私は、知っている。全てが闇に塗り固められ、体を動かせないあの恐怖を。そして、ぬくもりを。



 倉庫の中は冷え切り、無防備な私に身体に絶えず隙間風がまとわりつく。私は動けなかった。両手両足を
縄で縛られ、視界はアイマスクで閉じられている。口には間違っても自決しないようによ猿ぐつわを嵌られていたため唾液が零れるままに任せるしかなかった。
 最後に見た光景は絵羽伯母さんの歪んだ笑顔。耳に届いたのは哄笑。
「ここを出ようとした罰よ。お前だけを逃してやるものか。もう二度と出られないようにダルマにして飾りたいぐらい!」
 そのまま三日が過ぎた。
私は倉庫の床に横たわり、食事と排泄を手伝う係りの者の足音でやっと流れる時を認識できた。
手足を拘束された私は床に這いつくばって犬のように食事をするしかなかった。その屈辱的な姿を見て絵羽伯母さんはまた笑った。
 だけど、今はその笑い声すら恋しいぐらい私の神経はすりきっていた。最初は屈して堪るものかと思った心がどんどん弱くなってゆく。どうしてこんなところでこんな目に。どうしてどうして。逃げなければよかった。ああ、何も見えない、動けないということがこんなにも恐ろしいものだなんて。
空間の感覚はもうない。私に伝わるのは冷たい床の感触だけ。やがてそれすらも崩れる。そして落ちるのだ。その先にお兄ちゃんたちがいればどんなにいいことだろう……
 ――失いつつあった私に意識を留めたのは足音だった。いつもの係りの者の音ではない。私はその足音の主を知っている。待っていたから。心の隅でずっと。それを認めたくない気持ちと共に。
 がちゃがちゃとした鍵の音。やがて扉が開くと同時に私をせせら笑う声が聞こえることだろう。
 しかし予想と違って扉が開いた先には沈黙だけが待っていた。人の気配はする。その人は息を押し殺して
じっと私を見下ろしているようだった。私もまた身体を硬くする。相手は絵羽さんで間違いない。彼女が来ることを
期待しておいて、今更ながら怖気がつく。今まで放置してふと気が変わって私を折檻しに来たのだろうか。
少し様子がおかしいけれど、今にきっと。




 そう考えた矢先に気配は近づいてきた。そらみたことか。私は歯を食いしばって襲ってくるだろう痛みに耐えようとした。
しかしまたしても私の予想は外れる。彼女は私を起こし、私の背に腕を回した。咄嗟のことで思考が後になって追いつく。絵羽伯母さんは私を抱擁したのだ。彼女のぬくもりが冷え切った私の身体中に広がる。
私は信じられず、この人は本当に絵羽伯母さんなのだろうかと疑いを持った時、彼女の唇から答えが零れた。
「あなた……譲治……」
 そして、震える言葉を呑み込ませるかのように私の唇が柔らかい何かで覆われる。唇から感じられるのは
暖かさ、柔らかさ、そして湿り。頬から濡れた感触が伝わり、私は絵羽伯母さんが泣いているのだということに気がつく。絵羽伯母さんはより強く私を抱き締め、肩に顔を埋めて静かに、静かに嗚咽を漏らす。反対に私はますます身を硬くし、彼女の真意を探った。
 今なら愛をもって理解したのかもしれない。あの日から絵羽伯母さんもまた家族のぬくもりを感じられなかった
ということに。この何もかもを覆いつくす暗闇の中でようやく悲しみを曝け出せたのだと。
 だけど当時の私は混乱する頭で、これはきっと何かの罠だと考えた。憐憫を抱くな。憎め。彼女は私の家族を
奪ったのかもしれない魔女なのだから。しかし一方で母親のぬくもりを思い出していた。こんな風に抱き締められたのはいつ以来だろう。キスをしたのも……
 私は身じろぎ一つせず眠っているふりをした。他にどうすることが出来ただろう。絵羽伯母さんを抱き締めようにも腕は縛られ、声をかけようにも口は塞がされている。絵羽伯母さんもそれを承知してこんなことをしているのだろう。
 ――もしこの時、私が何らかの反応を示したらどうなっただろう。私たちは分かり合えただろうか。家族を失った悲しみを癒しあえただろうか。それとも今以上に憎しみを抱いたのだろうか。それは今になってもわからない。
きっとこれからも、未来永劫。
 気がつけば絵羽伯母さんは私からは離れていた。私は再び床に身を投げ出され、彼女が遠ざかる音に耳を傾けるしかなかった。音が遠のく寸前ふと聞こえる。「明日の朝には出してあげなさい……」
 そして私は埃っぽい湿った静寂に取り残される。相変わらず何も見えず、語れず、動けない。全てが塗り固められた闇の中、私に残ったのはあんなにも憎んだ絵羽伯母さんのぬくもりだけだった。



 今でもあの日を思い出す時、恐怖で身震いがすると同時にあのぬくもりを思い出す。それは私と絵羽伯母さんの間のたった一つの愛だったのだ。

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