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どこか狂ってる人とその彼をうまく扱える人

扉の開く音がした。目をやるとドアのところに長身の男が立っている。
相変わらずのスーツ姿、手には黒い杖。
彼を一瞥して、またすぐ空を眺める姿勢に戻る。今日は雲が多い。
「おはよう。気分はどうだい」
背後から声がする。
「食事に手をつけていないんだって?食べないともたないよ。それに、せっかく君の為に
 家政婦のマリアが腕をふるっているのだから、食べてくれないと彼女が悲しむ。
 あとでまた運ばせるから、どうか食べてやってくれ。味なら僕が保証しよう。マリアの料理は絶品だ」
マリアという人のことなど知らない。
こつこつと杖をつく音がして、声がすぐ傍まで近付いてくる。
続けてわざとらしい溜め息が聞こえてきた。
「せっかくあの牢獄から助け出してやったというのに。まったく助け甲斐の無い奴だな、君は」
「ここも牢獄だ」
窓に嵌められた鉄格子に向かって呟くと、後ろの男はなぜか嬉しそうに笑う。
「そうかい?あんな湿って暗い牢屋みたいな部屋と一緒にされては悲しいな。空調もきいていて清潔で、
 何より色調が明るい。あそこと比べたらこの部屋は天国だろう?天国に現れる僕はさしずめ天使か」
どんな顔をしてそんな間の抜けたことを言うのか。
そちらに顔を向けると、すかさず目線を捉えられた。
「ようやくこっちを向いてくれたね。人と会話するときは、目を見て話すものだよ」
かけられる言葉には何も返さず、黙ったまま男の頭から爪先まで視線を走らせた。
組織の幹部の一人。七人のうちで一番若く、一番の新参。しかし序列は既に四位だと聞いた。
今もこの部屋の前には部下が控えているのだろう。
髪を後ろへ撫で付けて、スーツもネクタイもおそらく高級品。微かに香水の匂いがする。
手に持つ杖にも、細かい細工が施してあった。
「こうして君に会いに来たのは他でもない。君に仕事を頼もうと思ってね」
「やらない」
言った瞬間に殴られる覚悟をしていたが、男は平然と肩を竦めた。
「そんなつれないことを言わないでくれ。君の腕を見込んでいるんだ。君にしか頼めない」
そして、聞いてもいない麻薬組織についてぺらぺらと喋りだす。
無視してまた身体を窓の方に向けた。空を眺める。
鉄格子の隙間から見える空は、いつの間にか暗い色の雲に覆われていた。一雨来るかもしれない。
嫌な気分になった。
「雨が降りそうだね」
タイミングよく言われて、思わず振り返ってしまった。また視線が合う。
男は少しだけ首を傾げて微笑んだ。
「君は雨が嫌いかい?」
「……嫌いだ」
「そうか。僕は好きだよ」
その返答に無意識に顔を顰めていたらしい。男が苦笑を漏らした。
「雨が好きな人間のことも嫌いかな」
その問いに少し考えてから「どうでもいい」と返す。その後は特に言うこともなかったので黙った。
わざとらしい笑い声が部屋に響く。
「もっとにこやかな方が会話というものは楽しいんだけどな。よく食べてよく笑うのが健康の秘訣だ。
 ああそうだ。食事が駄目ならデザートを運ばせようか。マリアの作るシフォンケーキはとても美味いよ」
何個でも食べられるのだと得々と語る男から視線を外し、再び空へと戻そうとしたところで、
視界の隅で黒い杖がリズミカルに床を小突いているのに気がついた。小さく音をたてている。
その音につられてなんとなく男の右脚に目を落とす。
彼の持つ杖が装飾品ではないことは、初めて歩く姿を見たときに気づいていた。
そんな脚になっても幹部で居続けられるのは、または居続けようと思うのは、なぜだろう。
こちらの視線をどう解釈したのか、男が黒い杖をくるりと回して見せた。
「これかい?なかなか凝った細工だろう。東洋のドラゴンをあしらってある。特注品だよ」
自慢げな口調になぜか急に苛立ちを覚える。
どうしてそんな風に振舞えるのか。脚に引き摺りながらも平然と、嘆きもせず笑っている。
「さて。このまま君と他愛の無い話を続けるのも十分に楽しくて魅力的なのだが、僕も忙しくてね」
なぜそんなに楽しそうなのだ。
理解ができない。
一旦そう思うと、まるで雨のように心の内に苛立ちが溜まっていく。
「本題に戻ろう。仕事の話だ。さっき説明したとおり…」
「やらないと言ってる!」
気付けば、苛立ちをぶつけるように男の話を遮っていた。
久しぶりに大きな声を出した所為で喉の奥が引きつり、軽く咳き込んでしまう。
咳き込みながら、なぜ自分は今怒鳴ってしまったのかと考えたがよくわからない。
顔を上げる。
目の前の男の笑みが、より一層深くなっていた。瞬間、背筋が寒くなる。
そして気づく。いつの間にか自分がこの男と会話をするテーブルについてしまっていたことに。
男は可笑しそうにくすくすと笑う。
「何だって?もう仕事をしたくないだって?」
「しない。もうやらない」
強く首を振る。男は杖をつき腰を少し屈め、こちらを覗き込んできた。
「なぜ辞める必要が?雨を嫌いなことは信じよう。だが、君は仕事のことは好きじゃないか」
「嫌いだ」
「それは嘘だな。君ほど仕事が好きな男を僕は知らないよ」
断定して、男はようやく傍にあった椅子に腰掛けた。
目線の高さが同じになる。そのことに、どうしようもなく焦燥する。
「仕事が嫌なら、君はあの屋敷から早々に逃げ出していた筈だ。それをしなかったのはなぜか?
 君は『嫌な仕事はやりたくなかったが、仕事はしたかった』。つまり君は仕事自体が嫌いなわけではない」
「違う」
「仕事を渇望している」
「違う。違う」
「君は逃げ出さずにあの場所で耐えていた。耐えながらずっと待っていたんだ。
 牢獄から自分を助け出してくれる誰かを、君はずっと求めていた」
言いながら、男は、己の太腿を軽く叩いて見せた。
「だから、あのとき僕を殺さなかったんだろう?」
にこやかに吐き出された言葉に身体が強ばった。
「助け出すのが遅くなって悪かった。これでも頑張ったんだけど、如何せん、序列というやつは厄介でね」
「……あなたは、一体、」
「うん、ようやく僕に興味を示してくれたか。良かった。いつまで呆けているのかと、実は心配していたんだ」
この男が何を言っているのか理解できない。理解したくない。
こんなドロドロしたものよりも、空が見たいと思った。
それなのに両の目は彼の顔をじっと見つめ、混濁した記憶と照らし合わせ始めている。
「さあ、仕事の話を続けよう。君に相応しい、素晴らしい初仕事だと思うよ。君にしか出来ない。
 安心するといい。僕はあのクソジジイどもが君にしたような仕打ちはしない」
耳に彼の言葉が入ってきて思考を侵食する。
右手の指が今ここには存在しない何かを求めてちりちりと疼く。
背後で、雨の降り出す音が聞こえてきた。