※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

守られる男

月のない夜は危ないぞ、と言ったのは父だった。
 なぜ、と問う私に、父はただ口元に微笑を刷いて天幕を捲って見せた。
 ――月明かりの下、広がり続ける血の海を、立って眺める男がいた。

 男の名はイーハといい、父の護衛を務める男だった。
 顔こそ品よく美しく整っていたが、実際は手のつけられぬ狂犬で、父以外には決して懐かず、息子の私
にもついに心許すことはなかった。
 何かの間違いで人間に生まれたようなイーハを快く思わぬものは、私以外にもいただろう。しかし多く
の部族が混在し、小競り合いを繰り返すこの地において族長たる父の命を守り続けたのは、他ならぬスー
ハだった。
 父はイーハを大層可愛がって常に傍らに置いた。しかし私には気持ち悪いとしか思えぬ男だった。父を
狙う凶手を斬殺したあの夜の光景が脳裏に残っているからかもしれぬ。息子の私よりも長い時間を父と過
ごしていたことに対する嫉妬かもしれぬ。

 剣の腕がたち、暗器の扱いに長け、薬草に詳しく、気配に聡く鼻の利く、最強と呼ばれて久しかったス
ーハの死は突然だった。
 先祖の霊を祀る陵墓に赴いた父目掛けて一本の矢が走り、気付いたイーハが咄嗟に飛び出して父を守っ
たのだという。
 供はイーハ一人きりだった。父は矢の突き刺さったイーハを連れて村へ戻った。しかし矢尻に塗られた
毒がまわり、その日のうちにイーハの命は呆気なく絶えた。
 イーハならば身を盾にせずとも剣で矢を叩き落とすことができたはず、それができなかったとは、と集
落ではちょっとした話題になった。結局は、イーハも老いたのだ、という結論に落ち着いた。誰もがスー
ハの死を冷静に受け止めていた。イーハを労りはしても、心から悼む者はいなかった。
イーハに家族はない。父が手ずから葬儀の手配をし、執り行った。悲しんでいるようには見えなかった
。むしろどこか喜色を浮かべている様子が奇妙だった。
 埋葬する前日、人払いをして父は棺の中のイーハと最後の時間を過ごした。大抵の者は、イーハの献身
に報ろうとする父の慈悲深さを讃えた。しかし私にはいよいよ訝しかった。母が亡くなったときでさえ、
父はそのようなことをしなかった。
 決定的だったのは、族長の座を私に譲ると言い出したことだった。もう私は一人前の男であり、父の後
を継ぐのに何ら不足はなかった。しかし私は耐えきれず、尋ねた。父上、イーハのせいですか、と。
父は私の直截な問い方に微笑した後、簡明に語った。

『俺が数多い兄弟を蹴落として族長を継いだのはあれがいたからだ。あれをこの村で生かすにはそうする
しかなかった。それが、蓋を開けてみればどうだ。俺はあれを危険な目に遭わせてばかり。しかし俺が村
を守らねば、そもそも誰も彼も生きられぬ。だから今まで続けた。
だが俺が守っていた、守りたかったあれは死んだ。頃合だ。無用な跡目争いなど起きぬよう、俺がした。
俺に出来なかった分まで、皆を守れ』

 この人は、このまま死ぬつもりなのではないか、という予感が脳裏を過ぎった。しかし父はそのような
選択はせず、老齢と言える年まで生き、病を得て亡くなった。天命を全うしたことに、父の私たちに対す
る誠意を感じた。

 族長の座を降りる理由を尋ねた後、私はもうひとつ質問をした。埋葬の前日、イーハと何を話していた
のですか、と。
 父は首を振って何も、と答えた。そして、口外するなと前置きした上で、密やかに笑った。
 ――口接けを。

 恐らく父は、そのただ一度の接吻で、己の恋を殺したのだ。