白の石壁


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   1

 久しぶりの休みで、邦彦は心ゆくまで自分のコンピューターに没頭する気でいた。
 昨日の夜、閉店まぎわの本屋でかすめとるように買ったオンラインソフト集。数日前に買ったメモリ。それから、もっと前に買いこんだWindowsレジストリカスタマイズの解説書。
 白々と空の色の変わり始める時分に起きて、ともかくバックアップ作業からはじめようと、混沌としたハードディスク内のファイルやフォルダの整理から手をつけた。
 いつやるとも決めないまま放り込んだゲーム。ADSL回線にしたのが嬉しくて、手当たり次第にダウンロードした音楽や、ジョークソフト。深夜の手持ちぶさたな時間に、数々の広告や認証画面にも耐えて、あきれるほどの根気で探しだしたいかがわしい画像の数々。そういったものが、部屋を掃除するときのような、すてがたい懐かしさを引きつれてきた。
 自分の残しておきたいものをすべてバックアップすることもできたが、一時期急にはまったアイドルの画像とか、友達から何かのはずみでもらった、みかん星人がデスクトップ上を落下するソフトなどは明らかに必要ないと思われ、しかし永久に消してしまうのは惜しい気もして、思わずしばらくつきあってしまう。
 いつのまにか食事もとらないまま昼になっていた。
 健太郎から携帯に電話がかかってきたのは、そろそろご飯をつくろうかな、などとぼんやり考えていたときだった。
「今、ひまか?」
「別にひまでは……」
 邦彦は健太郎の妙な押しの強さが苦手だった。
 しかし嫌いというわけではなく、むしろ親友といってよい。大抵の願いなら聞くつもりでいるし、何かに誘われれば、なるたけ都合をつける。
 ただ今回はタイミングが悪かった。しかも相手は、邦彦のそういう事情を羽毛のように軽いものとしか捉えない人間だった。
「ちっとつきあってくれ」
「は?」
「髪切りに行こうぜ」
 それは困ったことに、魅力的な誘いだった。
 もし今日、コンピューターをいじりまわすのでなかったら、まさにそうしていたかもしれない。
 二ヶ月前に刈上げただけの頭は、いいかげん鬱陶しくなりかけていた。鏡にうつる自分の姿や、風呂場で洗うときの面倒くささの他に、同じサークルのやたらと気の細かい女、留美に、ことあるごとに「うざったい」といわれるのが妙に心に引っかかっている。
 今日行かなければあと二週間は行かないと思われた。
 それは想像の中で、路上生活者のごとき頭になっている自分の姿とかさなった。
(イメージに躍らされるのは癪だな)邦彦は心の中でつぶやき、電話口では「うぅん」と曖昧な返事をした。
「なんだよ。何かあるの?」
「いや、特には」
 健太郎も、邦彦が煮え切らないのはいつのもことだとわかっている。邦彦にはそれが苛立たしかった。そこまでわかっていながら、なぜ、こう察しが悪いのだろうか。
 しばらくどちらも喋らなかった。
 あるいは、と邦彦は思った。自分がさそっているのに、それにのらないということは、健太郎にとって、一種の裏切りなのかもしれない。たとえば、人の好意を無にするといったような。
「まぁいいや。いこう」
「よしっ」
 健太郎は二時ごろそっちに行くと言い、邦彦はそれに同意した。まぁいいや、という投げやりな態度に気分を害した様子を見せないのが、いいところだと、ポツリと思った。電話を相手が切るのを待ってから切る。いつものことだった。自分が健太郎の誘いに心から気分良く応じることは滅多にないとはいえ、完全にそれを断ることもほとんどない。
 メモリを増設することで、ソフトの起動が早くなる。画面がフリーズすることも少なくなる。オンラインソフト集は、オモチャ箱だ。音楽再生ソフトや、文章入力支援ソフト、カレンダー、そして快適に操作できるようにするための、様々なユーティリティ。それから、いままでいじりたくてもいじれなかった、Windowsのシステムを構成している、レジストリ。そこに手をつけることは、ブラックボックスの中身をのぞくような、ラジオや車の部品の一つ一つを眺めて、その全体の中の働きに思いをめぐらせ、複雑な機構をすみからすみまで知りつくす時の喜びに似ているだろう。
 もちろん、レジストリにちょっとばかり詳しくなったところで、Windowsのすべてを知りつくすには程遠い。複雑な機構のすみからすみといったところで、物理的な、マザーボードとかプロセッサなどという部品についてまで詳しくなれるわけでもない。
 しかし、邦彦はそういうことは忘れることにしていた。そんなマニアックなことまでは、と思うのである。とても手を伸ばす気にならないし、あまり充実を感じそうにもない。最も、自分もある程度はマニアックなのかな、と頭の片隅でうっすらと感じてはいる。
 邦彦はぼんやりとコンピュターのユーザーサポートの解説書を手に取った。灰色の後悔が胸に広がる。解説書には、本体カバーの開けかた、ケーブルやマザーボードのはずし方、メモリの増設の仕方や購入するべき種類などが比較的簡単に書かれていた。一ヶ月ほどまえから、ヨドバシカメラに行ったり近所の本屋をうろついたりしながら準備をすすめていたのである。この解説書は、いわばその準備のための「核」だった。ここに書かれている性能を考慮して、または指示に直接したがって、邦彦の行動は決定されていたのだ。
 「人の情を無下に捻じ曲げてはいけない」。それが邦彦の世間をうまく渡っていくための一つの目標だった。自分が苦手だと思っているから、あえてそのような格言めいた言いまわしにして胸のうちにおさめている。それは親に教えられたものではなく、他の誰かから諭されたのでもなく、自分の苦い経験から発芽したものとして保持している。世間において、孤独だということは、自分にとってよりもそれをとりまく他人にとって罪悪なのらしい。朗らかな笑みを浮かべた「お友達」が、自分の意思とは無関係に遊びにつれていってくれる、それを嫌がったことに対する判決は、冷淡さであった。
 暖かくもなく冷たくもないぬるま湯のなかにいたかったもんだ、などと思春期を過ぎたあたりで、苦笑まじりにつぶやいたのが、どういうわけかことあるごとに思い出される。
 「人の情を無下に捻じ曲げてはいけない」。それは、一方では周りの冷淡さから身を守るためのヨロイだった。しかし、もう一方では、意のままにならない、好きなときに放っておいてくれない「友人」たちとの、意思を通じ合わせるための扉ともなったのである。人の群れのなかに交わるのは気分の良いものではなかったが、時々は心が浮き立つこともあり、それは時々から次第に「彼らといれば大抵は」というものになっていったのだ。相手に身をまかせることによって、時には自分の権利も主張できるようになった。
 邦彦は手に持った解説書を机の脇においた。そしてなおも未練がましく、インターネットにつないでみたり、昔のメールを読み返したりしていた。他人の好意(とは限らないかもしれないが)をはねのけるのは悪いな、とごく自然に考えている自分を、客観的に外側から見ているのをぼんやりと感じた。
 昼の光が窓から部屋いっぱいにひろがっている。秋の、明るい気持ちの良い日だった。空腹感がましてくるにつれ、無為にコンピューターの前に居座っているのも飽きてきて、部屋の二階から台所まで下りた。
 母親は仕事でとうにいない。庭で犬が何かかぎまわっているらしい気配があった。五歳になる、ビーグル犬の血が濃い雑種。耳と鼻面が長い。ガラス戸をあけてちょっと見てみると、どうやら地面をかぎまわっているらしい。主人の姿に気づいて、道で知り合いにでもあったかのような、何気ない仕草でワンワンと吠えた。うおーい、と声をかけると、ワンとまた一つ。邦彦が戸をしめるのに前後して、ふたたび何が気になるのか、地面をかぎはじめた。
 戸棚と冷蔵庫をあさって、カップラーメンとレンジで温めるだけのチキンピラフ、どちらを食べようか迷った。ご飯を炊いてきちんと食べたいというのもあったが、それでは健太郎がくるのに間に合わない。チキンピラフと、もう一つ、ストックしてあるプーアール茶に決めた。
 小さな薬缶に水を入れる、火にかける、ティーパックを二つ中に入れる。できあがりの時間差をなくそうと考えて、外の郵便受けを見て、何も無かったので戻ってテレビをつける。ちらちら時計を見ながら、五分たつ。ピラフの袋をやぶく、皿にバラバラと半分の量を出してレンジにかけた。
 プーアール茶のほうがいくぶん先にできた。コンロの火を消して湯飲に茶色の液体を注ぎかけたところで、レンジがピッピッピッと音を立てた。
 テレビは昼のバラエィ番組である。


 ドアを開けたところで、健太郎は無邪気に立っていた。自然と頭に目が行く。邦彦ほど伸ばさないので、いがぐりめいている。散髪すれば脇もうしろも頭頂あたりまで刈り上げる。
「CD持ってきた」
 肩から下げたカバンをごそごそやっている。やがて取り出されたのは、地元出身の「B**」というバンドのアルバムCDと、ついでに漫画が一冊、プレイステーションのゲームが一つだった。
「ゲームやる暇はないけどなぁ」
 ケースを見返しながら邦彦は言った。
「前にやりたいっていってたから。ついでに」
「ああ。ありがとう」
 CDと漫画の礼もふくめて言う。ゲームは「ウィザードリィ」の一部から三部までをまとめて入れたものである。一番初めに発表されたのは、十年以上前になるだろうか。その後様々に版を重ねている。コンピューターゲーム黎明期の名作、いまさらという気もするが、邦彦には何となく興味があった。第一、いまでも人気のあるシリーズだ。
 漫画は小林よしのりの「戦争論」。大学で、まわりに読んでいる人間が多いので、どういうものか目を通してみようと思った次第。
 近所に住むもう一人の友人、雅志が頭から毛嫌いしているのだったが、それを冷やかそうという動機もあった。彼に言わせれば「そんなものはまるで読む気がしない」そうだが、何も見ずに嫌うのは、どうかしているとしか思えなかった。
 健太郎を待たせて、自分の部屋に戻る。書棚から何か彼に貸すようなものを探したが、めぼしいものはなかった。このところ邦彦は、コンピューター関係の書籍ばかり買いあさっていたのであり、健太郎は一応自分でコンピューターを持ってはいるものの、素人同然。それ以上に知識を深める気配もないのであった。
 邦彦は軽くため息をつくと、ジャケットを羽織って玄関に出た。
「何もなかった。ごめんな」
「別にいいよ」
 邦彦がドアに鍵をかけている間に、健太郎は門を出ていた。
「B**、どうだった?」
 頭の中にぱっと浮かんだ疑問がそのまま口をついて出た。メンバーが地元出身で、健太郎にいたっては小学校で同級生でもあったという。高校のころにバンド結成、卒業後二、三年インディーズで活動していたが最近になってメジャーデビュー。テレビのチャートでも二週連続でトップだった。
「いい。……同い年だろ? だからむかつく。が、普通に、いい」
「ふうん」
 邦彦はCDのジャケットを思い出した。
 絵に描いたような好青年たちが空を見上げていた。いつから茶髪はそれほど騒がれなくなったのだろう、中学生だったころは、大騒動、果ては不良かチンピラの予備軍としてしか見られなかったのにと、場違いなことを思いつつも、誇らしさと悔しさが胸に染みた。
 彼らは少しくたびれて見えるジーンズと、おさえた色のパーカーやトレーナーを着ていた。肩の力を抜いて、思い思いに空を見ているようだった。昼過ぎの日ざしに目を細めながら、自分ののぼってきた階段はふりかえらずに、もう少しのぼってみようかという感じに見えた。
 近所のジャスコの中のCD売り場には特設コーナーが設けられ、母親が「B**って知ってる?」と聞いてきた。その次は「健太郎君の同級生でしょ?」で、バイト先のスーパーでもちょっとした話題だという。
 自転車のブレーキが小気味良い音を立てて車輪を止めた。
「何がいい?」
「うーん、まあ、やっぱ『ケプラーの惑星』」
 と、例のチャートトップの曲をいうので、
「なんのヒネりもないな」
 と冷やかせば「うるせえ」と怒る健太郎。邦彦が自転車にまたがると同時に出発した。
 ジャケットを着た邦彦には、少々汗ばむかと思われたが、風は意外に冷たく、ペダルをこぐと少し肌寒いくらいであった。
 床屋まで十分とかからない。「ラ・ヴィ」なる店で、家族経営だが客の評判がいいのか、子供二人が後を継げるようになった頃に店を移転した。家々のすきまから、広い大通りに面した、明るい大きな店になり、散髪を終えたあとにインスタントコーヒーが出るようになった。
 健太郎は小学生のころからのなじみで、三つ上の息子とよく遊んでいる。スーパーでレジ打ちのバイトも一緒。すでに店に立って腕もふるっているのにバイトをするのは奇妙にも思われたが、親の方針か小遣い稼ぎといったところではないかと邦彦は考えていた。
 自分の仲の良い友人が、他のあまりよく知らない人間とまた仲が良い、その場とは妙に居心地の悪いもので、邦彦は、その息子とそれほど面識もなく、意気投合する間柄でもなく、中途半端な距離感でいつも宙吊りされたような気分になるのである。
 健太郎と息子――幸樹はパチンコと宝くじとサッカーの話しかしない。三つとも邦彦にはまるで縁のない話で、邦彦と健太郎はマンガと音楽の趣味が合うのに、健太郎と幸樹はそちらはてんでべつ、という具合である。わずかに何か接点があるとすれば、それはドラゴンクエストやファイナルファンタジーというゲームについてだった。最も、そうとはいっても、邦彦はパソコンの、しかも鉄道や経営開発や戦争ものといったシュミレーションゲームが主だったので、家庭用ゲームには疎いのである。
「――もうすぐ新曲が出るな」
 健太郎がちらりと振りかえって言った。
「買う。金あるし」
「へー。珍しいな」
「バイトはじめたからね」
「何だっけ?」
「電気屋」
 毎日ワイシャツ、ネクタイ着用で、客にパソコンを売る。趣味を仕事に生かせるので、またその逆もあるので、邦彦は気に入っていた。電気店なのに「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」を連呼するのに違和感を覚え、ついでに口調からして口やかましい大阪弁の(大阪から進出した店なのだ)上司も、あまり好きではなかったが、仕事と割り切っていた。
 健太郎は「ふーん」とだけ言ってまた前を向いた。ちょうど横断歩道のところで、信号が赤に変わったのである。

   2

 どういう効果なのかよくわからないが、泡立てたクリームを顎や鼻の下のまわりにぬりたくられる。カミソリ負けを防ぐためのものなのだろうが、一度ぬられた後に蒸しタオルをかぶせられて、それを不快に思いつつも、眉毛のあたりをそられたり、また何かよくわからないクリームみたいなものをペタペタとつけられて、そしてタオルがとりのぞかれる。その後に、また同じような泡立てたクリームを塗られて片刃のカミソリで髭を剃られる。
 うぶ毛も剃るので、耳の後ろやその周りにも刃があたるのだが、邦彦はそのあたりですでに深い眠りに落ちていた。髪を切られるのが気持ち良くて、そのあたりからうとうとしていたのである。
 軽くなでるように髭をあたる刃の感触は、気がつけば海辺の潮の香りを含んだ風になっていた。背景は白く薄ぼんやりとしていて曖昧、遠くの方に大きくせり出して湾曲している岬があり、左手は一面さざなみの太陽にちらちらと輝く紺碧の海である。
 邦彦はどうやら一人の少女を、その横顔を見ているようだった。夢なので自分の体の感覚はあまりなく、カメラごしにズームにしたような視界である。少女はその視線にも存在にも気づいた様子がない。
 色を抜いた薄い茶色の髪が風に乱れるのを、顔をうつむけて手で押さえる。そこでレンズは引いて、少女の、襞の多いゆったりとした服に包まれた姿が映しだされる。ギリシア彫刻の衣装を現代風にアレンジしたようなデザイン。素材は麻か太い木綿糸か、まったく違うものなのかわからなかったが、天然の少しくすんだ白の風合い、ざっくりと大胆なラインを描いていた。
――夏の、あのときの、留美だ。
 邦彦は突然思い出した。にわかに胸がしめつけられて、一瞬画面は真っ白になった。酒とか宴会とか花火やらの様々な場面の残像めいたものが、色彩だけあとをひいて消えていった。おととしの合宿……邦彦がまだ二回生だった頃の、サークルの合宿。
「こっち来なよ」
 その声にはっと我に返ると、カメラの視界は消えていて、確かな自分の身体の感触と、留美の身体がそばにあった。呆然としたのは、留美の汗ばんだ腕が絡んでいたからだった。時間はいつのまにか夜になっていた。夜空を二人で見上げる風情。
 星が……と言おうとして、その後に続くであろう言葉の陳腐さに恥ずかしさを感じて黙り込んだ。そんな行動が二、三度続いた。留美は超然としていた。
 留美が好きだったのではなく、成り行きとか気の迷いとかそういう類のもので、下心を持ったことに対する後ろめたさが邦彦をいっそう寡黙にした。それからどうしたのかはまったく記憶になく、波の音と夜の暗さばかりが、脳裏に焼きつけられた。
「バカなんだから……バカなんだから」
 まったく現実味のない、といってまだ場面は海辺らしいが、水をしこたま飲んでおぼれたらしい。目に涙を浮かべて、信じられないほど近くに留美の顔がせまっている。
 身体をぐらぐら揺すられて、意識を取りもどさせようとする彼女の動きは、いつしか病院の看護婦のようなものになり、白い壁の病室にいるのかと思えば、どうやら大きな椅子に寝ているらしく、そこでブチンとコンピューターの電源が落ちたような音がして、急に視界が開けたと思ったら「ラ・ヴィ」の店内だった。
 あはははは、と隣から健太郎の笑い声が聞こえる。
「よく寝てたわねぇ」
 おばさんの声もする。彼女は健太郎の顔を剃っていた。邦彦の方を剃っていたのは娘の――美登里さん、で上に目を向けるとこちらもニコニコと笑っている。
「何かいってました?」
 ひきつった顔で聞くと、何だか苦しそうな顔をしてたよ、と美登里が言った。
「フラれたんだ」
 と健太郎。邦彦は内心どきっとしたが無視をきめた。……フラれたのじゃない。あれは、半分本当で、半分夢が作り出した、幻想……。
 正面の鏡に映る自分が気になって見てみれば、正に寝起きの呆然とした様子で、いまさっきまで過去の夢にとらわれていたとは信じられない。日常はどこまでいっても日常で、夢が領域を侵犯することはありえない。夢を懐かしむ気持ちで、邦彦は鏡を見つめた。
 そこからは、うなじを剃って、はみ出たところを整え、頭を洗い、肩をたたいてもらって、耳掃除というお決まりのコース。眠気はもうなかった。もともとがあまり髪の伸びていない健太郎のほうが早く終わっていた。
 店の奥で、幸樹がやっていたNINTENDO64に手を出している。ソフトはスマッシュブラザーズ。今日は祝日にもかかわらず客足が悪い。邦彦と健太郎がはいったところで、散髪を終えた男が一人いただけで、それからもうすぐ一時間たつが誰も来る気配がない。
 ちなみに、そのとき店にいた男は、今、健太郎の横で文庫を読んでいた。雅志だった。たまたまめぐりあわせたので、最後までつきあうことにしたらしい。
「雅志、対戦しようぜ」
 健太郎がそう言ったのを「やる気なし」といって受け流した。邦彦は健太郎の無謀な試みに苦笑した。雅志は、どこか聖人めいた、ストイックな厳しさを感じさせる人間で、TVもNHKのほかは滅多に見ない、マンガもゲームも興味はないし、音楽はクラシックを少々聞く程度、関心はもっぱら純文学という、あまり人付き合いの得意でない邦彦にして、マイナーな、やっかいな人間として認めさせたほどだった。
 彼らは中学からのつきあいだったが、まったく印象が変わらないのが雅志である。小難しいことが好きで、訳もなく偉そう、口調はどこか読み物めいていて堅苦しい。どこかのマンガのキャラクターで出てきそうな人間だった。
「お兄ちゃんもね、もっと勉強して欲しいわよねー」
 雅志の「ひいき」らしいおばさんが口をはさんだ。彼女は息子のことをお兄ちゃん、と呼ぶ。幸樹が「健太郎はどうなるんだよ」と茶化せば、お客さんのことは言わないの、とたしなめられた。
「それにまだ学生だし。もうバイトもずいぶんしてるんでしょ? アンタ、学生のときは何にもしてなかったじゃないよ。嫌ねぇ、毎日遊んでばっかで」
「はいはい。ごめんごめん」
 散髪で床に落ちた髪の毛をはきながら幸樹が言う。
「ゲームは時間の無駄ですよ」
 また余計なことを、と邦彦は思ったが、雅志をとめることはできなかった。
「同じことの繰り返し。プログラムされた予定調和の、決定論的世界。なにが面白いのかさっぱりわからないですよ」
「あはは。雅志君節だわねぇ」
「なんとでも言ってください」
 肩をすくめて文庫に戻る。
 美登里がちいさな鏡を持ってきて邦彦の頭の後ろを映した。
「これでいい?」
「はい」
 きれいに刈上げられた後頭部をちらりとみてうなずく。
 身体にかけてあったカバーが取り去られた。

「読まないほうが身のためだ」
 予想通り雅志がつっかかってきたのは、喫茶店で、邦彦が「戦争論」のことを持ち出したからである。健太郎はわずかに顔をしかめて、邦彦を見た。その視線は、やっかいなことをするなと言っている。
「おまえも読んだことはないんだろう? それで嫌う理由が、おれにはわからない」
「馬鹿言うんじゃない。読まなくても、あんなもの、くだらない。パラパラと立ち読みしたことはあるさ。吐き気がして途中で読むのをやめたがね」
 縁のない眼鏡の奥が鋭くなった。……本気で怒りかけている。雅志も、邦彦が挑発のためにわざわざこんなことを言い出したのはわかっている。それが馬鹿にされたようで面白くない。挑発に、わかっていながらのせられてしまうのが腹立たしいのだ。
「戦争の美化、肥大した自我意識、わがまま勝手で無茶苦茶な理屈。お前はそういうものに迎合する気じゃないだろうな。小林よしのりだけ読んで、他の文献にあたりもせず、それで何もかもわかったような面構え、そんな奴になりさがるのなら、軽蔑する。軽蔑だ。……縁もこれまでだな」
「……大袈裟な。なにも、そんな、……まだ何も読んでないし、そう、さっさと決めつけるなよ」
「予防接種だ。先に宣言しておいたからな。あとは好きにしたまえよ」
「ありがたいありがたい。涙がでる」
 邦彦はくつくつと笑って、ブレンドコーヒーをすすった。
「まあ、でも、いつかお前に勝つよ」
「知ったこっちゃない」
 といった顔はすでに余裕をとりもどした笑顔で、テーブルの脇に置いてあった灰皿を人差指で引っかけて寄せる。LARKに火をつけた。
「お前、よく、それで、彼女に嫌われないな」
 おさだまりの流れのように健太郎が口をはさんだ。
「こないだ電話がかかってきて、そっちからも煙草やめるように言ってくれって……泣きつかれた。困ったよ」
「泣いちゃいないだろう」
「何でわかるんだ」
「いつも、気のすむまで殴り殺したい、という形相で説得だからな。……でも今は、やめてることになっている」
「卑怯者」
「ま、なんというか、その、狭量なお前の性格で、半年……だったっけ? 続いているのが既に驚異だよな。いまだに、雅志君は頭が良いんだ、という幻想から抜け出せないんだろうね。……可哀想だ」
「知ったこっちゃない」
 健太郎と邦彦の攻撃を超然とかわして、それがまた、何という勝手な奴だと癪にさわるのではあるが、それもまた、いつものことだった。何かが麻痺してしまったのかもしれない、と邦彦は心なしか胸に広がる嫌悪感とともに思う。
 喫茶店の中は閑散としていた。もとが住宅地の中にひっそりとある店で、近くに高校や大学があるわけでもないので、客はそんなに入らない。
 邦彦は留美のことをちらりと思い浮かべた。彼女と喫茶店……。それはくだらない想像だった。ありえない、何事もなく過ぎ去っていく関係でしかない。夢の残像があとをひいているのに、理由もなくむしゃくしゃした。実際、彼女はあんなにきれいではなかったし、無邪気でもなかった。状況と、それを利用できる立場にあった。ただそういう雰囲気を……たぶんお互いに、楽しんでみたかっただけなのだ。
「……で、おれはおかしいと思うんだよな。彼女たちにとっては、もはや「可愛くない」というのは罪悪なんだ」
 邦彦の耳に、雅志の言葉が途中から飛び込んできた。話題はすでに別のものにうつっていて、邦彦は少しの間ぼーっとしていたらしい。
「何が罪悪だって?」
 聞き返すと、は? という反応が返ってきた。
「ごめん。よく聞いてなかった」
 はあ、とため息をつく雅志。別にたいしたことでもないんだが、と前置きして語り始める。かいつまんで言えば、近頃の女性はよりどりみどりにオシャレの方法があるが、それゆえにどんなブスでもキレイになれるようになった。それが逆に、キレイでないことは女としての、人間としての怠慢であるとみなされて、……そして、「可愛くない」というのは罪悪になった、という主張。
 我田引水のように思えたが、なんとなく納得する一同。雅志は悠然と煙を吐き出した。
「世の中は色彩にあふれ、女たちは可愛くなる。素晴らしいね、まったく」
 という言葉には日ごろより何割か増した皮肉が含まれている。「ま、俺には縁のない話だね」と投げやりに健太郎が言って、邦彦は何かもやもやしたものが胸にわいて、フンと鼻を鳴らした。
 紫の煙は、繊細な糸のように絡みあい、三人のあいだをゆっくりとただよい、空気のなかにとけていく。話題のつきた、しかし軽い疲労感があってそれほど気づまりではない状態。
 邦彦は窓に目をむけて、閑散とした道路と、家の垣根や塀がつらなるのを見た。世の中はいつも通りの日常で、夕暮れから、次第に夜の闇が濃くなってくる時分だった。ふ、と気配が動いて、健太郎が「そろそろ出るか」と言った。
 勘定をそれぞれですませて店を出た。
 邦彦は空を見上げながら、ぼんやりとコンピューターのことを考えた。Windowsを再インストールするくらいなら、夜中にできるかもしれない。なにしろ、それをしないと動作が不安定でたまらないのだ。
 明日、講義に間に合うかな、と不安が少しよぎったが、最早そんなことはどうでもよくなっていた。
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