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立ち切れ線香

「お前が死んでしまったら、俺は嫌だなぁ」
なんとなく呟いた言葉に、お前は薄らと微笑んで俺の頭を一つ撫でる。
「もしも貴方より先に死んでしまったら、そのときは貴方にこの三味線を線香一本立ち消える間だけ届けてあげますよ」
よくわからないことを言われて眉根を寄せれば、お前の唇がそこに落ちてくる。
「そういうね、お噺があるんですよ」
「ふぅん、そうか」
よくわからなくてもそういう噺があるのだと言われれば、それで納得するしかない。もとより興味があるわけでなし、どういう筋の噺なのかは聞かずにおいた。
それよりもお前の膝が気持ち良くて、俺は目を閉じて意識を眠りの淵に追いやることにした。お前の手が俺の頭を撫でるのもまた気持ちいい。
「……私は、貴方がいなくなっても嫌ですから、どこにもいかないで下さいね」
お前の淋しそうな声に、どこにもいかないと答えたかったけど、俺の口はもう溢れんばかりの眠気に動きを封じられてしまった。
ただ、起きたときにお前の笑顔が正面にあればいいなと、ぼんやり思った。
目が覚めて、自分が泣いているのがわかった。
今更どうしてあんな夢をみてしまったのか、随分と昔のことなのにと不思議に思っていると、どこからか三味線の音が聞こえてきた。
ああ、そういえば。今日は彼の命日だった。
毎年、彼の命日になるとどこからともなく三味線の音が聞こえてくる。果たしてそれがただの幻聴なのか、それとも彼が本当にあちらから私の為に僅かの時間だけこちらに音を送ってくれているのかはわからない。
だけどもこうして、彼の三味線が私の耳に届くことだけは確かな事実だ。
だからそれが一体なんであれ、それでいいのだと思う。
彼の為に私は線香など立ててはやっていないから、やはりただの幻聴なのかもしれない。それでも彼が私に音を聞かせてくれているのだと思いたいから。
これは彼があちらから私に聞かせてくれている音なのだと、私は思う。
そうして三味線の音が途切れ、そのまま立ち消えてしまうまで、私は彼との思い出に涙を流す。
あの日、どこにもいかないで下さいとお願いした私を残して、彼はあちらへといってしまった。
私が死んだら嫌だなどと、彼の方が先にいってしまうことがわかりきっていたというのに、そう言ってくれた。
私だって嫌だ、彼に先に旅立たれるなんて絶対に嫌だった。
それでも彼はいってしまった。好きだと言った私の膝枕の上で、眠るようにいってしまった。
彼の頭を撫でていた手で、必死に彼の身体を揺さぶった。でも彼は二度と目を覚ましはしなかった。
私は泣いた。泣いて泣いて、涙が枯れ果てるかと思うほど泣いた。
けれども涙は枯れなかった。
彼の為に線香を立ててもすぐに涙で湿気てしまうから、線香は未だに立てられない。
それでも彼の三味線が私の耳に届くことが嬉しかった。
覚えが悪くてたどたどしい旋律しか奏でられなかったけれど、その音色はどこか優しくて、彼の不器用な優しさをそのまま弾き表したようなその三味線の音が好きだった。
そうして、彼の音が立ち消える瞬間、彼の声が聞こえた気がした。
今までなかった現象に、私は驚いて辺りを見渡す。けれども誰の姿も見えはしない。
これもあちらからの彼の声なのか、それともただの幻聴か。
ああ、もう幻聴でもなんでもいい。
あの言葉だけで私はこんなにも彼を側に感じることができる。
涙は止まり、彼の好きだと言ってくれた笑顔をこの顔に宿すことができる。

『どこにもいかない。ずっと側にいる』

ただの幻聴だとしても構わない。ただ、彼の言葉が嬉しかった。


その日私はずっと押し入れに仕舞っていた三味線を取り出し、彼の好きだった曲を弾きつづけた。
彼が私の側で聞いてくれているのを感じながら。