※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

穏やか若隠居受け

「あきれたね、本当に隠居しちまうのかい、喜さん」
「いいじゃないか、清さん、これで心おきなく遊べるってもんだ」
 喜之助……喜さんは文机の前で泰然としたものだ。
「せっかくだからね、寮のひとつも作ってもらおうと思うんだよ。そこで戯作でもしようか。人情物かな。芝居の台本もいい。
 そうだな、寮の名前は喜詩庵、喜文庵、それとも喜雨庵、さて……」
 何をのんきな。ぼんやりした人だとは思っていたが。
 手前のお店には何の未練もないのか。心配したのがだんだんばからしくなってきた。

 喜さんは隠居して、弟にお店を継がせる。
 弟と言っても死んだ先代の後添いの子だ。後妻が、後見の伯父に通じてうまいことやりやがった。
 もっとも、喜さんも逆らわなかったようだ。
 争いは好まない人だし、おもしろく噂にでもなればお店の評判に傷がつくと考えたんだろう。

「だからね、清さん、庵に遊びに来なさいよ、隠居すればみな友達がいもないだろうからね。
 清さんだけは幼なじみのよしみで、後生だよ」
 私に煙草盆を勧めながら、口ほどに切なそうでもないこの男がはがゆい。
「ちっとは伯父さんに逆らっちゃどうだ、何が病弱で素行悪し、だ。
 遊びといえば芝居見物っくらいで、そうそう吉原がよいもしないような人をつかまえて、見え透いてやがる」
「いいんだよ」
 自分でも煙草を詰めながら、喜さんは言った。
「隠居は私から申し出たんだ」
「本当かい?」
 それは初耳だった。てっきりあの性悪女が仕組んだものと思ったが。
「おっかさんもね、そりゃあなんにも言わなかった訳じゃない。でももともと私はお店を継ぐ気がなくなっていた。
 伯父もこんな気概のない私じゃ旦那は無理だと思ったんだろうね」
 熱心に店に立ってるものと見えていたが、胸の中はわからない。
「気がない、って、そりゃあ、どうしたわけだい」
 喜さんはうーんと煙管を吸って、
「……隠居して、気楽な寮住まいで、たまにお前さんが訪ねてくれる。私にとっちゃ極楽だよ。おまけに、そうしてさえいりゃあ……」
 おっかさんも文句はない、か。
 結局のところ、跡目争いなんてのにはなっから加わる気がなかったってことだ。
 長男でなければまだほかの道があったのかね、行き所がなけりゃあやっぱり隠居するしかない。

 どうにもやるせない思いで煙管をふかしていると、喜さんが独り言のように言った。
「それにね、私は嫁をもらう気はもとよりなかったのさ、女はこわい、意気地がねえが、そう思えてね。所帯も持たないんじゃ旦那は無理さ」
「そいつはあのおっかさんのせいかね。……しかしそれじゃ妾も囲えめえよ、せっかくの若隠居が寂しかろう」
 喜さんはため息のように笑うと、障子の方に顔を曲げて
「寂しいのはお前さんが来てくれりゃ平気だ、私がお前さんの囲われものさ」
 急に芝居がかって袂で顔を隠しながら
「旦那さま、必ず来ておくんなましね、お待ち申しておりますよ」
 くれた流し目のすごいこと。