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ライナス症候群

阿鼻叫喚の地獄もかくや、逃げ惑いながら、絞められる寸前の雄鶏の
ように憐れな奇声を放つ友人を居間の隅に追い詰め、容赦なく襟首を
引っつかみ、その着物を剥いで、剥いで、剥いで、剥ぐ、私の様は正に
悪鬼、三途の川の奪衣婆の如くである。光のどけし埃の舞う中、頭を
抑えず尻を抑えて果敢に抵抗する友人の頭を素足で踏みつけ、漆の
色に黒光りする越中褌を掴んでぐいぐいと引きずり下ろし、奪い取った
布を首級の如く、高々と頭上に掲げた。垂れ下がった褌には斑の紋様が
点々と浮かび、得体の知れぬ異臭を澱のように纏うていたが、周囲の
大気を汚染する前に友人の紺木綿の着物で手早く包み、手でこねるよう
に玉にすると、長屋の戸口で仁王立ちし、逆光を浴びながら踏ん張って
いた大家のおかみに向けて一直線に投げ渡した。どっしりとした
鏡餅型のおかみは着物の玉を片脇に抱えると、何の符丁か知らないが、
ぐ、と左手の親指を私に向けて立ててみせ、それからピシャリと長屋の
障子戸を閉め、後は知らぬと立ち去った。

やあ一仕事終えた、と私は額の汗をついと拭うた。足元では白兎の如く
赤裸に剥かれ、寒々しく背を丸めた胎児のような格好で尻も隠さず、
友人がひいひいと震えている。この有様を見ては、彼がこの界隈にて並
ぶべく者の無い名医であることなど信じられはせぬだろう。友人には悪
癖がある。診療所を訪ぬる者、先ずは徒ならぬ気配に驚かされる。聞い
て正気を保てるものか、客すら寄せつけぬ瘴気の正体、それ即ち彼奴の
褌から漂う悪臭である。問えば最後に洗濯したのは八年前だと言う。
医師たる者、身を慎み、清潔に備える事は万全なれど、問題は下帯で
ある。この男、同じ褌を使い続けて離そうとせぬ。その様はやや常軌を
逸しており、まるで歯も生え揃わぬ幼子がかつての産着を、赤子の頃の
敷布を愛しがり、執着する様のようで、肌身に付けておかねば不安の
あまり、怯え、揺らぎ、前後不覚に陥る体たらく。一本の褌がまるで
彼奴の存在を支える命綱のようだ。これでは如何に名医と言えど、
嫁も、助手すらも寄りつかぬ。医師の恩恵を授かる一方で腐れた褌にも
悩まされ続けた長屋の住人一同一計を案じ、同じく友人の身空に不安を
覚えていた私共々、強硬手段に打って出たのだ。
今日は良き日だ、大安だ、今頃大家のおかみは晴天の下、もはや
褌やらくさややら分からぬ代物の洗濯に精を出していることだろう。

荒療治であったが、思いの他穏便に済んだ事に私は安堵した。
血を見ずには終わらないとの確信が外れ、うっかりと気を緩めたその
瞬間に、虚を突かれた。がばりと身を起こした友人の動きに情けなくも
遅れを取り、一転、柔の技にてあっという間に体勢を逆転させられる。
染みだらけの土壁に叩きつけられるより早く受身を取り、私はおかみを
追って裸のまま通りに飛び出そうとする友人の前に大手を広げて立ち
はだかった。観念しろ、と説くと、普段理性的な友人はこれ以上無いと
いう程顔をくしゃくしゃにし、だらだらと鼻水を垂らしながら、錯乱し
たか、貴様の褌をよこせ、と股間の虎の子を振り乱しながら私に
むしゃぶりついてきた。あれよと言う間に帯を解かれ、懐ははだけ、
袴が引き抜かれる。しゃくりあげながら胸板に鼻汁を擦りつけてくる
友人の短髪に、私は指を這わせた。そうして思い切って男の体を自分
の下に敷きこむと、深く、深く口づけ、私は自ずから褌を解いた。
友よ、時代の騒乱の中に父を亡くしたお前が、生きねばならぬと足掻
いていたのは知っている。寄る辺を求め、彷徨うた先に、肌に馴染んだ
あの褌に行き着いたこともだ。どこか稚気の抜けきらぬ友よ、しかし、
もはや身を守られる脆弱な子供でいる日々は過ぎたのだ。侍は城を
去り、私は刀を捨てた。変わらねばならぬのだ、お前も私も、
皆、我らは。
ふと我に帰ると、けばだらけの畳の上に素裸のまま大の字になって寝転
がっていた。紙障子を通して赤い陽が差し込み、何に使ったか、
ちぎって丸められた懐紙がそこら中を散らかしていた。友人は私の傍ら
にいた。やはり裸で、涙の跡が頬を横切り、指をちゅうちゅう
吸って、すんすんと鼻を啜っている。私は己の褌を取り上げて友人の
顔にあてがい、ちん、と洟をかんでやった。しみるなあ、と言って友人
は、さらに落涙した。