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飛んでいくよ

あの日、珍しく里に見知らぬ子供が紛れ込んでいた。乞われるまま、ひらりと麻を飛び越えてみせると、
まるで鳥だと言って、その子供は目を輝かせた。いずれ我らの主君となられる方だと、兄から聞いた。

かれこれ二十余年も昔のことだ。長じて忍となり、兄の言葉通りかの人に仕えることとなる、ずっと前の話。 
決して忘れたことはないが、こんな時に思い出されるのが不思議でもあった。こんな時だからこそ、だろうか。
掌で押さえた傷口から、とめどなく血が溢れ続けていた。不覚をとったものだ。
確かめるまでもなく、致命傷だと判っていた。脇腹深く食い込んだ短刀には毒が塗られていた。
参ったな。独りごちた声は掠れ、語尾は囁くようであった。この分では、あと半時ももつまい。
死ぬる覚悟はあった。予感もあった。ただ、帰りを待つ主のことがひたすらに心残りだった。
生きて帰還せよと、主は繰り返し念を押した。いつにないことだった。懇願され、心ならずも約束をした。
果たして約定を違えることとなってしまったが、あの人は許してくれるだろうか。
かつて、誰かが言っていた。妹背の縁は二世、主従であれば三世に交わると。輪廻の先で出会うより、 
選べるものなら今生を全うしたかった。いつか主が穏やかに生を終えられるよう、見守ってやりたかった。 

瑠璃紺の空が緩やかに藍へと色を変える。世界が宵闇に沈もうとしていた。
きっと、主も同じ空を見ていることだろう。真直ぐに背筋を正して、眉の辺りに少し憂いを刷いて。
見かけより余程繊細な人だから、手飼いの忍一人の死にも、心を痛めて泣くのだろう。
脳裏に浮かぶ面差しは鮮かで、しかし触れることは叶わない。感謝も謝罪も、今は伝える術がない。
朦朧とかすむ意識の底でふと、想う男の呼ぶ声を聞いた気がした。
とりになって、かえるよ。呟いた。もう声にはならなかった。
滲むような白の月が遠く揺らいで見えた。呼吸をかぞえて目を閉じる。暗く深く、やがて完全な闇になる。