山崎今朝彌君の死(貝塚渋六)

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山崎今朝彌君の死       『立派なユーモリスト』 貝塚渋六       一 千部萬部のお経に優る追善供養  新聞紙と云ふものが兎かく下らん事ばかり書き立てて、当然報導すべき事件は却つて之を閑却し、或は何かの理由で態と知らん顔をしてゐる場合が屢々あるのは、識者の常に痛嘆する所であるが、予はここに又一つ其の最も顕著なる例証を発見した。と云ふのは、当代の奇人変人として有名なる米国伯爵、欧米各国法学博士、弁護士、山崎今朝彌君が、去十六日午後三時三十分、千葉県八幡浜に於いて一子堅吉(六歳)を肩車に乗せたまま変死を遂げた事が、未だにどの新聞にも記載されてゐないではないか。  此に於いて、予は敢て彼れの幽魂を慰めんが為、詳に彼れの死状と死因とを報じ、併せて彼れの奇人変人たる生涯の閲歴を語らうと思ふ。  彼は奇人変人として当然に奇抜好であり、又広告好であつた。然るに彼が折角、注文どほり奇抜な死に方をしてゐるのに、それが世間に広告されないでは、彼れの遺憾察すべしである。故に予は茲にこの一文を草する事を以て、千部萬部のお経にも優る追善供養であると考へる。  然し彼れの死を語るには、先づ以て彼れの生を語る必要がある。依つてそろそろ彼れの伝記から語りはじめる。       二 彼の自伝  彼れの伝記を語るには甚だ好都合な材料がある。『弁護士名鑑』に載せられてある彼れの自伝がそれである。彼れの自伝は、渋六の自伝が原稿紙四十枚を費して猶ほ本文に入ることが出来ず、結局大失敗に帰したのと違つて、極めて簡潔な、要領を得たものである。左に其の全文を転載す。  君姓は山崎、名は今朝彌、明治十年逆賊西郷隆盛の兵を西南に挙ぐるや、君之に応じて直ちに信州諏訪に生る。明科を距る僅に八里、実に清和源氏第百八代の孫なり。幼にして既に神童、餓鬼大将より腕白太政大臣に累進し、大に世に憚らる、人民と伍して芋を掘り、車を押し、辛酸嘗め尽す。傍ら経済の学を明治大学に脩め、大に得る処あり。天下嘱望す。不幸、中途試験に合格し官吏となる。久しく海外に遊びベースメント、ユニバシチーを出で、欧米各国法学博士に任ぜられ、特に米国伯爵を授けらる。誠に稀代の豪傑たり。明治四十年春二月勢ひに乗じて錦衣帰朝、一躍直ちに天下の平弁護士となる。君資性豪放細心、頗る理財に富み、財産合計百萬弗と号す、即ち業を東京に興し、忽ち田舎に逃亡し、転戦三年、甲信を徇へ、各地を荒し、再び東京に凱旋し、爾来頻りに振はず。天下泰平会、帝国言訳商会、私立天理裁判所、軽便代議士顧問所、各種演説引受所等は皆君の発明経営する所なり。       三 自伝の評釈  扨この自伝が如何に奇抜で、痛快で、皮肉であるかは、読者の現に看取せられる通りであるが、然し『価値の発見者』たる予としては少しく之に批評と解釈とを加へる必要がある。  先づ『明治十年』といふキツカケから逆賊西郷の挙兵を持ちだし、『君之に応じて直に信州諏訪に生る』とやつた所に無限の妙味がある。逆賊に応ずるとは不届千萬だが、応じて生れたと云ふのぢや攫へどころがない。彼が『逆賊』といふ美名の背景を無罪の中に利用した所が手柄である。  次に『明科を距る僅に八里』とは何の為に挿入れた一句であるか、容易に分らない。明科は近頃『逆徒』を出だした土地である。さういう土地と、彼れの産地との距離が『僅に八里』だと態々断つた理由は、予の遂に解し得ざる所である。然るに直ぐ其次に『清和源氏第百八代の孫』と続けたのはどういふものか。之が又彼れの心理作用の端倪すべからざる所である。或は彼が忠君思想に富む事を暗示したものであるかも知れぬ。  それから『人民と伍して芋を掘り』『不幸、試験に合格して官吏となり』などの警句は只平凡に誉めておくとして次の『ベースメント、ユニバシチー』が問題である。之は博識なる予もツイ気がつかずに居た事で、そんな大学もあるのかなアなどと好い加減に見過して居たが、謂はれを聞けば何アんの事だ是れ即ち彼が桑港あたりで皿洗ひ生活を送つた事を意味するのである。  それから『欧米各国法学博士』は余り奇抜でもないが、『米国伯爵』は彼が最も得意とする所で、『誠に稀代の豪傑』たる所以である。青島戦役の後、彼は其功に依つて大隈伯と同じく侯爵にならうかと思つたが、矢張りどうも伯爵の方が落付がいいと考へて、ヤメにしたと云ふほど、それほど彼は伯爵が好である。其頃予は彼に向つて、若し侯爵になるとすれば、どういふ手続でなるのかと聞いたれば、何アに訳はない、小生儀此度侯爵に相成候といふ広告を新聞に出しさへすればそれで可いのだと答へた。成ほどそれなら訳はない。然し彼な其の訳のない手盛りの陞爵を濫りに行はず、今でも、イヤ其の生存中、とうとう伯爵で通したのは誠に謙徳と称すべきである。以下、一躍して平弁護士となつた所、豪放細心と並べた所、財産合計百萬弗と号した所、甲信を徇へ各地を荒した所、皆な行文措辞の妙を極めて居るが、殊に『爾来頻りに振はずといふ結末の一句は、千釣の軽みあり』と謂つべし。       四 鼻糞と鼻毛の芸当  予が初めて彼に会つたのは、彼がアメリカから帰りたての時で、頻りに「米国伯爵」の名刺を振りまはしてゐたが、此の新帰朝者の風釆たるや極めて揚らざるもので、安つぽい半よごれの白地の浴衣に黒木綿の白兵児帯をグルグル巻にして、時と処とを選ばざる放屁の連発を挙て、殆んど唯一の芸当としてゐた。  猶ほ一つ彼れの芸当として予の記憶してゐる事がある。彼は其の自然にトボケた顔を生真面目に取繕つて、先づ鼻糞をほぢつて両手の指先にひねくる真似をして、大きな鼻糞の玉が出来あがつたといふ見えをする、それから今度は、鼻毛を抜く真似をして一本抜いてはそれを左の人さし指の上に直立させ、二本抜いては更にそれを前の一本の上に直立させ、三本、四本、五本、七本、と抜いては継ぎたし、抜いては継ぎたし、結局、二尺ばかりの鼻毛の直線が指先に突立つてゐるといふ見えをする。それから其の鼻毛の直立線の頂上に、前の鼻糞の大きな玉を上手に首尾よく載せたと云ふ見えをして扨之からが本当の芸当だといふ意気込で指先で巧みに中心を取りつつ、丁度鞠つかひの曲芸師がやる様に、寸分の油断もなく視線を鼻糞玉に集注し、鼻毛の直線で其玉を様々にあしらふ真似をする。其の遣方が如何にもうまくて、直線と玉との実在を髣髴させる。それから好い加減喝釆を博した所で、今度は鼻毛を一本づつ下の方から取りはづして、親指の先で元の鼻の穴に押しこんでゆく。最後に鼻糞玉を仰々しく、サモ鼻の穴よりも大きな奴を無理に押込むといふ見えで押しこんで了ふと、跡はケロリとして相変らずトボケた顔をしてゐる。見物人が腹を抱へて笑ひこけると、さすがに彼もニコニコするが、それきりで又トボケた顔をしてゐる。  彼は斯くの如く、人を馬鹿にし自らを馬鹿にする一奇人として、先づ予の眼中に映じた而も其トボケた顔はもう二度と見る事が出来ないのである。  猶ほ少し彼れの風釆に就いて云つて置きたい。前記「弁護士名鑑」には、多くの弁護士達の或は羽織袴、或はフロツクコート或は法冠法服の堂々たる肖像が載つてゐるが彼は其間に、真ツぱだかで腕組をして威張つてゐる。彼は又しばしば、洋服(勿論古色を帯びた背広)を着て、頭には帽を冠らず、足には下駄を穿いて歩いてゐる事がある。イヤゐた事がある。然し其の奇抜な風釆もモウ二度と見る事が出来ないのである。       五 大山園に於ける伯爵夫婦  彼は又可なりのツンボであつた。但し此「あつた」といふ過去動詞は、今や既に彼が死んでゐるからと云ふばかりで使つたのではない。生前一二年ぐらゐ、彼れのツンボは不思議に直つてゐたのである。故に若し予が彼れの生存中に此文を草するとしても矢張り「あつた」と書くべきである。然し彼れのツンボ時代と雖も、彼が果してどの位の程度までツンボであつたかは到底解決の出来ない疑問である。何となれば、彼は他の多くのツンボと同じく、巧みに其ツンボを利用して自己の不利益な事に一切其責を塞ぐだけの聡明を有してゐた。  殊に細君の不平や強訴や告発に対しては彼れのツンボは最も甚だしくなるのが常であつた。之について一つ極めて面白い逸話がある。彼れの細君は其の軟々たる嬌舌を以てミツシリ夫君を責めさいなまうとしてもツンボといふ利器に逢つては如何とも策の施し様がない、蛙の面に水を掛けた様な彼れの態度は、幾度細君をして煩悶懊悩させたか知れない。さりとて細君たる者、家族の手前、若しくは近処隣の手前、ツンボの耳に徹底する程の大声を以てワメキたてる訳にも行かない。此に於て細君遂に最後の一策を案出した。或日曜、細君は極めて機嫌よさげに夫君を説きすすめて、タツタ二人連で大山園に散歩としやれた。  大山園は諸君御存じの通り玉川行電車の沿線にある。園内は広濶で、茶店などもあちこちにあるにはあるが、平日はさして人も多くは行かないので、誠にヒツソリとしてゐる。山崎夫人が特にここを選んで散歩に来た理由は、其の人げのない広場の真中で誰れ憚る所もなく、伯爵がツンボを利用する事を許さない程の十分な高声で、思ふ存分膏を絞らうと云ふのであつた。昔し徳川幕府の城中で、御老中達や何かが大事な密談をやる時には、決して之を密室の中に於いてせず、必ず五十畳敷か百畳敷の大広間の真中で、而も猶ほ念の為め四方を明けはなして置いてやると云ふ話を聞いた事があるが、伯爵夫人は正に其の故智を学んだものである。       六 弁護士大安売  彼が洋行前、『不幸、試験に合格して』検事となり、甲府裁判所に赴任した時『冬の時分に単物一枚で袴もつけず、おかみさんの腰巻を帯にしめて行つて』『出迎への人々に一パイ喰はせた』と云ふのは平民主義自慢の知事君などが毎度得意でやつてゐる事で、さして奇とするに足りない。又彼が信州諏訪で、切符を買つて汽車に乗る暇がないので、『動き出した汽車の一番あとの丸い玉へ飛びついて、つひつひ次の停車場までぶらさがつて行つた』と云ふのも、アメリカの渡り労働者がよくやるといふ其の遣口を学んだものとすれば、ベースメント大学卒業の博士としては寧ろ当然である。  又彼は『保証連帯無効之印章』といふ実印を拵へて、『矢鱈に保証連帯になつてやつた』と云ふのも宮武外骨君の『是本名也』といふ実印と一対の好謔だと云ふ位なもので、敢て彼れの奇を大にする程の値はない。  只、予が最も深く彼に敬服するのは、彼が甲府に於いて『弁護士大安売』といふ広告をした其の大胆さである。彼はそれより以前にも『公事訴訟は弁護士の喰物』といふ広告をして多少の問題を起した事があるが『大安売』に至つては大いに同業者間の物議を買つた。即ち甲府弁護士会は彼を以て弁護士の体面を汚すこと甚だしきものだと為し、同会の一員[甲野]弁護士なる者は『弁護士は百世の師現代の権威でなくてはならぬ、ソレを弁護士大安売とは何事ぞやと、頗る真面目に歯を反らして』彼を『詰責』したと云ふ。  然るに其後この問題が立消になつたので、彼が[甲野]弁護士に聞いて見ると『君は少し気違ひだと云ふ事だから許して置く事にしたよ』といふ答であつた。所が其の[甲野]弁護士は間もなく本物のキ印になつて、『東京辺へ飛出して来て、百世の師表、現代の権威、大弁護士云々』といふ広告などを出して居たが、とうとう死んで了つた。『少し気違ひ』の筈の『大安売弁護士』が最近まで一廉の弁護士でやりとほし、『百世の師表、現代の権威』たる『大弁護士』が本物のキ印になつて死んだとは、如何にも誂へ向の自然の皮肉である。  之について思ひ出さざるを得ないのは、予の兄弟分堺利彦が『売文社』といふ商売をやつてゐる事である。売文を蔑視すると称しつつ、事実上の売文をやつてゐる多くの文士が、此の『売文社』の名称に顰蹙した。(或は羞恥を感じた)其の態度は、即ち『弁護士大安売』に対する甲府弁護士会の態度であつた。然し文壇はさすがに弁護士会ほど野暮でなかつた。『文章は経国の大業、不朽の盛事』などといふ広告をする『大文士』は出なかつた。然し『社会の木鐸』やら、『個性を尊重する芸術家』やら、『自我の絶対権威を主張する天才』やらが、続々相率ゐて黄金の前に跪くといふ自然の皮肉は、矢張り誂へ向に現出してゐる。『自然』といふ奴は確かに山崎伯以上。及び残念ながら渋六以上の皮肉者である。  されば山崎伯の『弁護士大安売』と堺某の『売文社』とは誠に善く其揆を一にした現実暴露のイタズラである、宜なるかな、彼等二人は近来、イヤ最近まで、肝胆相照した交友の間柄であつた。       七 文章は終まで読む可し  彼れの大安売広告と同時に、今一つ面白い事があつた。彼は其の広告の中に『甲府遊郭大門前旧化物屋敷』と書きつけたので、大屋が大きに迷惑して談判にやつて来た。そこで彼は、ウンさうか、では取消すと答へて置いて、早速別の広告を出した。それには『追て旧化物屋敷の儀は今後家賃に障るとて大屋大目玉に付全部取消』とやつてある。大屋の苦笑した顔が思ひやられる。  今一つおかしい事がある。彼は諏訪から甲府に移転した時、左の如き挨拶状を土地の同業者に送つた。  拙者儀昨年春より人に看板を貸し申、諏訪と甲府を股に掛け、夜と昼とを利用して、稼ぎに稼ぎ候処、今回挙国一家、総て甲府に移住仕り候に就ては、御繁忙中甚だ恐入候へ共、明日午後正六時より城山館まで御賁臨の光栄を得て、左の順序に従ひ  ・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・ (順序略し)  ・・・・・・・・・・・・・・・・ 聊か披露の祝宴相催し度とは存候ものの、時節柄貧乏に付、聖旨の在る所を奉体し、只単に端書を以て御挨拶のみに止め申候也  『時節柄』と云ひ、『聖旨を奉体して』と云つたのは、丁度『戊申詔書』の出た時であつたからである所が、其の挨拶状を受取つた諸君の中には、『周章狼狽してフロツクで会場へ駆付けた者が数名あつて』彼は『大に世の非難を受けた。』然るにそれに対する彼れの弁解の辞を聞けば曰く、『終りまで読んで呉れたら何でもなかつたのだ』と。如何にも、終りまで読みさへすれば何でもない。之は実に注意すべき事である。例へば予の此の文章の如きも、必ず細心の注意を以て終りまで読むべきである。       八 昼寝から起きて大欠伸  彼は其後東京に「凱旋」し、「爾来頻りに振はず」に居たが、同志四五人と共に「東京法律事務所」を起し、「大安売」の実行をした結果、漸く少しづつ振ひだし、近来ではそこと別れて、芝区新桜田町十九番地(電話新一九一一番)「上告専門所」「平民法律所」などといふ新らしい看板を出し、「上告弁護士としてなら、日本では世界一にも成兼まじき杞憂がある」と威張つてゐる。イヤゐた。  更に彼が大マジメで「弁護士の天職」を論じてゐるのを見ると、「・・・・・・私に時と金が充分にあつたなら「数種の新聞を取り揃へ、毎朝欠かさず之を読んで、同情すべき事件者に一々権利伸張の勧誘葉書を奮発し、気強く感じて喜ぶ顔を想像して見たい。我々弁護士の正に為すべき天職は外には無い」とさへ云つてゐる。  又彼が法律的先見の明を自信する事の極めて確い証拠として、彼れの「不起訴処分に対する抗告」の一節を転載する。曰く「抗告代理人(即ち彼)は、其の提供する実際の法律問題に付、数年後に於て必ず一般に公認せらるる以前、屢々突飛珍奇として排斥を受くる常習を有す、本件(人の談話を許可なくして、新聞雑誌に掲載したるに対する偽作及び詐欺罪の告訴)も亦期年ならずして、猥りに人の談話演説を公布刊行する不道徳者に対し、囂々非難の声を絶たざる文士輩出するに至らば、復た豎子をして名を成さしむるに至るべし」と。  されば天若し彼に仮すに今少しの寿を以てせば、彼れの大成は蓋し疑なきものであつたであらう。  現に彼は又こんな事を云つてゐる。『日本国中が湧き返り、ひつくり返る位の疑獄事件被告人となつて愈々と云ふドタン場に隠し置いたる証拠を出して、ドンナもんだと無罪になつて見度い』又曰く『僕は其昔し野心家であつた。今は何か問題もがなと鵜の目、鷹の目の外に何も野心がない。併し死ぬ時には生命を放つて一つ遣つて見度いと思ふが、遣るのは死ぬと極つた前日位に仕度いものだ』  此の文中にも彼が人を馬鹿にした所はアリアリと見えてゐるが、それにしても何かやつて見たいと云ふ野心だけは矢張り明かに見えてゐる。  然るに惜しいかな、彼は『死ぬと極つた前日』には昼寝から起きて大欠伸を一つして、それから湯に行つて返つて、来て夕飯の茶漬をザブザブと無雑作に掻きこんで、明日は早いのだから早く寝ようと云つて、堅公と一緒にグズグズと寝て了つた。       九 ノーマルな眼  之からいよいよ彼の死状と死因とを語るべき順序であるが、其前にまだ一つ書もらした逸話がある。  或は彼は思ふ所があつてか眼科の専門医を尋ねて眼の診察を受けた。医者は仔細に彼れの眼を研究した後、「あなたの眼は全くノーマルな眼です」と云つた。「ヘエ、僕の眼がノーマル! ノーマル!と云へば尋常当り前と云ふ事だらうが、どうも僕の眼は人の眼とは物の見え方が違つてる様に思ふ」と彼は云つた、すると医者は「イヤ、そこです。ノーマルだから人とは物の見え方が違ふのです。ノーマルとは尋常当り前といふ意味ではなくて、正視正常と云ふ意味です。世人多数の眼は大抵アブノーマルです。異常です。近視とか、遠視とか、斜視とか、乱視とか、其他種々様々の欠点があつて、決して正視正当に物を見る事が出来ないのです然るにあなたの眼は全くノーマルです。少しもアブノーマルな点がない。あなたの眼は純然たる正視です。従つてあなたの眼は実に稀な眼です。だから世間普通の眼とは物の見え方が違ふのです」と説明した。  「成アるほど、こいつは面白い!」と彼は深く感嘆して更に斯う云つた。「ぢや僕の眼は物を正しく見る、世人多数の眼は正しく見る事が出来ない。正しく見る奴は極少数で、正しく見得ない奴が大多数なのだナ。従つて正しく見る奴が奇人だとか変人だとか、突飛だとか、危険だとか、云はれるのだナ。成アるほど、こいつは面白い。」  彼は其後、彼れの肉眼と心眼との作用の一致を確信し、ますます自己の「正視」に誇つてゐた。  イヤ、之は大失策をやつた。此の眼の一件はバーナード、シヨウの逸話であつた。ツイうつかり想ひちがへて山崎伯の事にして了つた。駟も舌に及ばず、一旦書いて了つた以上、如何とも仕方がない。之につけても文章はよくよく注意して最後まで読むべきものである。       十 死状と死因  扨いよいよ彼れの死状と死因の記事に入る。当日彼は(前記の通り)一子堅吉(六歳)を携へて早朝から千葉八幡が浜に遊びに行つた。先づ粗末な茶店に陣取り早速親子もろとも真つぱだかとなり、浪打際に駈けだして見たが、伯爵元来泳ぎの道は御存知ない、止むなくそこらでボチヤボチヤと蟹およぎをやつて見たり、親子で水のブツかけあひをやつて見たり、堅吉の大くなつたのが今朝彌であるか、今朝彌の小くなつたのが堅吉であるか、全く見わけが付かぬといふ有様で半日を夢中に過し、それから茶店に戻つて多分御持参の海苔巻か何かを空腹にウントねぢこみ、又もや両人駈けだして散々にフザケちらし、大堅吉と小今朝彌とが組んずほぐれつ相撲を取つたりして居たが、親爺はさすがに早く疲れて砂原の上に腹這になつて寝そべつた。  然し息子はまだ面白くて仕様がない。寝そべつた親爺の手を取つて引張つたり、足を取つて引きずつたりしてゐたが、何とされても死んだ様になつて動かない親爺を持て余し、今度は親爺を馬に見立てて其の脊中にフンまたがり。頻りに尻べたをハタいてゐたが、それでも親爺がウンともスンとも云はないので、コン畜生と罵りながらとうとう親爺の首ねつこにフンまたがると、首はグタリと前にのめつた。  側に見ゐてた人の詳細な報告に依ると、此時伯爵の姿勢は、両肱に上半身を支へ、両手の掌に顎をもたせ、眼をつぶつてウツラウツラとやつてゐる様子に見えたが堅公が首ねつこにフンまたがると同時に、両肱はズルリとへたばり首は砂の中にのめりこんだと云ふのである。  堅公はそれでも平気で、親爺の肩に腰かけたまま大きな声で唱歌の様なものを歌ひだし、止めどもなくハシヤいでゐたが、伯爵の顔が深く砂の中に埋もれてゆく様子がどうも少しおかしいので、側にゐた人々が近寄つて見ると、いよいよどうも様子がおかしい。若しやと云ふので声を掛けて見たが答がない。ゆすぶつて見ても醒めようとしない。堅公もヤツト少し心配しだして、オトウサン、オトウサンと耳元でしやきりだしたが、それでも親爺は黙つてゐる。  サア大変といふので大勢の者が寄つてたかつて検視に及ぶと、伯爵閣下は既に首尾よく逝去して居られた。堅公がワアワアと泣き立てる間に、大勢がヤツトの事で彼の屍体を茶店にかつぎこみ、早速医者を呼んで診断させたが、モウ全くコトギレになつてゐた。医者の言に依れば、疲労と日射との為に脳貧血を起したのであつた。  * * * * * *  嗚呼、我が山崎今朝彌君は斯くの如くにして逝いた。日本の社会は此の奇人の死に依つて多大なる損失を蒙つた。真に哀悼痛惜の極みである。  然しながら予は又翻つて考へる。天公が彼をして更に大成せしめるの寿を仮さなかつた事は勿論大なる遺憾であるが。右の如きは実に奇人にふさはしき死に方である。之を詩趣の上より見れば、真に美的の死に方である。  予は曽て『死の趣味』を論じて、彼の岩崎弥之助が癌に罹つた顎の骨を一分刻みに削り取りながらとうとう成しくづしに死んで了つた様な死に方は最醜な死に方であつて、彼の津田仙翁が、東京から鎌倉に帰る途中、汽車の中で居睡をして、其のまま横須賀まで乗り過し、そこで眼が覚めて見たればモウ死んでゐたと云ふ様な死に方は秀逸の死に方だと判定した事があるが、今山崎君の死の如きは、亦実に秀逸の死に方であつて、正に津田翁の死と好一対を為すものである。さすがは奇人山崎伯爵である。其死に於いても亦決して平凡でない。君以て冥すべしである。  以上記し終つた所に、予は一つの飛報に接した。山崎君は一旦医師よりコトギレの宣告を下されたが、それより約二時間の後に至り、ヒヨツコリ起きあがつて大欠伸を無し、ケロリとした顔で茶代一二円をはうりだし、居合はす人々の呆れて言葉も出し得ぬ間に、堅吉サア行かうと云つて、スタスタとそこを出だしたとの事。何ともハヤ、此様な早まりすぎた記事を作つて申訳がありません <[ ]内は仮名> <以上は、堺利彦氏が著作者である。貝塚渋六は堺利彦氏の筆名> <山崎今朝弥著、弁護士大安売に収録>

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