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恋すてふ わが名はまだき たちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

「忍ぶれど」
部屋の隅から唐突に声がしたので、
俺は驚きこそしなかったものの不思議に思って振り返った。
「忍ぶれど、色にいでにけりわが恋は、ものや思ふと人の問ふまで」
「お前、そんなものどこから見つけた?」
「このダンボールの中」
引越し準備のさなか、手伝いを頼んだ親友は、どこから引きずり出したのか
埃をかぶった段ボール箱を開いていた。
中には中学生時代の教科書やらノートやらが詰まっていたようである。
つまりはもう3年以上も前のものだ。
奴はその中の懐かしい国語の教科書を取り出して読んでいた。
確かに古い本やらノートはダンボールに入れてしまっていたような記憶があった。
「そりゃいいけど、片付けの最中に古い本を見つけて読み始めることくらい
 最悪の行為はないぞ。それはいらないから、元に戻しとけ」
「待って、もうちょっと」
そら来た。こいつは軽度の活字中毒で、自分が興味を引く文章があると
所構わずそれを読破してしまわないと気が済まないのだ。
読書中に上の空になるのは日常茶飯事、
今奴が手にしている教科書を使っていた中学生の頃も
教科書の中に面白い物語を見つけたら、そこが授業の範囲と全く関係がなくても
真剣に読み込んでいた。傍目には真面目に勉強しているように見えるから性質が悪い。
「懐かしいよなぁ。確かこの中から五つ選んで暗唱とかさせられたっけ」
「あー、そう言えばそうだったな」
奴がこちらに向き直って開いたページを差し向けてくるので、
俺も止めるのを諦めてそれを覗き込んだ。
少し黄ばんだ紙の上にはいくつもの短歌が並んでいる。
俺が暗唱に選んだ五つの上には、緑色のペンで不細工な丸が描かれていた。
俺はこいつとは違って国語は苦手だったので、覚えるのにずいぶん苦労した記憶がある。
もちろん今ではきれいさっぱり忘れてしまっていて、
緑色の丸を見ても、本当に自分がその短歌を暗唱したのかどうかもあやふやな位だ。
しかし、今しがた親友が口に出して詠んだ歌にはおぼろげながらも記憶があった。
確か結構重要なテーマだとかで、授業でもじっくり扱われたのだ。
その歌にも緑色の丸が付いているのを見て
書き取りとかもやったなぁと思い出していると、奴がぽつりと口を開いた。
「こっちは暗唱に選ばなかったんだな」
「んー?だってこれ、似てるからなぁ。似たようなの二つも覚えられないって」
血色のいい指先が示した先にはもうひとつの恋の歌があった。
そうだ、確か和歌の紅白歌合戦みたいなものがあって、その場で火花を散らして戦ったのが
この二つの歌だと当時の教師が言っていた。だんだん思い出してきた。
「俺はこっちの方が好きだけどな。なんか奥ゆかしい感じがして」
「奥ゆかしいのか、これ?」
実のところ俺はこの短歌の意味などさっぱり理解していない。
「忍ぶれど」の方は書かれ方が現代語にも近いのでなんとなくは分かるが、
「恋すてふ」なんて言われても全くピンと来ないのだ。
「いや、うーん、意味は似たような感じなんだけど。ま、俺が個人的に好みだってだけ」
「ふうん」
もともと短歌になんて全く興味のない俺は、本を開いたままの奴の手を
左右から押さえるようにして閉じさせた。大きな手もそれに逆らわない。
「ほら、さっさと続きやるぞ。半分終わるまでは晩飯食べさせないって母ちゃんが言ってたからな」
「お前、おばさんの手料理食えるのもあと何日かのうちなんだから、ちゃんと味わっとけよ」
「わかってるって」
俺はこの春から遠方の大学に進む。こいつは、地元に残る。
「今日トンカツらしいから、お前も食ってけよ。手伝いの礼に」
「ああ、うん」
西の窓からの夕陽がまぶしい。生返事をして、本を戻すために再び俺へ背を向けた時の一瞬の横顔が
逆光にふちどられたせいか、なんだか泣いているようにも見えて驚いた。
「おばさん、料理上手いからなぁ!春から、俺が代わりに毎晩晩飯食べに来ようかな?」
しかし、直後に聞こえてきた声は、いつもに増してほがらかだったので
すぐに気のせいだと思い直した。強すぎるオレンジ色の光のせいだろう。
「盆に帰ってきたら俺の席がないなんてのは勘弁してくれよ!」
教科書を元に戻して、ダンボールの蓋を閉めた背中に
そう笑いかけた。