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海の底

遠くで鳥が鳴いている。僕は、静かに潮風を吸い込んだ。

君と僕が駆け落ち同然に将来を誓い合ったのはずっとずっと昔の事で、
君が病に倒れたのもまた、ずっと昔の事だ。
血族も知り合いも居ないこの土地で日ごと癌に体を蝕まれていった君は、どれだけ心細かったろう。
僕は、少しでも君の支えになれていただろうか。今では知る術も無い。

それでもあの時、僕らは二人で病気に立ち向かっていた。
君を取られぬ様、僕は必死だった。

だが、忘れもしない十年前の今日、君は僕を遺し逝ってしまった。
『君を遺して先に逝ってしまう僕を許して欲しい。』
そんな書き出しで始まった遺書には、墓は要らない、灰は海に撒いてほしい、といった要望が簡潔に書かれていて、最後に、
『君は生きてくれ。生きて、恋人をつくり、幸せな家庭を築いて、僕の事など忘れてくれ。』
と書いてあった。


けれど、その手紙を読んだ後の事を、僕はあまり鮮明に覚えていない。
君を海に弔った後、僕はただひたすらに生きた。君の希望の為に、命を繋ぎ留める為に、ただ生きていた。

そして今日、君の命日にここへ来るのも十回目になる。
いつもの場所に花を手向け、僕は岸の端まで歩いてゆく。
下に目を向けると、海は夕日に焼かれながら、静かにたゆたっていた。

結局僕は、君の希望に一つも答える事が出来無かった。
君を忘れることなど出来る筈も無く、恋人や家庭など論外で。
今日まで生きてきた事、今の今までそれだけは君に誇れる事だったけれど。

僕の両足は、岸を離れた。


海の底で、僕は青い天井を見つめていた。
夢か現実かも分からず、ただ心地良い水の流れに身を任せて。

その時、誰かが手を握ってきた。
男の手にしては少し華奢で、それでもしっかり僕の手を握ってくる、十年間想い続けた、手。
僕は満たされた気持ちで、君の名を呼んだ。