触手×生贄の青年

左前の白装束を着て、薄闇へと変わり行く森の中に一人座る。
村の神木を削って作った間に合わせの祭壇は、まだ木屑が粉を吹いている。

一昨年前に、崖から落ちた。
幸い命は助かったものの、左足をひどく痛めて、未だに歩くことは出来ない。
以後は棒を片手でなくては歩けない、農作業は出来ない体になってしまった。
それでも村長の息子だからと、村人たちは何も言わずに、供物のように作物を分け与えてくれた。
しかし、私は知っている、村人達の影での囁きを。
私への嘲りを私は知っている。
将来村を背負う者として生きてきた私に、それは身を刺さされるような現実だった。
どれだけ歩こうとしても、他に貢献できることがないか探そうとしても、全ては徒労に終わった。
村にとって私は、役立たずだった。
それでも私を立てようとする父の傲慢な権力がよりもなお、私を苛んでいた。
だから村の大規模な不作が起こり、森の神を鎮める人身御供が必要になったとき、
私はその役目は自分だけだと頑なに志願した。
必死の形相で引き留める父と、ほっとした、或いは冷やかな村人たちの視線の中、
私はこの白装束に身を包んだ。

橙から青紫に変わっていく空を、薄く棚引く雲を、高くそびえる樹木たちの間から眺めていた。
長くなる影と共に、得体のしれない何かが近づいてくる気がする。
私はまっすぐに前を見た。

ふいに何かに体を包まれた。
妙に滑らかな、しかしざらついた、ぬめりを帯びた、微かにひんやりとした、
今までに感じたことのない、奇妙な感触。
既に闇で目は効かない。
体を包む力は強まり、すぐに締め付けるほど痛くなった。
声も出ないほどの恐怖に、背がひきつる。

祭壇の床に手を這わす。
足は動かず、これまで足を支えるために肌身離さず持ってきた棒も村に置いてきた。
最早私が移動するには手しかないのだ。
人身御供であることも忘れ、死の本能から逃げようとして、手をなんとか突っかかりのあるものへと伸ばそうとする。
けれども、後方に私の身を引こうとするこの凄まじい力の前では、なす術など何もなかった。
床に爪を立てた。立つのはギィィと木を削る音ばかりだった。
長くのびた爪痕を祭壇に残しながら、私は瞬く間に地面へと引きずり下ろされた。

なおも私は森の奥へと引かれていく。
白装束は乱れ、頭は何度も地面とガツガツぶつかった。
激しく揺れる視界の中、映るものは星の静かな瞬きだけだった。
誰も、何も、見ている者はいない。
私は死ぬのか、村は、村は…。
そこで私の意識は途切れた。

初めに気がついたのは、顔に滴る水だった。
一滴、二滴と頬を叩くその水に呼び戻されるようにして、意識を取り戻した。
ふわふわとした意識の中で、ぼんやりと目を開く。
ここは、どこだろう。

辺りはかなり濃い霧が立ちこめているようだった。
それでもこの明るさなら、もう太陽は昇っていることは分かった。
手をあちこちにまさぐるようにして辺りを探った。
森の中のようだったが、覚えのない地形だった。
人が踏み入れぬほどの奥深くなのだろうか。
あれだけ頭を打ち、身を引きずってきたにも関わらず、不思議と痛みは体のどこにもなかった。
私は何故生きているのだろうか。
そして、私は気がついた。
すぐ横に、森では見たこともない、奇妙な色の物体がある。

そちらに視線を合わせた瞬間、息を飲んだ。
村の神木と同じ程の大きさだろうか。
それは、人間の肉の色をした、見たこともない、奇っ怪な生き物だった。

何か、繭のようなものがダマのようになっていて、そこから何本も足が生えている。
足と言っても、骨など入っていないかのように、曲がりくねっている。
遠目に見ればまるで死体を重ね合わせたかのようだが、
うねうねと動くのを見るに、恐らく意思を持った生き物だ。
今まで見たことのある生物とは全く違うそれは、
普通ならば何か言いようもない嫌悪感を覚える類の、醜悪な物体だった。

これが私をここまで連れてきたのだと、私はすぐに理解した。
あの足に身を包まれ、引きずられてきたのだ。

私はそれに引き寄せられるようにして、這って近づいた。
手で触れたら、それはぴくりと動いた。
私が触ったことが分かったようだった。
この感触、やはり私を包んだあの感触と同じだった。

「お前が、森の神…?」

その生き物はゆるりと蠢いた。
私が意識を取り戻したこともとっくに気が付いていたようだった。
まるで異形だったそれが神だとしても、全く不思議はなかった。
けれども力ないその動きは、『違う』と言っているように私は感じた。

「違う、と? では、お前が村を苦しめてきたのか?」

生き物は同じように蠢いた。
やはり、『ちがう』と感じられた。
私は奇妙な生物と問答しているにも関わらず、
まるで魔にでも魅せられたかのように、不思議と少しずつ安堵を感じてきている自分に気が付いていた。

「お前は、なんなのだ?」

それは蠢いた。
何か淋しそうな動きに、私には思えた。

「そうか。お前は神でもなく、村とも関係ないのだな。
ならばどうして、私をここに連れてきたのだ?
神でなく村とも関係なければ、村の人身御供などいるまい?」

そう言った時、それは私の体を包んだ。
そしてそっと、自分の方へ引き寄せた。
昨夜の強襲とは対照的な、壊れ物を扱うような動きだった。
近くまで引き寄せられた時、私は気がついた。
その生き物には、いくつもの矢が突き立っていた。
全てが相当古いもので、ほとんどが損傷して、矢面が外れていたり、矢じりを残すのみになっていた。
傷は全てこの生き物の命を奪うには至らなかったようで、既に癒えていたが
このとき私は唐突にそれの気持ちが分かったような気がした。

「そうか…」

この醜悪な生き物は、かつて人に追われ、そうしてここに逃れてきたのだ。
そしてきっともうずっと長い間、ここに隠れるように住んでいた。
そして孤独のまま、ついに人を求めるようになった。
そこに帰らぬ覚悟をした私が一人、森へやってきた、というわけだ。

奇妙なことかもしれないが、私は既に、それに対して人間のような感情を抱いていた。
そして同時に、あれだけ背に圧し掛かっていた、村への責任や愛着なども、
消え失せてしまっている自分に気が付いていた。
私とこれは似ている。
他から疎まれ、外界から隔たれた場所へと出ていかざるを得なかった私とこれは似ている。
自分勝手な解釈かもしれなかったが、私にはどうしてもそう思えてならなかった。
私は自分を包んでいるそれの足を、そっと手で抱きしめた。

「安心しろ。私はお前と共に居ることに決めた。
 どうせもう村に私の居場所はない」

私が何かを含むように笑うと、それが軽く顔を撫でた。
私はありがとう、と言って、穏やかに笑った。
閉塞感の中で死を覚悟していた昨夜までとは全く違う心持ちだった。
役立たずだった男が、奇妙な生き物と二人きり、森の奥で穏やかに残りの人生を過ごす。
悪くはない。私は今一度微笑んだ。
そういえばしばらく村の中ではこんなに穏やかに笑ったことなどなかったな、と思った。


タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2010年03月01日 22:36