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冬に灯る小さな花火


 もういっそのこと大学から、家からも飛び出して旅に出ようかな。そして何にも縛られず、私の好きな場所、好きなことだけをして生きていこう――
 ……なーんて、勉強に疲れた中高生の妄想みたいなことを思う。無理に決まってると胸中でつぶやいてため息を吐いた。
 単位のためだけに受けている興味のない講義を聞き流し、楽譜をしまう。五線の湖の上を泳ぐおたまじゃくしを見ていたら、目眩がしてきた。
 どうにもここ数日、頭の中で音が鳴らない。それどころか、気力すら全然起きない。
 ……私、やる気なさすぎ。
 どうしちゃったのかなぁ、と思うまでもなく原因はわかっていた。その原因を解決させない限り、私はふ抜けたままだろう。原因がわかってるなら、すぐにでも解決すればいいんだけど。
「そんな簡単なら、こんなことになってないってば……」
 ぽつり、と口に出した言葉は、社会の仕組みと就職の大変さを語る教授の声に、くだらないと切り捨てられるようにしてかき消された。

   ◇ ◇ ◇

「おい、天然元気っ子。今日はやけに静かだな。変なもんでも食って腹壊したのか?」
 講義が終わった教室で、まだ三時限目が残ってるけど帰っちゃおうかなー、とぼんやりしていたら、慎(しん)が話しかけてきた。
「あー、うん。そーかもね」
 私がてきとうに返事すると、慎はやる気のなさそうな半眼を丸くしていた。
「おいおい、ホントに腹壊したのか? いつもなら『誰がお腹壊すようなもの食べるか!』って突っ込み返すのに」
「いや、別にー? ただ、疲れちゃったからもう帰ろっかなーって」
「はぁ?」
 慎は怒ったように私を睨む。目つきが鋭いから睨んだように見えるだけなんだけど。
「次の講義、ピアノだろ? 音楽専攻の学科じゃないから基礎ばっかりなんだろーけどよ。でもお前が大好きなピアノだぞ? わかってるか?」
「うん、わかってる」
 慎のちょっと怒ってるような顔を――でもホントは心配してくれてる顔を――見ながら、私は小さく頷く。
 私の反応に呆気にでもとられたのか、慎は口をぱかんと開けて間抜けな顔をした。次第に閉じていく口はへの字を描いていた。お気楽な慎にしては珍しく、小難しい顔で腕を組んでいる。
「三月(みつき)、昼飯どーするんだ」
「あんまり食欲ないし、無くてもいいかなーって」
「……今日は、デザート食う日じゃなかったか?」
「ピアノの前だから食べてたの。ピアノやんないなら、食べなくてもいいよ」
 別にどうでもいいよと、私は無感情に返す。
「いっつも、あんな美味そうに食ってるのにか?」
「うん、いいの」
 慎は唸るようにして「ふーん」と返してきた。ちょっとだけ私から視線を外した後、削るように一度頭を掻き、ここ座るぞ、と私の隣に腰かけた。
「これ食え。飯抜くと太るっていうだろ」
 下げていたビニール袋からサンドイッチを取って渡してきた。慎がよく買う、安い卵サンド。
「いいよ。慎の昼ごはんでしょ?」
「俺は三限なんもないからいいんだよ。ほら、人の好意を無下にしてんじゃねぇ。食え食えっ」
 肘を付きながら、押しつけるようにして、しっしっと手で払う。そんな風に言われたら断るものも断れない。
「はいはい。じゃあ、ありがたく頂きますよ」
 仕方ないわね、とため息ひとつ吐き出して。黙々と、慎からもらったサンドイッチを食べる。慎は私の食べる様子を、いつものやる気のなさそうな半眼で見ている。
「……夏の時と比べて、病気かってくらい静かだな、お前」
 慎は唐突に、姿勢は変えないまま口だけを動かした。
 おかしい、と私も前から感じていたことを改めて指摘され、叱られた時みたいに体を強張らせた。
「やっぱり……そう、だよねー」
「皆で花火なんかした時は、小学生かってくらい、はしゃいでたのによ」
 夏休み、そんなこともしたなぁと私は思い返す。高校の友達と集まって、ねずみ花火に追いかけ回らされたり、ロケット花火を空高く打ち上げたり、色彩豊かな手持ち花火をのんびり眺めたり。楽しかったなぁ。
「どうしたよ。なんか悩みでもあんのか?」
「うん……まぁ」
「なんだ、寒くなってきたから体重でも増えたのか?……あぁ、デザート食わないのもダイエットか」
 言い淀む私を見て恥ずかしい悩みだと思ったのか、慎はひひ、と嫌らしく口元を吊りあげて笑う。冗談だとわかっていても、私はムッと頬を膨らませてしまう。なんか、慎に言われるのは無性に気に食わない。……でも、サンドイッチってカロリーどんなだっけ。つい今日食べた物のカロリーを考えてしまう。
「おーい、三月ちゃーん? サンドイッチ見つめたまま、なに固まってるんだー?」
「えっ……? あ、うん。うんうん? サンドイッチって、カロリー高かったっけ、なんて考えてないよ?」
「あー……そうか。ちょっと腕上げろ。あぁ、バンザイじゃなくていいから。軽くでいい」
 言われた通り、サンドイッチを両手で持ったまま肘を持ち上げるようにして腕を上げる。
 なにする気なの、と訊こうとした瞬間。すぐに伸びてきた慎の腕が、私の脇腹をむにゅっと摘んだ。
「わひゃぁ!?」
 無防備の脇腹を触られ、くすぐったさと肉を摘まれたというショックから、変な声を上げてしまう。
「ふむふむ。適度に肉も付いてて健康的な体だな。女としてはともかく、人間としてはいいと思うぜぇ?」
「なぁもぉうるさいっ! にやにやとイヤらしい顔してんじゃないわよ、このヘンタイ!」
 いつまでもむにむにむにむにと摘んでいる腕をはねのけようと、慎に向けて腕を振る。おっと、とからかうように声を出しながら、あっという間に体を引いて避けられてしまう。
「おいおい。俺は『冬になって美味しいものがいっぱいで食べすぎちゃった~』とか言ってる三月のために、身体検査してやっただけだぞ? そんな怒られるようなことはないと思うぜ?」
「誰がそんなこと言ったのよ! 女の子の体触っといて、アンタはそんなことしか言えないのか!」
「いやだってお前……」
 慎は顎に手をやり、じとーっと私を頭から足先まで見てくる。
「……大学生にもなって、そんな起伏のないなだらかな体の奴じゃ、なぁ?」
「なっ……!?」
 真面目な顔をしたまま淡々と言われ、さすがに声を詰まらせる。いくら幼なじみの慎だからって、冗談でもなくそんな風に言われたら傷つく――
「ま、スポーツブラでもなんでも試して、せめてAAからAぐらいにするんだな」
 と、ちょっと泣きそうになった気持ちが瞬時に吹き飛んだ。慎はにやり、と口の端を持ち上げた、弄る時によくする意地の悪い笑みを浮かべ、私の胸を指さしてくる。
「ギリギリBくらいはあるわよ!」
 たぶん、と心の中で付け足して。
 くるくると回して遊んでいる指を、手の甲ごと思いっきりはたいた。私は仇のようにサンドイッチにかぶりつく。
「知らない間に、お前も成長してたんだな」
 慎は憎ったらしい顔をしたまま、はたかれた手をぷらぷらと揺らす。からかってるんだろうその動作も、腹が立ってしょうがない。
「まったく、人のこと弄るだけならちゃっちゃと帰ってよ! 慎のばぁか!」
「はいはい、俺はそろそろ退散しますよっと」
 あっさりと私の言葉に従い、慎は鞄を担いで席を立つ。離れる時、私の肩をぽんぽんと気遣うように叩く。
「それだけ言い返せれば十分だな」
 してやったり、とで言いたいのか。ニッと無駄に良い笑顔を見せてきた。私はしてやられたように、慎の笑顔に驚いた顔を返してしまった。
「まったく、ホントにもぉ……」
 離れてく慎の背中に、私は苦笑を向ける。
 慎が教室を出ようと扉に手をかけた時、私は大声で呼び止める。
「慎!」
 慎は顔だけをこちらに向け、なんだ? と表情だけで語る。
「ありがと!」
 天然元気っ子らしく、私は飛び切り明るい笑顔で言ってやった。
 慎はさっきと見せたのと同じ笑みを返し、ひらひらと手を振って教室から出て行った。

   ◇ ◇ ◇

 でも慎にもらった元気も、ピアノを弾き終わる頃には、空に霞んでいく煙のようにかき消えてしまった。
 やっぱり、音楽に集中できない。他事がちらちらと頭の端を触り、心が定まらない。心が定まらなければ、音も定まらず。結局、私が鳴らしたのは乱れた行列のような、猥雑な音の群れ。全然旋律なんかじゃない。
 ……こんなことじゃダメじゃない。しっかりしないと。
 まだ大学に通って一年すらたってない。なのに、つまずいてたら叶う夢も叶えらんないよ。
 気分転換でもしようと来た書店だけど、全然気晴らしにならない。もっと違う音楽でも聴こうと、一緒にやってるレンタルCDの方へと行く。
 J-POP……って気分じゃないんだよなー。別に、愛だの恋だのが欲しい訳じゃないし。クラシックで落ち着きたいとこだけど、ピアノのことが浮かんで気分転換になりそうにないかも。うーん……ジャズ、ねぇ。いいんだけど、なんか違うんだよねー。あー、どーしよー……
 電車のラッシュを思い起こさせるほどCDが押し込まれた棚から、視線を外す。一息ついていると、明るく軽快な幸せと楽しさを運んでくるフレーズが聴こえてきた。
 この曲は……We Wish You A Merry Christmasかぁ。そっか、もう一月もたたない内にクリスマスだっけ。
 ……クリスマス、かー。去年は、確か高校の友達と過ごしたっけな―。仲の良い女の子三人で、誰がカッコいいだのもうちょっとどーすればいいのにだの、皆で騒いだっけ。うん。いいね、クリスマスソング。気分転換になるかも。
 私はクリスマス・クラシックのCDを数枚借りた。頭の中で、さっき聴いたWe Wish You A Merry Christmasを弾く。
 クリスマスへの期待、喜び、楽しみを奏でる音譜に釣られて、想像の鍵盤の上を心の指たちが踊る。想像だけど、ピアノを弾けていることに私は自然と笑みを浮かべていた。
 店を出る前に、本屋の方をぐるっと見て回る。私は目に留まった、平積みされている一角で足を止めた。
 積まれているのは、どれも就職の本だった。
 適当に手にとっては、ぱらぱらとめくる。どれにも書かれている、就職の準備は今すぐ始めた方がいい、面接のしかた、SPI、TOIEC……
 そして、週刊誌には就職率の低迷。採用氷河期の文字。
 私はひと通り本に目を通すと、店を後にした。脇目も振らず自分の家へと急ぐ。
 家へ着いたら、ただいまの挨拶もそこそこに自室へと入る。鞄と借りたCDを机に置き、コートをハンガーにかけて私はベッドへ倒れ込んだ。
 抱き枕をぎゅっと力いっぱい抱きしめ、小さくなる。
 小さくなって、出来る限り小さく体を丸めて――全部の力を抜いてため息を吐き出した。
 就職……か。
 ――私の通う大学は、そこまでランクの高い大学じゃない。どっちかって言えば、低い部類になるだろう。もちろん就職率も当り前のように低い。
 色んなことに手を出して遊んでいたら、就職で苦労するのは目に見えている。私はペットショップにいる犬猫じゃないんだ。やることをやってなきゃ、雇ってくれる会社なんてあるはずない。
 だから就職のために資格をとったり、勉強したりしたほうがいいんだろうけど……
 ちらり、と視線だけを部屋の隅へ動かす。視線の先にあるのは、安くて音域が狭いキーボード。夜でも練習できるようにと昔に買ったものだ。ピアノは、一階の他の部屋に置いてある。
 私は将来、ピアノに携わった仕事をしたい。そのために一応ピアノの授業がある、あの大学に通ってるし。
 さすがに、プロのピアニストになりたい、だなんて無謀なことは思ってない。でも、ピアノの先生になれたらいいな、とは考えてる。自分の通うピアノ教室の先生の楽しそうな姿を見る度そう思ったんだ。
 ……だけど、夢や希望なんかよりも、ただ就職できればいいと奔走している先輩たちの姿を見ていたら、不安になった。本当にピアノの先生になれるのかって。
 いくらピアニストじゃないとはいえ、音大ぐらい出てないと人に教えるほど実力はつかない。才能がある人は音大なんていかなくても平気かもしれないけど、私は特に才能がある訳じゃない。ただ、小さい頃からピアノが好きで弾いてるだけ。
 この大学を出たら、夢に近づくため自力で音大に通おうと思ってるんだけど……それも無謀にしか思えなくなっちゃった。どうしてかな、少し前までは絶対出来るって信じてたのに。
 このまま夢が叶わず、ピアノの先生になれなかったら。それでも、社会は待ってくれない。ピアノや音楽に関係ないところでもなんでも、就職して働かなくちゃいけなくなるだろう。
 就職する時になっても、私にピアノしか特技がなかったら――きっと、大変な目に合うだろう。
 だから、少しでも就職しやすいよう何か資格でも取るべきなのかな、って考えてるんだ。
 ……考えてるんだけど。私は……どうすればいいのかな。

   ◇ ◇ ◇

 大学のホールの端にぽつりとある小さなテーブルで、ひとり資格の一覧本を眺めながらのろのろとお弁当をつまむ。
 ため息を吐いたと同時に、後ろから頭を小突かれた。後ろを見ると、ビニール袋ぶら下げた慎がいた。
「よう。相変わらず悩んでるな、三月」
「やっほ。相変わらずコンビニ弁当なんだね、慎」
 今日はおにぎりだ、と文句なのかよくわからない主張をしつつ、慎は向かいの席に座った。
「で、昨日俺が元気づけたはずのお前は今日も懲りずにお悩みを抱えてる訳だが。これにはどう返答すんだ、えぇ?」
「……いい資格、どれだと思う?」
 私の返答に、怪訝そうにする慎は机に置いてある資格の本を一瞥する。
「あん? お前、ピアノの講師になりたいんだろ? なら、そーゆー資格じゃねぇの?」
「いや、ピアノ以外で」
 慎はびくりとビニール袋に伸ばした手を止め、何か文句を言いたそうな表情で私を見る。
「……は? なんだ、違うもんにでも就職したくなったのか? 今までずっと、ピアノピアノって言ってたじゃねぇか」
「あはは。そうなんだけど、ね」
 言葉を濁し、苦笑で誤魔化す。慎は、それを許してくれなかった。
「――怖気づいたのか?」
 ストレートな言葉に私は告げる言葉をなくし、ただ強く唇を噛んだ。
 ……そうだ。私はピアノの先生になれないのが怖い。
 けど就職できないのもすごく怖い。夢を追いかけていると言いながら、私は現実に絡められて、思い切ったことが出来ずにいる。
「まぁ、仕方ねぇと思うよ? 俺は楽器なんかやったことねぇから、音楽ってすげぇ大変だってことしか知らねぇよ。音大も入るのすげぇ難しいみたいだしよ。そりゃ、怖気づきもするよな」
 慎の言葉は慰めているようだったけど、当の本人はとても不機嫌そうだった。不満を我慢しているような……いや。気に食わないことがあり拗ねているような表情だった。
「そんでお前は怖気づいて、どうするんだ?」
 変わらぬ、無感情にも思える瞳。でも、何かを訴えてる気がして。
「だから、他にも就職できるようにしようと……」
 答えを口にしながら、私は慎から目を反らしてしまう。あんな瞳、今の私には応えられなかった。
 私が目を反らしたと同時に、慎はため息を吐いた。
「諦めるのか?」
「そんなことしない!」
 諦めると聞いた時、私はテーブルを叩いて慎を睨みつけていた。
「でも、現実お前はピアノ以外のことしようとしてるじゃねぇか」
 慎の言葉にも怒気が孕んでいた。私が否定されたのに、何故か慎も怒っていた。
 私を一番理解している彼に考えを否定され、カッとなっていた。慎が怒ったことに疑問を感じないほど。
「ただ他のこともしようとしてるだけじゃない! 誰もピアノを止めるだなんて言ってないでしょ!」
「今までピアノしかやってこなかった奴が、なに他のことやるとか言ってるんだ? テメェが他のことやれるほど器用だったら、こんな大学いねぇだろうが!」
 慎の言うとおりだ。私がピアノもやって、資格も取って、なんて出来るはずがなかった。今まで学校の勉強すら両立できなかったんだから。
「頑張るだけよ! ピアノも資格も、全部頑張ってやるだけよ!」
「資格の勉強なんて頑張ってたら、ピアノの頑張りが減るっつってんだよッ。んなことしてても、全部中途半端で終わるっつの!」
「っ、やってみるまでわかんないでしょ!」
「わかるわ! 不器用なお前が、馬鹿みたいにピアノしかやってこなかったお前が、出来るはずねぇんだよ!」
 そうだ。私はピアノしかしてこなかった。私にはピアノしかなかった。
「でも、やるしかないじゃない!」
 いつの間にか、私の声は涙混じりになっていた。なにか、だだをこねてるみたいですごく格好悪い。そんな気がして、鼻をすすって目を拭う。瞳は、濡れていた。
「お前、ピアノも中途半端で終わることになるぞ! 頑張ってればなれたかもしれねぇピアノの先生も、なれなくなるかもしれねぇんだぞ!?」
 ピアノしかない私は、ピアノで失敗することが怖かったんだ。人生を変えてしまうのような、失敗を。
「私、は……」
 言葉は霞んで小さく消えていき、心は冷たく萎んでいった。もう、私に返せる言葉はなかった。
 慎は私を静かに見つめる。ふと慎の顔を見て思う。彼の声は怒っていたけど、表情はどうだっただろうと。裏切られたような、ひどく悲しい表情じゃなかった?
「……昔」
 ぽつ、と慎がつぶやいた。
「ピアノの先生になるんだ、って言ってたお前は、本当に嬉しそうでさ。すげぇ輝いてたよ」
 慎が言ったのはいったい、いつのことだろうか。嬉しそうに夢を語ったのは、いくつの時だっただろう。高校? 中学? それとも小学校だったか……
 知らず、うつむいていた顔は上がり、慎を見つめていた。怒りはもう、すっかりと抜けてしまっていた。
「……今日の夜、家来いよ」
「え?」
「いいもん、見せてやるからよ」
 じゃあな、とビニール袋からおにぎりひとつ出さず、慎は席を離れていった。

   ◇ ◇ ◇

 もう暦上も冬に入り、日が暮れるのは早い。日が出ている時間が短くなった分寒さも増し、吐いた息の暖かさが心地よいほどだ。
 星が瞬く漆黒の空の下、団欒の光を灯す住宅街を、慎の家へと向かって歩く。
 慎の家はゆっくり歩いて二、三分ほどの距離にあった。私はコートをはおり、マフラーを巻いていたが、そんな短い間でも寒さは厳しい。手袋をはめてこなかったことにちょっぴり後悔した。
 後悔している間に、慎の家へ着く。インターフォンを鳴らすと、すぐに玄関の戸が開いて慎が出てきた
「お待たせ――って慎、なに持ってるの」
「んなもん、見りゃわかるだろ。花火セットだよ」
 厭らしくにやりとする慎。わたしは慎の考えが読めず呆気にとられていた。
 今の季節は冬。あともう少しでクリスマス。雪が降るんじゃないかという寒さ。なのにこのお気楽野郎は、そんな寒い中で縮こまりながら、花火をパチパチとやるつもりなんだろうか。
「いつまでたってもうじうじとなっさけないお前のために、俺がお前を楽しませてやるっつってんだ。さぁ、いつもの土手に行くぞ。あそこなら水汲めるし、ちょうどいいだろ」
「ちょ、ちょっと! 私、歩きなんだけど!」
「あぁ? 家すぐそこじゃねぇか。自転車ぐらい取ってこいよ……あー、でもめんどくせぇ。俺の後ろ乗れ。二人乗りだ、二人乗り」
 自転車取ってくる、と車庫に入っていった慎に付いていけず、私は玄関でぽーっと立ち尽くす。
 夜家に来いとだけ言っといて、いきなり土手へ花火しに行く?
 まったく、慎はなに考えてんのよ。私は、どんどんと勝手に物事を進める慎を待つほかなかった。


「……準備いいわねぇ」
 土手に着いて早十分。慎はてきぱきと準備をこなし、花火を出来るまで整えていた。
 簡単な遊びなら出来るくらい、広さのある川べりの縁の方に、水が入ったバケツを置く。
「寒い中、準備なんかに手間取ってられるかよ」
「ま、ごもっと」
 こんな冬の夜中、なにもしないで立ってたらすぐに体が冷えてしまう。というか、自転車に乗ってただけで十分冷えてしまった。これ以上寒いのは、勘弁だ。
「ほれ、好きなの取れよ。ロケット花火とか、あんまり派手なのとか変に面白いヤツとかは無いけどな。そーゆーのは、夏の時使いきっちまってるし」
「ってことは、これ夏の時の残りなの?」
「あぁ。余ってたから持ち帰った」
 そうだったんだ、と私の意識は小さめの花火セットに移っていった。
 最初は、また馬鹿なことを、と思ったりもしたけど、実際ここまで来るとワクワクしてきた。
 冬にやる花火。ミスマッチだけど、逆にそれがいい気がする。
「じゃあ、これから」
 線香のように細い棒の先、床屋のバーみたいな紙が巻いてある、定番中の定番の花火を取り出す。
「うし、火着けるからこっち来い。風が当たんないよう、壁になれよ」
 私と慎はバケツの傍らにしゃがみ込む。慎が私の持つ花火にライターで火を着けようする。私は花火が咲くのを今か今かと待った。
 かちっ、かちっと幾度かスイッチ押し込む。次の瞬間、かちっと鳴った口の先から、火が吐き出される。日は、花火の先へと燃え移り――この寒空の下、色彩豊かな火花が、ぱちぱちぱちと爆ぜながら、ぱあっと咲いた。
「わぁ……!」
 暗い闇夜の中、小さいけれど楽しい火が灯る。冬は空気が澄んでいるからだろうか。夏の時よりも、花火が綺麗に見えた。
「おい、火をくれよ。そっちの花火が終わる前にさ」
 慎が取り出した花火の先をこっちに向けていた。
「はい、どーぞ」
「さんきゅ」
 私は慎の持ってる花火に、私の花火を近付ける。たちまち火は慎の持っている花火へと移り、私の花火よりも激しく、噴き出すように緑色の火花を散らした。しゅごごごごご、とロケットのエンジンみたいに、花火は咲く。緑色だった火花は、次第に黄色、赤と変わっていく。
「三月、お前の花火消えてるぞ。次出せ、次」
「あ、ほんとだ。えっと、次は……っと」
「早くしろって、俺のも消えちゃうから!」
 そんな感じで、私たちは花火を着け合いっこしながら楽しんだ。
 勢いよく火が着いたけど、ほんの一時しか咲かないのや。湿気てたのか、まだ半分もの残ってるのに消えちゃったのとか。最初は弱かったけど、だんだんと激しく輝いていくのもあって。
 確かに、ロケット花火みたいに派手なのはなかったけど、それでも十分な種類の花火があった。
「熱っ! 手に火がかかった!」
「あはは、なにやってんのよ」
「お前も食らえ、それっ」
「きゃ! こらっ、女の子に花火を向けるな! 火傷したらどうするのよ!」
「女扱いして欲しかったら、もうちょい幼いころより成長した体つきになるんだな」
「なっ……! 言ったなぁ~! 今日という今日は容赦しないんだから、ていっ」
「ちょ、おま! 花火を投げるな! さすがにそれは危ないわ!」
 なんて、馬鹿なこともしつつ。
 楽しい時間は、あっという間に終わりを迎えてしまった。
「あーあ、もう終わりか。でも、楽しかったー」
「いや、まだ終わりじゃないぜ? 花火の締めと言ったら、やっぱこれだろ」
 取って置きだ、と慎が取り出したのは線香花火の束だった
「おぉ、線香花火まであったんだ」
「やっぱ、これをやんなきゃ花火じゃないだろ」
 二人で一個ずつ、糸用に細い線香花火を持ちながら、同時にチャッカマンで火を着ける。今度は、あっさりと火が着き、線香花火が儚い光を灯しだす。
 ぱち、ぱち……ぱちぱち……
 今にも落ちて力尽きてしまいそうな、弱々しい火花を散らしながら、線香花火は静かに咲く。
「……綺麗だね」
「……あぁ、そうだな」
 抱えた膝の上に顎を乗せながら、言葉少なに、さっきほどまでと打って変わった儚い花火を眺める。
 どうしてだろう。こんな小さな花火を見ているだけで、こんなにも穏やかになるのは。前、夏に花火した時も、こんな風だったっけ――
 ぼんやりと考えていたら、ぽとりと火が地面に落ちてしまった。
「あっ……」
 赤く燃えた火花は、地面の上にほんのちょっとの温もりを残して消えてしまう。その光景は、美しくももの悲しかった。
「次、やるか?」
「うん」
 慎から渡された花火を持ち、私は火を着ける。
 次に着けた線香花火は、最初だけ力強く輝き、あとは風に吹かれて消えてしまいそうなぐらい小さく灯った。
 慎も一本目を落としたらしく、二本目に火を着ける。しばらくして、線香花火のように小さく、でもしっかりと聞こえる声で慎が訊ねてきた。
「少しは、元気出たか?」
 私は線香花火から慎へと視線を変える。慎は線香花火を眺めたまま、優しく微笑んでいた。私も、そっと線香花火へ視線を戻しながら頷いた。
「うん、元気出たよ。これで、明日もちょっと頑張れそうな気がする」
 私の言葉に、慎からの返事はなかった。線香花火が爆ぜる音だけが、小さく鳴った。
「……ピアノの先生になるんだ」
「え?」
 唐突に、私がいつだろうか言った言葉を、慎がつぶやいた。
「これ言ったの、この前の花火の時だぜ? それも、今とおんなじように線香花火してるとき」
「……そう、だったけ」
「あぁ、そうだよ」
 言われてみれば、言ってた気もする。高校の友達に、「やっぱりピアノの先生になるの?」と聞かれたとき、そう答えてた気がする。
「すげぇ嬉しそうにさ。綺麗に笑いながら言ってたよ」
「き、綺麗にって……」
 普段、まったく言われないようなことを言われ、思わず照れてしまう。いつも、慎からはからかいの言葉しか聞かないから、ドキッとしてしまった。
「いつもはさ……いや、今まではさ。昔からお前は子供っぽいって思ってたけど、そん時にびっくりするぐらい綺麗でさ。あぁ、お前もこんなに大人っぽくなってたんだな、って思ったよ」
 慎にしては珍しく、やけに素直に気持ちを話していた。ちょっと、照れたように笑う慎は可愛く見えて、なぜかドキドキと心臓が高鳴った。
「でも、よくよく考えたら、お前はすごく綺麗だったかもしれないな」
 慎が花火から視線を私へと向け、見つめ合う形になる。慎の真っ直ぐな瞳を見て、私は驚くほど心を跳ねさせていた。
「お前が、夢を話してる時はさ」
「ゆ、夢……?」
「そ。ピアノを舞台で弾くだの、プロになるだの、先生になるだの。そうやって、夢を話してるときはすげぇ綺麗に見えてたよ。眩しいくらいに」
 慎は少しだけ視線を外し、小さく苦笑いした。らしくねぇな、と漏らしながら。
「いつだっけなぁ。だいぶ昔、お前の部屋でキーボード教えてもらった時、こんな難しいもんを軽々と弾くお前を無茶苦茶すげぇって思ったよ」
 私の部屋にある、小さなキーボードで、やったなぁ。でも、「出来ねぇ」とか「無理だって」とか言ってた慎が、そんなことを思ってたなんて。
「俺はさ、三月みたいに夢なんかないし。だから、夢を追ってる三月が綺麗に見えて、羨ましかったんだよ。だからかな……」
 花火終わってるな、と慎は新しい線香花火を渡してくれた。私は、うんと花火をもらう。
 新しく火を着けながら、慎は話す。
「三月が今みたいに夢を諦めかけてるのを見るのは、すげぇ嫌なんだ」
 初めて聞く慎の思いに、私は驚いて目を丸くしてしまう。まさか、慎がそんな風に思ってるなんて、考えてみたこともなかった。
「自分勝手なこと言ってるな、って思うけどさ。小さい頃から言ってる夢なんだ。だから、傍で見てた俺としても、諦めて欲しくないんだよ」
 照れたように笑っていた顔は、いつの間にかとても真剣なものへと変わっていた。そんな慎を見ていると、私も真面目になっていく。
「俺はさ、別に就職失敗してもいいじゃんかって思うんだ。そりゃ、就職も大事だと思うぜ? 働かなきゃ生きてけないからな。でも、そんな世の中だからさ、夢を追うってのはかけがえなくて、素晴らしいことだと思うんだ。ちょっとくらい失敗してもいいだろ、って思うくらいにはさ」
 揺れるように輝く線香花火が、慎の言葉と重なって見える。例えすぐ火が落ちてしまっても、諦めず輝こうと燃えるその様が。
「夢って叶えるの大変だろ? なら、成功ばっかりするはずねぇじゃん。失敗だってあるに決まってる。だから、失敗するのを恐れちゃいけないって。むしろ失敗を乗り越えていく気じゃねぇとさ。まぁ、失敗するのは怖いと思うけど。……でも、負けないで欲しい、って思うんだ。俺が夢を持ってない分、三月には頑張ってほしいんだよ」
 喋り続けて疲れたのか、慎は一度話を止める。頭を掻いて、私から顔を背けた。
「ただ……辛いときもあるだろうから、そん時ぐらいは、俺で良かったら、力になるぜ。勝手に、お前の夢が叶うことを期待してるんだしさ」
 顔を背けたのは、恥ずかしかったからか。慎のとった可愛い行動に、つい笑ってしまう。
「笑ったりしてごめん。まさか慎がそんな風に思っててくれたなんて、びっくりしたよ。すごく嬉しい、ありがとっ」
 心の底から出てくる嬉しさを、最高の笑顔にして慎へと送る。慎は苦笑気味に、そっか。良かったよ、と頬を掻いた。
 慎は、最後の言葉とばかりに力強く話した。
「ゆっくりでもいいと思う。長い年月がかかってもいいと思う。だから、諦めず夢を叶えてくれよ。この、線香花火みたいに、最後の最後まで精一杯綺麗に輝いてさ」
 ちょっと臭かったか、と口を押さえて慎は笑った。
 うん。臭いかも、と私もいたずらっぽく笑った。
「やっぱり私、夢を諦めきれない。大好きなピアノ、仕事にしたいと思う。だから、頑張ってみるよ。線香花火みたいに、最後まで全力で」
「おう、頑張れよ。困ったり、辛かったりした俺に頼ってこい。助けてやるからよ」
 拳で自分の胸を叩き、いつも通り口の端を持ち上げて笑う慎は、何故かとても格好よく見えた。
「うん、頼りにしてる! 私が就職に失敗したときとか、養ってねっ」
 ハートが付きそうなぐらい、可愛らしく言ってあげる。さすがにこの言葉には、うっ、と詰まる慎。
「ま、まかせろ!」
「きゃ~! 慎、かっこい~」
 その後も、わいわいと言いあいながら、残った線香花火を灯していく。
 こんな儚く、消えそうな光でも、長く長く輝こうと頑張っている。
 なら、この大切で大きな夢を抱える私は、線香花火よりも強く長く輝けるはずだ。
 それに、慎もいてくれる。きっと、私は夢を叶えられる。
 昔から想っている、大事な夢を。叶えたいと思う、心からの願いを。思い出させてくれた慎に、私はもう一度言う。
「慎、本当にありがとうっ」
 これからも、私は頑張っていける。挫けないで、全力で、輝いていける。
 線香花火に負けないくらいに――


「……なあ、三月」
 この前借りた、クリスマスソングのCDを、片耳ずつウォークマンで聴きながら帰っている途中、慎が改まったように切り出してきた。
「なーに?」
「もうすぐ、クリスマスなんだな」
「そうだね。去年は楽しかったけど、今年はどうなるかなー」
「……まだ、予定はなにも決まってないのか?」
「うん、決まってないよ」
「そうか……」
 顎に手を当て、慎は小さくなにかをつぶやく。聞き取れなかった私は、どうしたんだろうと慎の顔を見る。
 慎は私に視線を戻すと、まるで決心したような力強い声で言ったんだ。
「じゃあさ、今度のクリスマスは俺と……――