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追われる者×追う者

この森のことは何でも知っている。
光の差さないまっくらなこの森はいつも幾つもの気配に満ちて、誰かの息遣いを隠す。
この森のことは何でも知っている。
耳を澄ましても何も聞こえないけれど、誰かのその視線が僕を捜しているのを感じる。
心地良い微睡みの中でも、細く目を開いた真夜中にも、いつでも。

その存在に気付いたのはいつからだっただろう?
今日じゃなく今じゃなく、きっとあの鏡を覗いたときから彼はいた。
さかさまに映った鏡のぼく。
ひとり取り残されて、今ではこの森で僕を捜しているんだろう。
彼は分かっていないのだ。
誰よりも彼を捜しているのは僕なのに、
彼がそうやって捜すから僕はこうして追われてあげることしかできない。
誰よりも必要としているから。誰よりも彼を欲しているから。
この森は意地悪だ。
欲する者に与えず、追う者に捕らえさせない。
それは光の中で見えないものが闇の中に浮かぶように理不尽で、それゆえの道理。

いちど歌を歌ってみた。僕のその声に彼が気付いてくれればいいと思って。
駄目だった。彼と僕は同じ声をしていたから。
いちどその場にとどまってみた。彼が僕を捕まえてくれないかと思って。
駄目だった。この森は動きつづける。
僕がひとつところにとどまって彼を待つのを許してはくれない。
いちど走る速度を落としてみた。僕に彼が追いついてくれないかと思って。
駄目だった。この森では遅いは早い。彼に近付きたいと望むぶんだけ、僕は離れた。

彼はいまも僕を捜している。そうすればするほどに僕と彼の距離が離れていくことも知らずに。
僕は今も彼を欲していて、だから全力で彼から離れる。
蔦の絡まる木々の合間を抜けて、まっくらな森の奥へ。奥へ。
そうしなければ僕と彼はもっと離れてしまうから。離れたくないから、走る。

でも思う。僕が彼を求めるかぎり、この森は永遠に僕と彼を引き合わせないんじゃないかと。
僕が彼を拒絶して軽蔑して、一緒になんかいたくないと本気で思わなければ、
この森はきっと僕と彼を巡り合わせてくれないんじゃないかと。
この森は意地悪だ。それはきっと彼も知っている。

「……嫌いだ、大嫌い」
むりやり言葉を絞り出す。
どうしてか分からないけれど、あたたかい滴がぽたりと落ちた。
「ほんとに、……嫌い、だから……っ」

だから、いつか僕に彼を。

涙を含んだ緑の苔を踏みしめれば小さく音が鳴る。
ほんの近くで誰かが同じように涙を落としている気がした。