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年下の先輩

昨今の囲碁ブームに踊らされて、初級者教室の門を華麗にくぐったのが
半年前だ。仕事帰りに一端緩めたネクタイを、鉢巻代わりに、も一度
きりりと締め直すのが毎週水曜夜七時。パチリパチリといい音響かせ、
「音は良くなりましたね」と無理のある褒め方をしてもらったのが、
ついこの間の水曜日。たまにはサロンの方にも顔を出して、へぼ碁の
相手を探そうかなあと同じビルの階段を一つ昇ったところ、人の影、
聞き覚えのある話し声、震える言葉、駆け降りてくる、駆け抜けていく
見慣れた学生服の見知った少年の背に不穏なものを感じ、踊り場を
見上げると、いつも馴染んだ羽織姿の、温かな笑みを崩したことのない
指導の先生のその瞳、縁なし眼鏡の奥の底、青ざめた表情に反射的に
きびすを返し、何があったのか、とにかくさっきの高校生の姿を求めて
追っかけっこを始めたのが五秒前、日曜日の午後のことで、こうなる
ことならもう少し考えて服を選ぶべきだったと後悔しながら、俺は背広
の裾を翻した。
あの年頃であれば自分はもっとあほ面を晒し、悪くすれば鼻水すら垂ら
していたかもしれないというのに、最初に対面した時から彼の態度は
しれっとしていて、この子は一月前から通い始めたんですよとの紹介を
受け、「じゃあ俺の方が先輩だね」などと目を細めて言ってのけたもの
だ。お互い初級者という立場は違わないが、高校生のあの子が対局に
負けて悔しがる姿というものをおよそ目にしたことがない。
老若男女、十に満たない生徒数の、様々な人々が集まる中で、大体に
おいて静かに笑み、勝負の最中、首を捻って頭を絞るうちにのぼせて
しまう俺の前では一層楽しそうな顔を見せ、必要もないだろうに横に
ついては助言を与える、プロ棋士である先生の前では、何やら
はにかみ、ひたすらに俯いているので、面白がって覗き込めば、白い
碁石の吹雪のような激しさで猛撃される、その表面上だけは平然とした
顔、生意気な顔、得意げな顔、黙考する顔、思い起こされるのは捻くれ
た根性と、それですら覆いきれない、年相応の無邪気さが入り混じった
何とも不思議な表情だ。
大人げの無さでは渡り合えるものの、革靴の音もバタバタと、次第に
顎を上げてひいひい言い始めた日本のおっさんに哀愁を感じたのか、
風を裂くように我武者羅に走っていた若人は後ろの様子を気遣い、
やがて立ち止まり、茜差す川面の道端でぜいぜいと肩を上下させて
いる俺の側にゆっくりと戻ってきて、静かに声を掛けた。
「イトウさん、俺、ふられちゃったよ」
「だ、誰に」
「知ってそうだから、わざわざ教えない」
「俺は相手の一手先どころか自分の手すら読めないへぼ碁の打ち
手なんだぞ。人の気持ちなんか分かるか」
だろうね、とあっさり肯定し、
「俺、気持ち悪いって思われたかなあ」
少年がポツリと呟くので、そいつは君に告白されたぐらいで気持ち悪い
と考える奴なのか、違う、違うだろうと熱弁をふるえば、やっぱり
さっきの見てたんじゃないか、と文句を言われた。
「だからって、まさか、もう教室に顔を出さない気じゃないだろうな」
ふいと背けられた顔に、俺は焦れた。焦れて、怒鳴った。
「それは困るぞ!俺は君に勝った試しがないんだから、せめて、
せめて一勝できるまでは、君に居てもらわなきゃだめだ!」
これだから、冷静さを忘れてはいけませんと毎度同じ説教をもらうこと
になるのだ。
「イトウさん、それじゃ俺、あの教室に一生通うことになっちゃうよ」
襟元の金ボタンがきらりと光を反射し、俯いていた少年は笑い顔を
見せた。八の字に下げられた眉の、涙を堪えた笑顔というのはこれまで
に見たことがなく、やはり不思議な表情をすると、俺は思った。

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