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副人格×主人格

私の世界を「モノクローム」と呼ぶのだと教えてくれたのは、歳若い赤毛の青年だった。
古風な形のカメラを携え、写真を撮りながら旅をしているのだと言っていた。
赤ならば知っている。だが、彼の髪も、ホテルのベッドに広げられた夕焼けの写真も
私には白と黒の濃淡でしかなかった。
節くれ立った長い指が、印画紙の淡い灰色を指す。「君の髪はこれだね」
どんな色かと訊ねると、秋の麦畑を思い出すと返された。「故郷の秋を」
忘れられない色だと、いつか名を上げて帰るのだと言っていた。だから、君に声を
かけたのだろうか? 今となってはわからない。
彼には気の毒なことをした。事の後で胸が痛んだのは、あの時だけだ。
おそらく私は、彼に少しばかり好意を抱いていたのだと思う。
だが、君ほどではなかったのだ。

思い出したのは、目の前の男が君の髪を指で梳きながら、こう囁いたからだ。
「君の髪は、大陽の匂いがする」
そうだろうか? 私には確かめる術がない。だが、長いこと南の海で過ごした君のことだ。
きっと、その髪にまで潮風と大陽が染み込んでいるのだろう。
今は眠る男の隣で目を瞑り、君の髪に口づける夢をみる。そのとき、胸に広がるであろう
香りを想像しながら。いつか君が、髪を長く伸ばす日があるといいのだが。
こうして私は、またひとつ君を知る。
君の手は荒れて傷だらけだが、肌は日に焼けてなめらかだ。瞳は深い海の色らしい。
背中には、ふたつのほくろがあるのだと聞いた。君は知らないだろう。もっとも、私も
直接に見たわけではない。
君の腕に抱かれ、君をこの手で抱きしめる。短い夢のひとときを終わらせる前に。
ああ、この指で君の背中を辿ることができたなら!

眠る男の首に、ナイフの刃を滑らせる。
君は、このナイフを片時も手放さない。その理由は、私だけが知っている。
手のひらで押さえた口からは、喘ぎ越えひとつ漏れることがない。帆船で鍛えられた腕が
暴れる身体を易々と押さえ込む。右手は、休まずに仕事を続ける。
そして、世界に唯一の色が溢れ出す。
モノクロームの世界に、私がただひとつ見出せる色は、初めて目覚めたあの日に
君の両手を染めていたのと同じ赤だ。
命の色。鮮やかに世界を染め上げる色。
私を生み出したこの色を、いつまでも覚えておこう。君の代わりに。

彼がその男に目を留めたのは、警戒心からだった。
男は桟橋の手前に座り込み、自分の足を抱えるような格好で背を向けている。
なにやら小声でつぶやいているので、酔っ払いのようにも見えるが、どうにも様子がおかしい。
彼は慎重に歩を進めた。酒場で耳にした、ヨットを狙う空き巣の噂が思い出された。
「どうかしましたか?」
手の届かない距離で、そっと訊ねる。だが、男はちら、と顔を向けただけで、また元の
姿勢に戻ると、ひとり言のように答えた。「ああ、なんでもないんだ。気にしないでくれ」
「僕は、そこを通りたいんですけどね」
少し声を張ると、今度は男もこちらを振り返った。
「なんだって?」乾いた、低い声だった。「ああ、そうか。済まない」
男は、目をしばたたきながら周囲を見渡すと、そこでようやく自分が桟橋の入り口を
塞いでいることに気付いたのか、よろめきつつも立ち上がる。

「ガラスを踏んだんだ。多分な。さっきから、取ろうとしてるんだが」
「裸足で歩いていたんですか。こんな場所を?」
男が座っていた辺りのコンクリートには、濡れたような跡があった。よく見れば、男の手足にも
黒い汚れがついている。
「今朝は履いていた」男が、つま先立った足を見下ろしたまま言う。「船が見たかったんだ。
散歩のつもりで……靴か。どこに置いて来たんだったか」
「それは、血ですか?」
「なに?」いぶかしげに顔を上げた男の頬にも、黒い筋があった。おそらく、指で触ったのだろう。
「見ればわかるだろう」
「そうとも限りませんよ」彼は、ため息をついて桟橋を歩き出した。まったく、声などかけなければ
よかった、と思いながら。「とにかく、そのままでは帰れないでしょう。すぐそこに僕のヨットが
ありますから、寄っていきなさい。絆創膏くらいなら貼ってあげますよ」
「船を持っているのか? すごいな……ああ、助かるよ。ありがとう」

足を引きずりながら後を付いて来る男に、私は胸の内で答えた。
こちらこそ、と。