ターザン山本!(ターザン やまもと、1946年4月26日 - )は格闘技・プロレスジャーナリスト、競馬ライター。山口県岩国市生まれ。本名は山本 隆司(やまもと たかし)。当初は「山本 隆」であったが、お金の貯まらない画数であると指摘されたので「隆」から「隆司」に改名した。愛称はター山、ターザン、落武者、ターちゃんなど。一時期、ビートたかしのペンネームを用いた事もある。太田プロダクション所属。

目次

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• 1 略歴
1.1 編集者、ライターとして
1.2 マルチタレントとして
• 2 評価
• 3 私塾の運営(ひとこと塾)
3.1 評価・実績
3.2 崩壊までの経緯
• 4 ターザンギャルド
• 5 エピソード
• 6 主な著書
• 7 関連項目
• 8 外部リンク
• 9 脚注


1.略歴

編集者、ライターとして


山口県立岩国高等学校時代、バスケットボール選手として新潟国体に参加。立命館大学文学部中国文学専攻中退後、大阪難波の映画館の映写技師や営業担当を経て、1977年に「週刊ファイト」のプロレス担当記者として新大阪新聞社に入社。「週刊ファイト」の編集長だった井上義啓の影響を強く受ける。1980年にはベースボール・マガジン社(以下「BBM社」)に移籍して「週刊プロレス」編集部に入る。その後、1987年には「週刊プロレス」の編集長を、後には「格闘技通信」の編集長を歴任。筆者の思い入れを強く押し出すレポートスタイルを確立し、「活字プロレス」「密航」等の流行語を生み出す。
山本が編集長の時代、「週刊プロレス」は販売部数40万部(公称)を達成した。また1995年、BBM社は団体の枠を超えたプロレス興行「夢の架け橋」を東京ドームで主催しているが、山本はこのイベントの中心人物となっている。こうした山本の活躍は出版業界全体から大きな注目を集め、山本自身の回顧によれば、BBM社の次期社長も夢ではなかったという[1]。BBM社の業務以外にも、副業としてミスターX名義による単行本を多数執筆。最盛期の年収は2000万円を超える売れっ子ぶりであった。
だが1996年、山本率いる「週刊プロレス」は業界の盟主・新日本プロレスから取材拒否を通告されることとなった。この取材拒否を山本は『業界に強大な影響力を持つようになった「週刊プロレス」とターザン山本に対する、レスラーサイドの反発・嫉妬』が原因であり、新日本プロレスによる不当な言論封殺であると各所で語った。しかし2008年、取材拒否を通達したサイドの永島勝司は、自著(「プロレス界を揺るがした10人の悪党」オークラ出版)の中で『山本が(じっさいは地方の試合の取材を行っていないにも関わらず)「新日は地方で手を抜く」と書き、それが原因で地方のプロモーターとの間に軋轢が生じて多大な損害を被ったこと』を取材拒否の原因であると回顧。当時の新日本プロレスの人気・業績は極めて好調であり、山本が言うような“影響力”は観客動員数にはほとんど表れなかったため気にもしていなかったこと、取材拒否は山本の不誠実・偏向的な編集姿勢に対する抗議であったことを主張している。また同書には山本が「新日本プロレスが(ライバル誌の)『週刊ゴング』ばかりを贔屓するので嫉妬してあのような記事を書きました」と永島に語った旨も記載されており、永く信じられ続けてきた“取材拒否事件の真相”に新たな視点を提供している。
取材拒否を受け、山本は後に新日本プロレス宛ての署名入り謝罪文を誌面に掲載した。しかし新日本プロレスは取材拒否の対応を固持。さらに当時同団体と業務提携を結んでいた他のプロレス団体もこの動きに同調・追従。山本は全日本プロレスやインディペンデント系のプロレス団体を前面に押し出すといった新しい誌面作りを計ったが、プロレスファンの支持を得ることは叶わず週刊プロレスの発行部数は減少の一途を辿った。この件をきっかけに山本の影響力は急速に低下。同1996年、雑誌売れ行き不振の責任を取る形で「週刊プロレス」編集長を辞任[2]。その後、BBM社の別会社である恒文社への左遷人事(大幅な減給の上ヨーロッパ文学書の編集を行うことを命ぜられた)を不服として、BBM社を退社した。
以後はフリーのプロレス・格闘技ライター、編集者として活動。“週刊プロレス元編集長”の肩書きを武器に「プロレス激本」「格闘伝説」「SRSDX」「プロ☆勝ち」と多くの雑誌・ムックの編集を手がけるもすべてが短期間のうちに廃刊。また、テレビ・ラジオの仕事も途絶。さらには格闘技・プロレス人気の傾きが追い打ちをかけ、山本の活躍の場は減少の一途を辿った(17)。現在は競馬誌への寄稿や小コラム執筆、トークイベント出演、私塾の講師(後述)として活動中。近年は音楽、美術、映画などへの発言が増えているが、レッド・ツェッペリンを「赤い飛行船」と訳したり、ティツィアーノ・ヴェチェッリオの代表作『ウルビーノのヴィーナス』を「ウルビーノは天才画家」と評したり、映画『猿の惑星』の有名な結末を知らないなど門外漢であることは隠しきれず、「私自身、もうプロレスに興味がなくなった。つまらない。取材する意欲と原稿を書く気持ちにならないのだ(18)には商業媒体関係者との交流が描かれることはなくなり、その日の食事内容やテレビ番組の感想文、私塾受講生への私信が並んでいる。

マルチタレントとして

2000年に浅草キッドに見込まれ、彼ら主催のお笑いライブ「浅草お兄さん会」で初舞台を踏み、その後芸人として太田プロダクションに所属。一時期はビートたけしからもらった「ビートたかし」名義で活動した。2001年にプロレス・格闘技のライター・編集者を育成する目的で「一揆塾」を立ち上げる。2005年から「ターザン山本!」(感嘆符を後ろにつける)と名乗る。同時期、有限会社「ターザンギャルド」を設立。2006年8月、日本テレビ系「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」の企画「芸能人サファリパーク」に出演。2008年には自己啓発セミナー関係者との交流が活発化し、同年3月に「成功法則に基づくマーケティングの実践とビジネスを成功させる会話術・文章術」(20)に講師として参加。しかし翌日の日記に「みんなに受け入れられるようになったら、それはオレたちにとって堕落の始まりだ」と記したり(21)、名刺交換をした社長に営業をかけて無視される等(22)、「ビジネスを成功させる会話術」とは相反する結果を残した。

2.評価

週刊プロレス」編集長として絶大な影響力を誇った90年代前半までは、多くの信者とアンチを生み出し、評価は二分されていた[3]。しかし、BBM社退職10年以上を経た現在でもなお「元週刊プロレス編集長」という肩書きを用いていることからも明らかなように、フリーに転じてからは編集者、文筆家として新たに評価の対象となる仕事を残しておらず、現在は様々なプライベートの珍騒動(「エピソード」参照)をネットコミュニティのプロレスファンに提供するだけの存在として認識、評価されている。   
ライター活動においては、年を経るごとに常識的な事実の誤認や言い回しの誤用、題材の使いまわしが増え[4]、準備不足や理論的破綻をターザン山本というキャラクターで押し切る(これを「炎上」と称する)傾向が強まっている。プロレス・格闘技の試合会場に足を運ぶことは稀であり、またインターネット環境を持たないこともあって、定期購読する「日刊スポーツ」がほぼ唯一の情報ソースとなっている。日本語として成立していない悪文も増加の一途を辿っている[5]
こうした原稿精度の低下に加えて、手書き原稿のPC入力を受け持っていた弟子の歌枕力のミス(「墓穴を握る」「腰を抱えて笑う」等)、各所で繰り返される格闘技・プロレス界を貶める発言、編集者に対する尊大な態度(6)などが原因で業界から干され雑誌等の連載は途絶。恩師である井上義啓の追悼本やベースボール・マガジン社のムック「週刊プロレス回顧録」の出版に際してさえ声がかからなかった。名前を見かけるのは「生前追悼 ターザン山本!」(エンターブレイン)や「プロレス記者生活を総括できない『ターザン山本』62歳の『性衝動』と『才能の限界』」(宝島社・別冊宝島『プロレス「悪夢の10年」を問う』のインタビュー記事)といった、山本の常軌を逸した言動について書かれた暴露本に限られつつある。こうした事情を山本も自覚しており、「この私が自分をさらけ出してプロレスをするしかない」(23)と2008年初から「28歳年下彼女との年の差カップル」を全面的に押し出した売り出し戦略を採り、10月に「62歳のボクに28歳下の彼女が出来たのだ!」(古関夢香氏との共著)を上梓。

3.私塾の運営(ひとこと塾)

人材育成を謳い、2001年に私塾たる「一揆塾」を立ち上げ、その後「実践文章講座」「ひとこと塾」と名称を変えつつ今日に至っている。美術をテーマに据えた「ビジュツイッキ塾」、映画をテーマに据えた「シネマイッキ塾」が開催されることもあるが、近年参加者が激減しており、私的サロンの傾向が強まっている。

評価・実績

これらの塾は体系的なカリキュラムを持たず、山本が独自の「~論」を語るアドリブトークショーの傾向が強い。特に文章講座に関しては、客観的な評価基準が存在せず、文章力そのものよりも山本・受講者間の現実的な力関係(恋人、スポンサー、使い走り等)が課題への評価に如実に表れる傾向がある。また、山本は会社に属さない自分を「狩猟民族」と自称し、社会通念や堅気な日常、故郷や家族に縛られる者は「農耕民族」であり「しょっぱい」として、塾生に対し前者の生き方こそが正しい道であるとのアジテーションを強く行っている。こうした極端な人生指南を真に受けた塾生が実際に会社を辞める、大学を中退する、無計画に上京する、山本の放蕩生活に引き込まれて破綻するといったケースが数々見られ、人材育成塾としてのありかたに疑問の声があがっている[7]。 山本の私塾は2007年まで「編集者&ライター志望者。マスコミ界への就職、転職を希望する者」を受講対象としていたが実績を上げることはできず[8]、2008年からは方針が突如「文章を書くことが人格形成につながる」「自己発見になる最大の近道」(24)「文章の添削にプラスして人格添削もある。そこがミソだ」(25)に転換。後述する自己啓発セミナーとの胡乱な関係を連想させる。

崩壊までの経緯

上記のように文章講座としての実効性に疑問符がつくこと[9]、格闘技・プロレスとは無関係な自己啓発セミナーの様相を呈し始めていること、講師である山本の知名度が著しく低下していることから、私塾に新規メンバーが加わることは稀であった。しかし、山本を慕う私塾ファンも固定客として存在し、喫茶店の有料会議室を貸し切って講座を開く程度の人数は長く維持していた。
だが2008年2月頃、お気に入りの女性塾生の古関夢香に「幹事長」の座を与えて他塾生の人格添削をさせたことや、弟子の歌枕力を切り捨てたこと(「エピソード」参照)などが原因で塾生の数は激減(26)。山本は2008年3月に受講料の大幅なディスカウントを断行し、2009年1月には私塾崩壊の引き金を引いた女性塾生の古関が「卒業」しているが、それでも受講者が戻ることはなく、私塾は事実上の休止状態に陥っている。


4.ターザンギャルド
2005年4月から2009年3月まで存在した有限会社。社長は山本のパトロンである山崎二三代。山本は代表取締役に就いていた。元々は「ターザンギルド」と称していたが、字画が悪いという指摘を受けて「20世紀がアバンギャルドなら21世紀はターザンギャルド」(27)と現在の名前に変更された。山本の借金の一元管理と歌枕への給与支払い目的で設立されたが、2007年5月からは有料講座事業を本格化。しかし、当初アナウンスされた様々な企画のほとんどは実行されず、「山本によるトークDVDの販売」が行われたのみであった。休止期間をおいて2008年3月には代表が「山本隆司(ターザンの本名)」に変更され(28)コンテンツを一新、活動を山本の私塾運営一本に絞り、かつて19800円で販売していたトークDVDを9割引きの2100円で販売するといった方向転換を試みた。2009年2月にターザンギャルドHPは消滅し、2009年4月の「格闘二人祭り」にてターザン本人の口からターザンギャルドが“清算”され、会社組織としては消滅した事実が明らかにされた。


5.エピソード

いしかわじゅん事件

いしかわが週プレで連載していた漫画でストーリーとは関係なしに登場人物に週プロの
悪口(主にSWSバッシングに対して) を言わせた。
それに対抗して週プロの某記者が編集後記でそれを揶揄した。
試合会場でいしかわがその某記者に対し「お前卑怯な真似するな」と恫喝。
その件を受けて山本が1ページ使い「いしかわじゅん氏に告ぐ!我々は一切卑怯な真似などしていない!
反論があれば受け付ける」と啖呵を切る。
翌週の週プロにいしかわの反論(前述の経緯)が1ページ掲載。
山本、それに対して一切反論はせずに「いしかわ氏が他人に対して敬称をつけないのはなぜだろう」などと
論旨のすり替え(逃げ) そのまま一切うやむやに終わる。

試合を見ずに批判

週刊プロレス」編集長時代は「現場主義」を標榜していたが、ここ数年は会場に足を運ぶことなく一方的な断罪を下すパターンが恒常化している。その主張も一貫せず、数日後には正反対の論陣を張ることすらある。
2006年12月31日、京セラドーム大阪で開催された「K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!」興行における秋さ山成勲 vs 桜庭和志戦(通称「ヌルヌル事件」)について、悪罵を浴びせる猛批判を展開。怒りの矛先は次第にマスコミに向かい、ついには「桜庭vs秋山戦でわかった格闘技界の惨状 マスコミの犯罪行為」(ターザン山本&一揆塾名義)と題した電子書籍をまとめるにまで到ったが、この時点で本人は実際の試合を全く見ておらず、もっぱら「日刊スポーツ」の記事と出所が定かでない噂や伝聞に基づいているだけであったため、その主張は著しく説得力を欠いた。また攻撃の矛先を向けられたマスコミも取材期間を置いて月刊誌等でこの試合の検証特集を組んだため、論拠の薄い山本の稿は忽ち陳腐化した。
2007年11月11日、両国国技館で行われた新日本プロレスの興行でIWGPヘビー級選手権戦として棚橋弘至 vs 後藤洋央紀が行われ、プロレス大賞ベストバウト候補にも挙げられ、低迷する新日本プロレスに復活の兆しが見られたと高い評価を受けた。しかし山本はスポーツ新聞で試合結果だけをみて、フィニッシュ技がテキサスクローバーホールドだったことを痛烈に批判し、「将来を断たれた」「頭がおかしい」「プロレスわかってない」「想像的貧困丸出し」「アホ」と酷評(29)。当日会場に詰め掛けたファン・マスコミとの著しい乖離を露にした。
2008年4月13日、横浜アリーナで開催されたK-1ワールドGPにおいても、試合会場で居眠りと馬券チェックに没頭していたにも関わらず(30)、「私だったら、こんな無神経でデリカシーに欠けるカードは組まない。極論すると、ビジネスを考えていない」「まったく、『K-1』は何を考えているのかと言いたくなってくる」と、興行を一刀両断にしている。

カクカク詐欺

「ネタは山ほどある。書きたいことはいくらでもある。ただ、それを私はやっていないだけ」「才能は有り余るほど持っている」「私が小説を書いたら直木賞は確実」等と常々語り、小説執筆を公約している。ウェブ日記で「明日から小説を書く」と決意表明することが誕生日や新年、季節の変わり目、月替わり初日の恒例となっているが(31)、一向に執筆に着手する様子はなく、周囲から「カクカク詐欺」と揶揄されるまでに至っている。同業者に「書かないのではなく書けないだけなのではないか?」とこの件を厳しく追求された際には(32)、「あれだけボロカスに言われたらさすがの私も考える」と反省の意を表したが、わずか3行後には「まあ、考えても仕方がない」という結論に至っている(33)。原稿を書かない理由を山本本人は「時間がないから」と語っているが、小説執筆を再三勧めている吉田豪[10]からは「あなた時間しかないですよ」という的確な指摘が入っている。また、尾崎魔弓の熱狂的なファンとしても知られる堺屋太一からもかつて、お金持ちならぬ「時間持ち」と呼ばれたことがある。

お布施人生をまっしぐら

仕事数の激減ならびに競馬へののめり込みにより、山本の経済状況は困窮を極めている。ついにはweb日記上で「これからのオレは「お布施人生」をまっしぐらだ」と宣言(34)。私塾の受講者を名指しして切手、高級石鹸、銭湯の入浴券、原稿用紙、映画チケット、美術展チケット、ボディソープ、シャンプーの供出を指示した。なお、受講者が供出した切手を換金したと思しき描写(4月12日に届いた60枚の切手(35)がその翌日にはほぼなくなっている (36))がある。トークショーではもらったパソコンを秋葉原で換金したと自ら語っている。
2008年4月、古関夢香にサイパン旅行をねだられた際にも、競馬での一攫千金を狙って失敗(37)したのちに、私塾の受講者へ「彼女とのサイパン旅行のカンパをしてくれない。ついでに君の親父さんにもカンパを頼んでよ」(38)とのメッセージを送った。また、山口の実家で法事が行われた際には、実姉と実妹に、自分と古関の飛行機代・宿泊費を要求。他にも長野への出張時、同行者の吉田豪に古関の電車代を借りるなど、この種の話題にはこと欠かない。

格闘二人祭~逃走としょっぱいギャラ交渉~

『格闘二人祭』と題したトークイベントを吉田豪と共に開催している(不定期開催)。しかし山本は前述の通りプロレス・格闘技に対する興味をすでに失っているため、リアルタイムで活動しているライター・ファンの話題についていくことができず、イベントのホストの役割を果たせなくなっている。また、本人の同イベントに対する意識も希薄で、題名を『格闘技二人祭』と誤ったままプロモーションビデオを作成し、吉田を失望させたりなどもしている。2006年2月の二人祭においては、司会者(吉田)とゲスト(金澤克彦)に的外れな質問をぶつけて2人に無視され、これに腹を立ててイベントの途中で退席(39)。また、2008年7月の同イベントにおいても、かつての部下須山浩継が「今回のイベントにおける山本さんの存在感の無さはどうしたことか」「ほとんど置物状態」と驚きのコメントを漏らすほど精彩を欠いており、「終電がなくなるので」と途中退席している。
山本がこのような状態であるため、二人祭の実務運営は実質的に吉田1人で行われている[11]。吉田は自分の取り分を削って山本にギャラを支払っているが、そんな吉田に対して山本はギャラに対する不満を漏らし、さすがに呆れた吉田は「じゃあ、次回からは『吉田豪とGK金澤の格闘2人祭』にするということで」と漏らしている。また、別の回で再び山本が「こんなギャラなら、もう二度と二人祭には出ない!」と激怒しながら宣言した際には、会場スタッフが「じゃあ僕からもギャラを1万円づつ出します!」とフォロー。これを聞いた山本は「それならこれからもやる。今のは飽くまでも私のキャラクターだから。」と大喜び。吉田に「今時こんな(60才を超えた人間が取る行動とは思えないみっともない)光景が毎回二万で見られるなら、面白いよね。」と呆れ混じりのネタにされる始末であった。
吉田は山本のこうした現状に業を煮やし、隔月開催の同イベントを各季ごとに減らすなどの処置を執っていたが、2009年4月の同イベントではついに「山本さえいなければ面白くなる」「次のイベントの出来次第では山本を切る」と発言するまでに至っている。

稲取温泉しょっぱい葡萄事件

2007年1月に稲取温泉観光協会事務局長の募集に応募するも[12]、書類選考で落選。これを受けて山本は、稲取温泉はおろか観光業や温泉にまったく無知・無縁であるにも関わらず「普通に考えたらボクは受かる」と断じ、公募を「八百長」と糾弾した(40)。最後に「やっぱりしょっぱいものにかかわったら時間のムダでした」と捨て台詞を吐くものの未練は断ちがたく、数日後には協会事務局に対して抗議文を速達で送りつけている。なお、山本が提出した活性化計画は、伊豆の温泉をまとめて「温泉博」を開催し、混浴タワー、混浴ハウスを作るという、予算を考慮しない、実現の見込みの薄いものであった(41)

狂乱の4日間

2007年3月29日、山本は私塾受講生達と花見に興じた。しかしその後、一部の受講生が連れ立ってキャバクラに出かけたことを知り、「自分は誘われなかった」と激怒。自慰で怒りを発散し、翌早朝に各人にポストカードの抗議文を投函、とりわけ首謀者と目した者には便箋8枚に綴った抗議文を送りつけ(42)、これらの顛末を記した日記に『精子悲哀』なる題名を冠した。翌日(43)も月の生活費が15万円であることを告白する『自他放火』なる日記を、続く3月31日(44)、4月1日(45)には全生活費を競馬に突っ込みそのほとんどを失った顛末をアップし、『精子同盟』なる題名を冠した。

猪木に土下座

2007年4月下旬に行われたアントニオ猪木をマスコミが囲む会において、山本は「猪木さんが来てくれればボクの顔が立ちます」と土下座し、週末に行われる自分の誕生パーティーへの来場を懇願した。このことは金澤克彦によって暴露されたが(猪木側の返答は、「検討します」とのこと)、当日の山本の日記[46]では一切触れられていない。
当日、中京地区で営業活動中の猪木は誕生パーティーには来場せず、花束だけが届いた[47]。予め誕生日の参加者に「花束だけはNGさせてもらう」[48]と宣言していただけになんとも気まずい贈り物となったが、山本は日記には「ありがとう、猪木さん」と記している。こうした事情との因果関係は不明ではあるが、土下座直後の4月23日から突如として始まった「猪木さんについて」[49]なる猪木礼賛の連載は27日[50]で途切れ、その呼称も29日には「A・猪木」と呼び捨てに転じている[51]。

不幸を呼ぶ恋人弁当

2008年1月30日、恋愛関係にある女性塾生の古関が派遣されている金融機関に自らチョイスしたオリジン弁当を届けた山本は、当初は「恋人弁当」「みんなやったら? 彼女は喜ぶよ」と得意満面であった[52]。しかし、古関が派遣先の責任者から厳重注意を受け、立場的に追い詰められたことを聞かされ、山本は大炎上。責任者に事の次第を報告した(山本曰く「告げ口をした」[13])受付の女性に対して「一部上場の会社なのに、50代のおばさんだよ、おばさん。普通、受付嬢は若い女性だろう。何を考えているんだ、あの会社。アホかだ。受付が太ったおばさんだったら、こっちの景気まで悪くなってくる。最悪だ」と、自分の年齢(61歳)は棚に上げて毒づいたのを皮切りに、「おばさんの実人生には何もいいことがないんだろう」「夫にも誰にも愛されていない」「お前なんか死ね、死ね、死ね、死んでしまえだあくそババあ」と、罵倒の限りをweb日記にぶちまけた[53]。[14]。なお、この“弁当テロ”が原因であるのかその後の日記の内容が不適切であったせいかは定かでないが、古関は銀行側から次期契約を延長しない旨を通告された[54]。同日のweb日記に山本は「起こったことは仕方がない。ただ、起こったことをどう解釈するかは絶対的自由なのだ」[55]とのコメントを寄せている。

歌枕力との決別~私塾崩壊の序曲

2008年1月、8年間連れ添った弟子・マネジャーの歌枕力と決別した[56]。古関との交際にのめり込んだ山本が日記原稿の納品を遅延し、PC入力係の歌枕に負担を強いていたこと/博多ターザンギャルドからの給金が滞っていたこと/そんな状況にあるにも関わらず山本が古関を伴って博多に遊びに出かけてしまったことなどが原因の喧嘩別れだった。当初、山本は「歌さんといい形で"別れる"ことになった」と円満な別れをアピ-ルしていたが[57]、後日塾生が歌枕の送別会を企画するとこれを自分へのあてつけと見なして激怒。「いい別れなんてない」「いい別れを演出しようとする人がいたら、余計なことはするなである。ほっとけ。お前には関係ない。それでもしつこく言うなら、お前とも縁を切る。オレのルールに踏み込んでくるヤツは、オレはかまわずぶった切る。間違いなく」[58]と、「いい別れ」ではなかったことを図らずも自ら吐露した。送別会を企画した塾生はこの事件を機に山本から距離を置き、この後に続く塾生大量離脱の端緒を開いた。

塾生と性的関係に~私塾の完全崩壊

私塾の女性塾生である古関と恋愛関係に陥り[15]、2008年4月、ターザン・カフェ内に古関の日記コーナーを設けている。また前述の通り、古関に「幹事長」なるポストを与えて塾生の人格添削をさせている。こうした特別扱いがきっかけでほとんどの塾生が私塾を離脱。2008年末、古関は日記上で私塾の「卒業」を宣言したものの、去っていった塾生たちが山本の元に戻ることはなかった。

プレスパスを使って「彼女自慢」

2008年3月15日、DREAM旗揚げ興業を記者席から観戦。プレスパスを申請しての「取材」であるにも関わらず古関を初めとする塾生たちを引き連れており、さらには古関を伴ってインタビュールームに押しかけ、谷川貞治をはじめとする関係者に手当たり次第「彼女自慢」を行った[59]。なお、紹介の言葉は「おい、谷川! 彼女、34歳!」であった。
2008年4月5日にも、「行って夢香ちゃんをみんなにみせびらかせよう」と、全日本プロレスの後楽園ホール興行に出向き、取材の名目で申請したパスでともに入場。わずか2試合を見ただけで会場を後にしている。この一連の行動は、井上譲二(元「ファイト」紙編集長)らプロレス・マスコミ関係者の顰蹙を買い、また、DREAM公式BBSにおいても一般の格闘技ファンから「タダ見をした奴らがいる」「ちゃんと料金を出した客を舐めています」との批判を浴びた。

ラジオ番組で性生活を吐露

2008年3月27日、「テリー伊藤のってけラジオ」に古関と共に出演。彼女の家族が番組を聞いているにも関わらず、新小岩のラブホテルで性的関係を結んだことなどを赤裸々に告白した[16]。性生活の吐露に関して山本は「愛し合っていたら自然なことだし何も隠す事などまったくない。この件については私は外国人のスタイルをとる」と語っている[60]。

インタビュー革命

2008年4月、『プロレス「悪夢の10年」を問う』(宝島社)に「プロレス記者生活を総括できない『ターザン山本』62歳の『性衝動』と『才能の限界』」と題するインタビュー記事が掲載された。3月の取材時、インタビュアーは山本のカクカク詐欺、言動の矛盾、私塾の生徒に手をつけたことを追求し「ターザン山本のどうでもいい恥は(日記に)書けても、山本隆司の恥は晒せない」と断ずるなど、山本の予想を遙かに超えた“シュート”な取材を挑んだ。恋人同伴で取材場所に現れて“プロレス”をする心づもりであった山本は激しく動揺。日記には辛うじて「まあ、なんとか私は彼の追及をかわした。のらりくらりの戦法」と記したものの[61]、翌日は日記を半休して床に伏せることとなった[62]。
しかし、本が上梓されインタビュアーのシュートな取材姿勢が評価されると、「私はそれに対して逃げることなく堂々と受けて立った」「どうだ、見たことかである」「インタビューに革命を起こしたのと同じである」とあたかも自らの著作であり自らの手柄であるかのように態度を一変[63]。さらに山本はこの好評に便乗しようと自ら"インタビュー記事への反論文"を執筆。しかし反論文は「Gリング」編集長金澤克彦から掲載を断られ、『ケーフェイ 4―プロレス&格闘技「タブー」伝説』(インフォレスト株式会社)に収録されるに留まり、件のインタビュー記事のような話題を呼ぶことはなかった。

ネットとの関係

山本は長い間「自分はPCを持っていない、だからネットは見ていない」旨を公式の立場として表明し、インターネット上の批判と切り結ぶことを回避していた。しかし、2008年7月5日、「古関の学歴詐称疑惑」をインターネット掲示板ならびにメール経由で指摘された山本は、ウェブ日記上にて「だから私はネットをみないのだ。面倒臭いというかバカバカしいというか、すべてがくだらないのだ」[64]「ネットってヒマな人たちの集まりだよ」「まずそういうヤツはモテないよ。モテようがないだろう」「共同トイレの住人」[65]とインターネットユーザーに対する批判を展開。識者によるこうしたインターネット批判自体は特に目新しいものではないが、その文筆活動と収入のほとんどすべてをウェブ日記に依存している人間の言葉としては明らかな矛盾をはらんでおり、「ならばそのようなくだらない場所、共同トイレの住人相手の仕事からは勇退すれば宜しい」といった指摘がウェブ日記運営会社へと大量に寄せられる自滅的結果を招いた。

カップル本惨敗、そして古関との破局


シネパラの会、発足前に頓挫

2009年4月、人が集まらないシネマイッキ塾を解散して、新たにシネマ・パラダイス(シネパラの会)を
発足。しかし発足式に講師である山本がまさかのドタキャンであえなく消滅。元々参加者がほとんど
いなかったため大きな混乱は無かったが、身内からも非難されるはめとなった。
ドタキャンの理由について、山本は「いやな予感がしたから」と説明したが、一説では普段からネット住民
に対して「文句があるならオレの目の前で言え!」と噛み付いてたことで、「今日行くから逃げるな」との
メールが届いたから逃げたのではとも言われている。この日は待ち合わせの渋谷109前に、10人以上の
ウォッチャーが集まったとの噂もある。(真偽は不明)

新たなブレーンの暴走

2009年3月には新たに情報ホームページ[66]が立ち上げられている。山本はこのホームページに「法律絡むと日本のサーバー管理よりアメリカの方がよほどIP晒しと情報開示、対応が早いって事! 笑いましたよー。ま、ネットっていう武器を少しずつ身につけたら当然でしょ」と記し、インターネット上のアンチファンに対して法的処置をとる旨を宣言した。しかしこの文章が山本の手によるものではないことは文体・PCに関する知識量からして明白であり、また、YouTubeにアップされた公式動で画像と音源の無断使用が行われているなど、ホームページの内容は首を傾げる箇所が散見された。こうした奇妙な動きを目にした吉田豪は「明らかにターザンじゃない人がターザンを名乗って、ネットの住民に噛み付いたり、本当に変な事になっている。下手すれば(山本本人に火の粉が降り掛かりかねない)問題になるでしょう」と警告を放った。後日、イベントの席で、吉田からこのホームページならびに"宣言"を直接見せられた山本は「これ何なんだ一体?」と唖然。件の"告訴宣言"はホームページの管理者が山本に無断で、山本の名を騙って書いたものであり、また、山本がこのホームページの内容をほとんど把握していないことが判明している。

なお、この管理者は自身のブログ(67)に自分自身が公開して転載された個人情報を巡り、転載先の2chに警察を介入させる旨2ch削除人サイドに通告するも、結果的にこの「脅し文句」が原因で削除人に削除判断を凍結される失態(68)を招いたり、公式ホームページでWikipediaの記述を引用しながら、Wikipediaの山本にとって都合の悪い項目の大量削除を自分自身で行っていた事が削除履歴から暴露されてしまう(69)など、山本の現状をさらに悪化させかねない行動を取り続けており、今後の山本自身のこの管理者に対する対応も含め、動向が注目されている。

哀しき乳首ダンス


ついに博多の山﨑会計事務所から斬首




脚注
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1. ^ ただしBBM社は同族経営の会社であるため、次期社長うんぬんは山本一流の言い回しと見るのが妥当。
2. ^ 一説では、この時期山本がプロデュースしたBBM社主催「全日本女子プロレス」の日本武道館2連戦興行が莫大な赤字を計上したことが原因ともいわれている
3. ^ 近年、暴露本の出版やインターネット上の情報が増えたことにより、「週刊プロレス」編集長時代のいわゆる名コピー、名コラムの数々が山口日昇や堀辺正史といったブレーンからの受け売りであったことなどが明らかになってきている。こうした事情も相まって「当時の時代状況でのみ編集長として能力があった」「BBM社というバック、及び当時の編集部を支えた有能な人材があって初めて能力を発揮できた」と、往事の「実力」に疑問符をつける声も出てきている。
4. ^ 誤認・誤用の例は枚挙に暇がなく、ここでは『「トッピング」を追加注文のことだと思い込んでいる[1]』『イチローにチーム優勝の経験がないと思い込んでいる[2]』『トルコの首都をイスタンブールだと思い込んでいる[3](ネット掲示板で誤認を指摘され、「トルコの首都」を「トルコの有名な都市」に修正済)』を挙げるにとどめる。題材の使い回しについては、井上譲二が「同一原稿内でさえ何回も同じ事を書いている」と山本本人に指摘している。
5. ^ 「彼は言葉を持っているという武器がある[4]」など。
6. ^ 『プロ☆勝ち』(マガジンボックス社)が創刊即廃刊となった際には「マガジンボックス社にはそれを正当に評価する技量がなかった。それがまずだめな部分。発売されてからも反応はゼロ。ただ本を出しただけという感じ。それであなたたちは本当に編集者なの? 私は疑ったよ。天下のターザン山本が作ったんだよ」とコメント。ちなみにこの雑誌は「特選外車情報F-ROAD増刊8月号」として企画されたため、売れない限り次はなかった可能性が大きい。
7. ^ 8年間を山本の付き人として過ごすも山本の個人的事情から馘首され(後述)業界からフェードアウトした歌枕力や、山本の出版を援助し続けた事が祟り、社長辞任・退職に追い込まれた元新紀元社社長などがその筆頭。他にも、「都会強奪」などと煽られて静岡から上京したライター志望者[5]は、連日連夜山本と「遊びほうけ」続けたが、次第にその無益な放蕩生活に疑問が生じ、山本に絶縁状を送りつけ[6]数ヶ月の肉体労働に就くものの生活を立て直すことはできず、最終的には無一文で帰郷する羽目に陥った。山本はこの塾生に対し「いい経験になったはず。だから、挫折とは関係ない。立石留学卒業だ。おめでとうと言うべきである」との言葉を残しているが[7]、この塾生は山本がかけた別れの挨拶の電話に出ることもなく帰郷を果たしている。また、現在の日記入力係を務める塾生の一人には「一橋大学中退って格好いいよ」と大学中退を薦め、最終的にはこの塾生はその言葉通りに大学を中退する結末に至った。[8]
8. ^ 山本は雑誌「プロ☆勝ち」で受講生を編集手伝いとして起用したことがあるが、この雑誌は創刊号が廃刊号を兼ねる結果に終わった
9. ^ 2008年2月28日、文章添削を行う山本の動画がインターネットにアップロードされたこと(博多で行われたセミナーの宣伝の一環)、2001年11月26日の同志社大学今出川校地で行われた講演会レポートがアップされたこと[9]、私塾講義内容の音声をポッドキャストと称して公開したこと[10]などから私塾の実態が外部にも明らかになったが、その内容は上記で指摘があったアドリブトークショウの裏書をするものだった。
10. ^ その一方で、自身のポッドキャストでは「言うだけ言って引っ込みが付かなくなってるだけと言うのは誰が見ても明白。だからもうこちらからは何も言わないし、期待もしていない」と突き放している。
11. ^ 2007年7月2日、「ターザン山本!と吉田豪の格闘2人祭り!! vol.32」において、ゲストが途中退席するというアクシデントが発生した[11]。山本は「すべて豪ちゃんにまかせて勝手に控室にもどった。豪ちゃん、頼むよである」「豪ちゃんの説得はきいた。というよりも謝り続けたようだ」と事後対応を吉田豪に丸投げ。なお、以前2005年に「次回からは自分がイベントのプロデューサーを務める」と主張したことがあったが[12]、山本はゲストを用意できず、吉田豪が全面的にカバーしたことがある。また、山本自身が当時の塾生を始めとする吉田と面識の無いゲストを多数呼んだ回の際も、山本は会の途中でゲストを置き去りにして古関と共に何処かへ立ち去ってしまい、吉田が半ばホスト役になる形で面識が全くないゲスト達を相手になんとか会を切り盛りせざるを得ない事態に陥った事もある。なお、その際に山本が古関と共に控室でカレーを食べている様子が会場スタッフにより暴露され、吉田のみならずその場に居たゲストや観客全員を呆れさせる結果にもなった。
12. ^ 仕事量の激減に危機感を覚え、年俸700万円、家賃無料の戸建つきという好条件に釣られたという説あり。
13. ^ しかしながら、怪しい風体の初老男性がアポなしで銀行に訪ねてきて、自らは名乗ることなく女性従業員を「ちゃん」付けで呼びつけようとするさまを警戒するのは、金融機関の受付として当然の行為である。
14. ^ このように理不尽な罵倒と、それを公開した例として「ぬるいビールを出した和民の店長に土下座を強要した」[13]事件や、「連絡の行き違いを理由に雑誌編集者を自宅で土下座させた事件(後日、一連の顛末を日記で自慢した事が原因で、その雑誌の次期連載は立ち消えになった)」などがある。
15. ^ 2008年2月14日に山本への感謝、愛情の言葉がちりばめられた彼女の作品がweb日記にアップされた[14]。これに対して山本は「明らかに力作だ。添削するところがほとんどない」[15]なる評価を与えた。
16. ^ なお、「パリジェンヌじゃないか。横顔を最初に見て、それから正面を見るとダブルインパクトだ。愛されているという実感が、ここまで人を美しくさせるのか」[16]と山本が評し、伊東美咲似の美女と噂されるなど、幻想が巨大化していた古関の顔写真も同日のラジオ公式サイトに掲載された。
17. ^ 再版された数が少ない。これはプロレス関連ということで需要が狭いことも関係する。2002年頃からは私塾の塾生でもあった新紀元社の当時の社長(山本のペンネームである「ターザン」を名乗る事を許される程、山本に強く入れ込んでいた)の庇護の元で多数の書籍を出版したが、社長の退任・退社(同時期に私塾も「卒業」してフェードアウトしている)を機に、同社からの出版の機会も失われた。近年、テリー伊藤の経営する出版社から古関との共著を出版したが、当のテリー本人からはラジオ番組で「何処からも出版を断られ、最後に俺の処に泣き付いてきたが、完全に赤字の本。数百万は丸損した。」とぼやかれる始末であった。

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最終更新:2022年07月29日 04:55
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