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四十にして惑わ“す”

「はぁ……私もついにオジサンの仲間入りか」
苦笑しながら鏡を覗き込む彼の顔は、多少シワが刻まれたものの多分に稚気を漂わせていた。
いくらアジア系の人々が年齢より若く見えるといっても、彼のはありえなさすぎだ。
もっとも、本人にそう言うと「そんなことはないですよ」と返されるだけなのだが。
「40でおじさんだなどと、あなたは生涯を60年程度で終わらせる気ですか」
「いや、違いますよ。久しぶりに日本に帰ったら、近くの子供にオジサンって呼ばれたんです」
苦笑して再び鏡に向かい、ひげでも伸ばすかな、と呟く。
それだけはやめてくれ。せっかくの愛らしいベビーフェイスが台無しだ。
「ハハ、40になったはずなのに、こんな言葉で惑うとはな。私もまだまだだ」
その呟きの意味が分からず首をかしげた私に気付いたのだろう。彼は柔らかく微笑んで説明してくれた。
「40歳のことを不惑って言うんです。孔子の言葉にちなんでいて……」
私は東洋に足を伸ばしたことはない。それどころか、この屋敷から出たこともほとんどない。
私にとっての東洋は、彼が生まれ育った場所というだけで、それ以上の何物でもないのだ。
この屋敷が私の世界の全てで、彼は私のいるここを選んでくれた。それだけだ。
「……それなのにまだささいな言葉で惑わされるなんて。ああ、修行が足りない」
はぁ、と少し落ち込んだ表情でため息をつく。
そういったささいな表情の変化がまるで子供のようで、私の目を太陽よりも鮮やかに魅了する。
私の倍以上も生きているこの家庭教師は、私よりも多くのことを知っている大人であるにも関わらず
私よりもよほど幼く見え、さらにしばしば子供のように愛らしい仕草や言動を見せるのだ。
そのアンバランスさがたまらなく私の心をかき乱すということを、きっと彼は知らない。
彼の小柄な体を組み敷いて、私の中で暴れ狂うこの劣情の全てを注ぎ込んでやりたい。
快楽に震えてあえぐその顔はきっと、この世の何よりも私の魂を幸福と満足で満たし震わせるのだろう。
湧き上がる支配欲は、しかし私の全てを受け止めてくれるその広い心のために満たされることはない。
それでも、そのささやかな言葉に、さりげない仕草に、私は夢想するのだ。
彼が私に支配される悦びにその身を振るわせるという、ありえないその光景を。
私が彼と同じ年になった時、私がそのような妄想に取り付かれないという保障も、自信もない。
私が敵わない彼ですら、惑っていると感じているのだ。きっと私にも無理だ。
もっとも、その最大の原因は彼なのだが。
オードリー・ヘップバーンの言葉は真実だった。恐らく彼は、これから先も私を魅了しつづけるだろう。
若さに萌える輝きでも、宝石のように磨かれた美しさでもない。
彼であるからこその、魅力。私を惑わせ、それでいて堕とすことはしない、残酷なまでに無邪気な誘惑。
「では、私と一緒に修行しますか? 私も、あなたくらいの年には惑うようなことはないようになりたい」
「そうですね。せめて私の生徒には、立派な男になってもらいたいものです」
ふわりと笑みを浮かべるその姿は、何よりも強く私の心をかき乱した。