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ttp://www.excite.co.jp/News/bit/00091129788010.html「抱擁売ります」

マンションのエントランスに足を踏み入れてゾッとした。
下品な安物の香水の匂いを忘れきれていなかった愚かな自分にだ。
畜生。忌々しくてしょうがない。
「おつかれ」
忌々しいといえばこの男じゃないか。よくもこうノコノコと顔を出せたもんだ。
別れ際家にある包丁全部持ち出して散々脅してやったの忘れたのか。
果物ナイフやチーズナイフまで振り回していた自分が、今考えると滑稽でならない。
「おい、だいじょうぶか。自慢のスーツがヨレヨレじゃないか」
そんな顔してそんな声音で、絡めとろうたって無駄なんだよ。僕だって成長したんだ。
しかしいつもながらお前のタイミングの良さは本当に素晴らしいな。弱りきった最高潮の晩に現れやがって。
お前はタイミングの良さと運の良さと顔の良さだけで生きてるようなもんだもんな。僕の持ってないものばかりだ。
だから僕は馬車馬のように働くしかないんだよ。忍耐と努力と継続だ。お前に真似できるか。出来ないだろ。
「おい、さっきから何ブツブツ言ってんだ。気味悪ぃな」
「…気味悪いのはお前だよ。いったいここに何しにきた」
「ちょっと話があってさ」
「金か」
そう訊ねると目の前の男は口角を吊り上げてにやりと笑った。ああなんて下品な笑みだろう。吐き気がする。
胸が痛い。気分が悪い。身体が重い。耳鳴りだ。目が霞む。ベッドに沈むまではと堪えていた糸がぷつりと切れてしまったのか。
「またバイト首になったのか」
僕の声はあからさまに震えていたがもうどうでもよかった。取り繕うのも面倒だ。こんな男にも。自分にも。
「よくわかったな」
得意げに言うことではないことを得意げに答えて、男はそのまま演説でもするかのように腕を大きく横に広げた。
本格的におかしくなったのだろうかと、流石に僕は心配になる。
「何してるんだ、とうとう狂ったのか」
「ここでひとつの提案なんだが」
「なんだよ。金はやるからさっさと帰ってくれないか。自慢じゃないが僕は昨日だってろくに寝てやしないんだ」
「それは大変だな。何より肌の手入れに命をかけているお前が。まるで拷問じゃないか」
「そうだよ。だからあまり近寄らないでくれ」
「それは無理な相談だ」
「なんで」
「俺から買ってほしいもんがあるんだ」
そうきたか。僕は心の中で舌打ちした。実際に行動に移さなかったのは、そんな余力残っていなかったからだ。
「壺か、札か、印鑑か……」
「そんなものよりずっとお前を癒してくれるさ」
「ばかばかしい。お前どこまで僕をコケにしたら」
「おいおい泣くなよ」
「泣きたくもなるだろ!ボロボロになって稼いだ金をたった今搾り上げられようとしてるんだぞ!」
「そんな考え方はよくないな」
大袈裟に眉を下げて嘆きながら、男が近づいてきた。僕はそれを滲む視界でぼうっと見上げる。抵抗する気力もない。
「お前は昔から肝心なとこが固くていけねぇよ。もっと柔らかくなんなきゃな」
知るかよ。でかい手のひらに頭を撫でながら思った。こういう性分なんだよ。仕方ないだろ。
どうやったらお前が戻ってくるかだって、いくら考えてみても上手く思いつけなかった。だから毎日毎日仕事に逃避して。
気が付いたら正面から抱きすくめられていた。
場所を考えてくれよと思うのだが、僕にはやはり、押し返すほどの力が残っていないのだ。
疲れきった全身を強い力で締め付けられて、心地良さに眩暈がする。身体の力が、呆気ないほど自然に抜けるのがわかった。
目の前に迫る首筋から安っぽい香水がかおって、その匂いが大好きだったことを、僕はぼんやりと思い出していた。

「よく考えろよ。お前には必死で働いた金があるんだからさ、欲しいもんはそれで取り返せばいいんだよ。犠牲にしたもんはそれで補えばいいんだ」

よくよく考えたらなんて言い草だろう。結局、金のせびり方をていよく変えただけじゃないのか。
僕は成長していたので、そんなものはあいつのただの言いがかりだってことを、じゅうぶん理解していた。
だが、あの日は本当に疲れきっていたのだ。
我慢の糸はとっくに切れていたし、目の前にはあいつがいたし。しかもこの身を抱えられていた。
それに、その言葉は、僕にはあながち間違いではないような気がしていた。
悔しいかなあいつは、僕が逆立ちしても考え付かないようなことを軽やかに言ってのけ、行き詰った僕に希望を見せることがある。
そこに乗せられるというのも、まぁ、成長した僕としては、許容する余地はあるんじゃないかと、思ったりなんかしたのだった。

「なるほど。なら上乗せするから、このまま僕の部屋のベッドまで運んでいってくれないか。いい加減クタクタだ」

僕が首に手を回したままそうこたえると、男は、「お安い御用さ。サービスで特別奉仕もつけてやる」と、したり顔で囁いた。
僕は困ってしまうのだった。
拒否したいのはやまやまだが、こいつを言い負かす気力なんてこれっぽっちも残っちゃいない。
しかし拒否しなかったところで、それに付き合ってやる体力も、僕には残っちゃいないのだ。