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月と木星とアルデバラン

母が心配している、そう言って帰ろうと、何度も思った。
けれどその言葉は終ぞ僕の口をついて出ることはなく、辺りは夜になっていた。制服とコートだけでは寒い。
僕は冷えた左手をポケットに突っ込みしきりに動かしながら、近江と繋いだ右手を中々動かせずにいた。
横を見ると近江の右手も僕と同じようにコートのポケットに突っ込まれていた。寒さのためか、もぞもぞとポケットが動くのが見えた。
鼻が冷たい。きっと耳も。
近江と繋いだ右手だけが熱い。
「木崎、もう少し遅くなっても大丈夫?」
その時近江の声にこもった、なんとも言えない気持ちを僕は一瞬で理解した。共有した。
そうして僕は、生まれてから今日までと、明日は、今夜は違う。そんなことを確信していた。
「……うん。大丈夫」
近江は僕の手を軽く引いて、青白く光る月の下をぐねぐねと歩いた。
どのぐらい歩いたのか、目を凝らしても街灯が見つからなくなったあたりで、近江は僕を振り返り「今夜の星は綺麗だろ」と言った。
見上げてみるとなるほど、眩しいくらいの月明かりに、星が隙間なく瞬いている。宇宙はさぞや美しいだろうと思わせる夜の風景。
「綺麗だ、すごく」
こんな景色がこの町にあったなんて。
吸い込まれるように感動していると、近江が右手を出して言った。
「オリオン座が見えるだろ?あそこに3つ並んで、そのまわりに広がってる」
「うん」
「そこから斜めに、こう…上がって」
言いながら近江は空を撫でるように、つ、と指を滑らせた。形の良い爪が美しい。
「そこに見えるオレンジの光、見える?あれがアルデバラン」
「アル…?」
「アルデバラン。牡牛座だよ」
それから近江は今夜がいわゆる天体ショーの夜であること、木星や月や太陽の話、アルデバランとプレネアデス星団の話をしてくれた。
それはいつも教室の隅でじっとして、近江の声を拾い上げて聞いていた僕にとっては夢のような時間だった。
近江は時々僕を見ながら、寒空の下でくるくると指を動かしてくれた。近江の話はどれも面白く、彼に恋をしていなくても、それはきっと素晴らしい時間だったに違いなかった。

「木崎、帰ろうか」
立ち上がった近江につられそうになる。それは先ほどの予感とは違い、今日までと同じ明日が来ることを意味していた。
僕は躊躇った。結果それは近江の手を少しだけ引く形になった。近江が僕を振り返る。
「木崎?」
言い訳を考えながら今更、「これがイタズラや罰ゲームだったらどうしよう」と、近江にそぐわないことを考えた。
「近江、あの…ありがとう」
後ろめたい気持ちに恥ずかしくなった。近江を好きなこと、近江を信じられないこと。穴があったなら入りたかった。
それらを断ち切って今日と同じ明日を迎えようと決めたとき、立上りかけた僕を近江が押した。思いがけず尻餅をつく。
「近江?」
「違ったらごめん」
言うが早いか近江は、屈んで僕にキスをした。驚いて目を開くと、月明かりに透ける近江の髪と、肩口にはアルデバラン。
僕は繋いだままの近江の手を強く握り、星空に別れを告げて目を閉じた。
オレンジが、一際強く瞬いた気がした。