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大正浪漫

男は几帳面な所作で便箋を折りたたむと、通りに目を遣った。
晩夏とは言え、日差しは真夏と然程変わりはないようだ。
人力車の間を縫うようにして
思い思いの装いをした人々が行き交い、
胡散臭さと活気が雑多に混じり合った、
一種独特な雰囲気を醸し出している。
「先生、そろそろ御昼になさいませんか。」
引戸を開け、書生が遠慮がちに呼びかける。
先生、と呼ばれた中年の男は申し訳なさそうな顔をして、
眼鏡の蔓を指で押さえた。
「済まないが後にして呉れないか。こうも暑いと食欲が湧かなくてね。」
「なら、水菓子は如何です。西瓜が冷えて居ますよ。」
「それは好い。少し頂こうか。」
二人並んで西瓜を齧る。うまい具合に冷えており、咽に心地よい。
「先程から何を御覧になってたんです?」
「益田から手紙が来た。細君が君に宜しくとの事だ。」
「僕に?…ああ、盆の付届けの事でしょうか。気配りの細やかな方ですね。」
書生が洋装の華やかな婦人を回想する傍らで、
男はぼんやりと空を眺めて居る。
「…戦になるかね、やはり。」
短く整えられた毛先を弄びながら、男はぽつりと呟いた。


夏の間に一層薄くなった胸が静かに上下する様を捉えて
書生は微かに眉を寄せた。
着物のあわせから覗く項は肺病患者のように白い。

先生はあの益田とかいう軍人を案じるあまり、
御自身の事が疎かになっておられるのだ。
一度だけ、益田に会った事がある。
一昨年の春、伊豆へ呼ばれた先生を送届けた時の話だ。
背が高く、よく通る声をした、如何にも軍人然とした印象の男だ。
元華族の家柄だという益田と、
先生がどのようにして知り合ったのかは知る由も無い。
あの晩先生は積もる話もあるからと仰ったので、一人汽車で帰って来たのだ。
先生が東京の自宅へ戻られたのは、それから二日も後の夕暮れ時だった。
酷く覚束無い足取りで、無事に帰って来られたのが不思議な程だった。
医者を呼ぼうとしたが本人は頑なに不要と言張り、
その晩高熱を出して寝込んでしまった。
伊豆で、先生の身に一体何が起こったのだ。
あの男の事を、何故ああも気に掛ける?

其処まで考えた書生は俄に落ち着きを無くし、取繕うように口を開いた。
「暮れには、何を送ったら好いでしょうね。」
「…ああ…随分と気の早い話だ。」
男は始終上の空であった。
今年最後の蝉が、狂ったように鳴いて居る。
駆け抜ける速さで、夏が終わろうとしていた。