録>

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