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何も伝えられないまま

卒業式は粛々と進んでいく。
式典の時の吹奏楽部の定位置である講堂の2階席に座りながら、俺は
居並ぶ卒業生の後頭部の中から、先輩を探すという無謀な試みをして
いた。
時間切れを告げる「卒業生退場」という司会の言葉と共に、部員達の
前に指揮者が立つ。
俺は学生向けの安物のトランペットを持上げた。ペットには、不釣合いなバック
のマウスピース。

「木田、木田。コレ見ろよ!」
「新しいマウスピースですか?」
「おう。デニス・ウィックだ。オレ好みなんだよ、コレ」
先輩は愛器を構えるとCから半音で滑らかに駆け上がって見せた。
トランペットの開放感のある高音がいつもよりもクリアによく伸びる。
「な!」
瞳をキラキラさせながら言う。
「いいですね」
「だろ?だろ?」
俺の言葉に満足そうに頷く。こういうところは小学生みたいなんだよな、
先輩は。
「でだ、木田、お前、こっち、いる?」
「今まで使ってたバック7C?いいんですか?」
「いいよ。もうこっちは使わないし、捨てるよりは役立つ人間が使う方が
いいし」
「ありがとうございます!」
俺は銀色に光る金属の塊を受け取った。

指揮者の手が上がる。
退場の曲はエルガーの威風堂々。


「お前が、もっと自分に合うマウスピースを見つけたら、また後輩にやって
くれよな」
先輩はそう言って笑った。


先輩、俺は多分、これ以上のマウスピースなんて見つけられ無いと思います。


素直な気持ちは何も伝えられないまま、それでも旅立つ先輩の心に何かが
届いてくれれば良いと願いながら、指揮者のタクトと周りの呼吸に合わせて
俺は最初のフレーズを紡ぎ出した。