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おもらし

あぁ、こいつのこんな情けない顔を見るのは何年ぶりだろうか。
茫然自失、という四文字熟語でしか言い表せない様子の山田を、トイレの
個室に押し込んだ。洋式便器に座っても、山田はまだぼんやりとしている。
「山田。山田? 大丈夫か? …具合は悪くないか?」
気遣いながら声をかけると、山田はゆっくりと俺を見た。その目はいつもの
気の強さは面影もなく、不安に左右に小刻みに揺れている。
「大丈夫? 冷たいなら、脱いだら?」
俺がそう言うと、山田は俺を見たのと同じように、ゆっくりと自分の下半身を
見た。ズボンは裾から雫がたれるほど濡れ、高価な革靴は大雨にあたった
ように、グチュグチュと音をたてている。
「…自分で自分が信じられない…」
消え入りそうな弱弱しい声でそう言いながら、山田は頭を抱えた。
「山田、財布貸せって。ジャージか何か買ってきてやるから。
 な? 誰にも言わないし、バカにしたりなんてしないから」
泣き出す前に、俺はあわてて山田に声をかけた。山田はふるふると首をふり、
「このまま…」と言いかけた。「放っておいてくれ」と言い出すかと予測したが、
すぐに「このまま俺がいなくなると困る」と思い直したのだろう。俺の目を見ない
ようにしながら、ズボンの後ろポケットから財布を取り出した。
「頼む」
「あぁ、任せとけ」
ちょっと濡れていたので、俺は財布の端をつまんで受け取った。
そんな俺の態度に傷ついたのか、山田は「ううう」と幽霊のような声を出して
頭を抱えた。あぁあんまりイジメるとまずいなぁと思いながら、俺は山田に
やさしい声をかける。
「…まぁ誰でもあることだから、落ち込まないで、ズボンとパンツ脱いだら?
 濡れたままでいたら、風邪ひくだろ」
「ううう」
「別に誰にも言いふらしたりとかしないからさ? 一生墓までこの秘密、
 もっていくって約束するから」
「ううう…」
「満員電車でおもらしするって、一月に一回ぐらい、どっかで起こってるって。
 知り合いも、俺以外乗ってなかったんだし、気にするなよ」
「うううう…」
「まぁ…もう同じ時間帯の電車には乗れないかもしれないけれどな…」
「あああああ…」
「じゃぁジャージか何か買ってきてやるから、そこでじっとしてるんだよ?
 変な人が入ってくるかもしれないから、鍵はちゃんとかけとくんだよ?」
「ううううう…」
もう日本語…というか人間の言葉を話さないほど崩壊している山田は、涙目で
こくこくとうなずいた。トイレの個室のドアを閉めるよう促すと、おとなしく閉める。
バッタンと閉まったドアの向こうから、くぐもった泣き声が聞こえてくる。
どうやら、情けなさのあまり、泣いているらしい。
…まぁそりゃぁ、満員電車であんな大量に漏らしたら、泣けてもくるよなぁ…。
もらした時のお前の顔、ビデオに録って、ご近所に配ってやりたかったよ。
お前のしょんべんに、悲鳴をあげたOLとか、舌打ちしたサラリーマンとかの
声、聞こえてたか? 特急だから、もらした後の時間も、長かっただろうな。
お前の周りがモーゼの十戒のようになったのは、痛快だったなぁ。
いっつも「何で俺がこんな満員電車で窮屈な思いしてるんだ。タクシーぐらい
乗せろ」って言ってたから、夢がかなっただろ。
後ろで聞こえる山田の泣き声は、どんどんひどいものになっていく。
あぁ、俺がもし、今朝おごってやったコーヒーの中に利尿剤入れたって言ったら、
あいつはどんな顔をするだろう。
こみあげる笑いを必死で抑えながら、俺は歩き出した。
小学校のころから、社会人になった今まで友人をやっている、俺と山田。
はたから見たら、わがまま放題な山田と、それにふりまわされる俺…のような
関係だろうけれど、実際はまったく違う。山田をおだてたりのせたりして、
俺以外とまともな人間関係を築けないようにした上で、いろいろと実験を
しているのが、俺なのだ。つまり、山田はオモチャ。
とりあえず今からは、喫茶店でモーニングを食べた後に、一生懸命探した、
みたいな顔をして、ここに戻るのだ。「朝早いから、まだ店が開いてなかった。
とりあえずパンツだけ履き替えて」と、駅前にあるコンビニで買ったブリーフを
渡してやろう。そして、「いつまでもここにいるわけにはいけない」と言って、
びしょ濡れのズボンで表を歩かせてやろう。タクシーをさがすふりをして、
人通りが多い場所に出るのだ。
その時、山田はどんな顔を見せてくれるのだろう。

ひとつのオモチャに執着する子供。
そう自分を自嘲しながら、俺は駅の改札を出て、美味しそうな喫茶店をさがした。
かわいそうな山田が、帰った時に泣きやんでいなければいい。