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定年退職


「長い間お疲れ様でした」
「ありがとう」
少し奮発したシャンパンのグラスを互いに軽く当てると、孝志さんは気恥ずかしそうに微笑んだ。
テーブルの上にはクリスマス並のごちそうが並び、冷蔵庫にはケーキも入っている。男二人の食卓には似合わない花は、孝志さんが今日会社でもらってきたものだ。
「祝ってもらうのはありがたいが何だか変な感じだな。定年退職なんて別にめでたいものでもないのに」
「何言ってるんですか、めでたいですよ。会社を無事に勤め上げて、これから孝志さんの第二の人生が始まるんですから」
「第二の人生って言うと聞こえがいいが、単に老後の生活が始まるだけなんだがな。……でもまあ、何であれ君に祝ってもらえるのは嬉しいよ」
最後に早口で付け加えると、孝志さんはうつむいて頬を染めた。定年の年になっても、そういう可愛いところは昔から全然変わらない。
「そうそう、お祝いのプレゼントというにはちょっと何ですけど、孝志さんに渡す物があるんです」
「ほう、何だい?」
そうして俺が取り出した一枚の紙を見て、孝志さんは呆然と口を開けて固まってしまった。
「……養子縁組届って、君、これ……」
養子の欄に俺の名前を書いたその用紙は既に証人の欄に二人の共通の友人のサインももらってあり、あとは孝志さんのサインと印鑑があれば提出できる状態になっている。
「養子になる俺の方から渡すのも妙な話なんですが」
「……驚いた。三十年も一緒にいて、君、一度もそんなこと言ったことがなかったから」
「だって俺は個人事業だから別に戸籍がどうなろうが関係ないけど、孝志さんは保険や税金の都合で会社に知られるかもしれないでしょう? 十歳しか離れてない息子がいるって知られたら、噂になって孝志さん会社に居づらくなると思ってずっと我慢してたんです。でも退職したんだから、もう大丈夫ですよね?」
問いかけながら、ぐいっと顔を近づけて孝志さんが弱いと知っている甘えた上目遣いで孝志さんの顔を見る。しかしいつもならそろそろ視線が泳ぎ出すはずなのに、孝志さんは真顔を崩さないままだ。
「……すいません、いきなり言われても困りますよね。孝志さんがどうしても嫌ならあきらめますけど、でも、一度考えてみてくれませんか」
一生の問題なのに、キスをねだるのと同じように色よい返事をねだろうとするのはさすがに俺が甘すぎただろう。孝志さんも喜んでくれるだろうと勝手に思い込んでいたので、さすがにちょっと落ち込んだが、焦っても仕方ないので気持ちを切り替えることにする。
「とりあえず食事にしましょう。これはしまっておきますね」
そういって孝志さんの手の中にある養子縁組届を取ろうとすると、孝志さんがその手にぐっと力を込めた。
「孝志さん?」
養子縁組届けを握ったまま離そうとしない孝志さんに思わず怪訝な声をあげると、孝志さんの顔がみるみる赤く染まっていった。
「……ペンを取ってくれ」
「! はい!」
大慌てでペンを取りに立った俺の後ろでは、孝志さんが握りしめてしまった用紙のしわを伸ばす音が聞こえていた。