Dream of Vampire


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 ある女と一緒に住んでいる。
 彼女はまだ、僕の血を吸う気はないようだ。十字架やニンニクは平気、食事も人間と同じように出来る。血もときどき飲むだけでいいそうだ。
 彼女は日暮れとともに起きて朝日のさす間際に寝る。日の光をあびると十分と身体がもたないらしい。ぼろぼろと崩れていって、灰になってしまうのだ。彼女は吸血鬼だ。
 僕が想像していたのと、彼女は微妙に違う存在である。映画や小説のなかにでてくるどんな吸血鬼よりもおどろおどろしくなくて、しかしむやみと軽薄なわけでもない。彼女なりの深刻さや、不快を抱えて生きているのだ。
「終らぬ感謝と呪いを」
 これは彼女が好んで使う言葉である。古臭かったり、芝居がかった言い回しが好きらしい。しかし、永遠に続く生命、迫害されるべき運命、そういうものを意識させないではいない人間への、これは最も端的な態度の表明なのだと思う。
 僕が夜中に目を覚ますと、椅子に腰掛けて、膝を抱えて、顎を少し斜めにその上にのせた、空気が氷結したような彼女の姿を見ることがある。
 漆黒の長い髪が幾条にもわかれて、透き通った肌にからみついている。
 全裸である。
 カーテンの隙間からさす月光に全身を浸され、赤くぼうっと光るまなこで僕のほうを見つめている。しかしいつも、そのあとで急激な眠気に襲われるのだ。そして意識には、夢のような映像だけが残る。
 氷のような彼女の姿は、だから、もしかしたら幾度も見た曖昧な映像の集積した、ただのイメージなのかもしれない。
 彼女の棺桶が、もう一つの部屋にある。
 それは奇妙なオブジェのようだ。
 細い鎖がびっしりと表面をおおい、ピンとはりつめて棺桶を縛っている。鎖には始まりも終わりもなく、人間がそれを解く術はない。
 鎖には鋼でできた薔薇が絡んでいる。それは驚くほど精密に造形されており、花びら一枚一枚が紙のような薄さだ。ふくよかな質感は、つねに期待を裏切ってかたくなに指をはじき返す。葉脈や毛細管すら、光をあてて目を凝らせば見えるのだ。
 棘は生身の薔薇より鋭かった。そして、花びらさえも刃をそなえていた。
 彼女が中で眠っている間、棺桶と鎖と薔薇は一個の生物のように見える。意思を持った、吸血鬼自身が変身した姿だ。理由は判らないが、おそらく、現実の見え方が変わってしまうのだろうと思う。正三角形が、見る角度をうつせば二等辺三角形になるように。
 彼女が棺桶から出てくる様子は、なかなか壮絶である。
 まず最初に、風もないのに妙な冷気が漂いはじめる。それは霧のように部屋の中に充満し、露出している首筋や手足にまとわりつき、だんだんと内側に侵入してくるのだ。
 冬の朝に布団から起きだして、予想外の空気の鋭さに、ジッと内蔵がすくむことがないだろうか。
 身体の内部にこたえる寒さである。
 奥歯に神経を集中してこらえていると、薔薇が静かにゆれだす。あるはずもないことなのに、不自然さを感じない。風のない静止した部屋の中で、冷気と薔薇だけが動いている。そのあたりから時間の感覚がなくなってゆく。死のような寒さが脳髄にまで染みこんできて、どこまでが自分でどこまでがそうでないのか判らなくなる。
 時に、様々な馬鹿げた幻想が訪れることがある。
 青い顔をした銅像のような男が、何やらうめきながらゆっくりと階段を昇ってくるとか、白馬に乗った黒い影が矢のように荒野を通り抜けるとか、にたにた笑う、誰とも知らないおばさんの顔がいくつも実っている木とか、そんな類のものだ。
 気がつくと彼女が棺桶の蓋を開けようとしているところである。
 鎖はいつのまにか全て解かれて、脇にかたまって落ちている。蓋が静かに跳ねあがると、彼女がゆっくりと身体を起こす。
 そして決まって「カイレ」という。なにやら個人的な、自己満足の気分があるらしい。
 ある時、彼女の機嫌がよかったので聞いてみた。
 すると、ただ神への反逆故という答えだった。
――私の永遠の命。けれどそれはキリストに由来するものではないの。闇の威光のもとに得たのですもの。それは手軽で、誰彼なしに与えられるもの。屈辱で、永遠の罪よ。ラザロはキリストの言葉で甦ったけれど、私は自分の意思で甦る。そして――復活したキリストの言葉を唱えるのだわ。
「カイレ」って。
 物好きな友人が聖書を持っていたので、借りてきて調べてみた。
『すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。(マタイ28章9節)』
 「おはよう」が「カイレ」であり、ギリシア語で「ごきげんよう」「おはよう」といった挨拶の言葉だという。
 もっとも日本語の「おはよう」が「はやく起きたね」という意味を中にもっているというレベルで考えるならば、「カイレ」とは「平和」「満たされている」といった意味らしい。
 そして、
『そういって後、声高く『ラザロ外に出なさい』と呼ばれた。すると死者は、手と足を布でまかれ顔を汗ふきで包まれて出てきた。(ヨハネ11章43―44節)』
 という箇所。
 彼女の言うように、死者は神への信仰なしには復活しないのだ。ラザロが復活することが出来たのは、姉の信仰と神の栄光をあらわすためだと書いてある。
 彼女の、吸血鬼の復活のしかたはなるほど冒涜的だと思った。
 「私を信じるものは永遠の生をうける」という言葉に真っ向から逆らっているのだ。
 しかしながら、彼女の、そしてその一族の存在はキリスト教社会でさぞ疎まれているのだろうと思って、これもまた例外的に機嫌の良いときに聞いてみれば、意外な答えが返ってきた。
――司祭なら、私は神の手にならぬ永遠の、最も罪深い、穢れにまみれた苦しみ、そのもの、その印、その証なんていうでしょうね。
 司祭は、善を説明するために悪を、永遠を説明するために欠如を、救いを説明するために罪を知る必要がある。
 つまり彼女は常に後者なのだという。
 しかし、なぜ、そうなのか、それにヴァンパイアが苦しみの存在なのかどうか、僕にはどうしてもはっきりとは判らなかった。
 率直にいえば、僕はヴァンパイアに憧れている。そして彼女にも。しかし、どこか畏れおおい、不躾な気持がするためらいから、どうしても自分の血を吸ってくれと申し出られないのである。
 それは何か、神秘的な儀式やセックスというものを連想させもした。
 自分に女性経験が全くないわけではなく、現にれっきとした恋人も今いるので、性の快楽にたいして極端な幻想をもっているわけではない。しかし、彼女の場合、その存在自体が幻想である。
 いわば僕は、幻想に犯されている。
 何度も何度も、夢のように夜ともなく昼ともなくおとづれるのは、吸血の現場だ。
 僕はなす術もなく彼女に身をゆだねている。細く白い腕に優雅に体を抱えこまれ、乱れた黒髪のすべるさらさらとした感触に夢中になる。
 あるはずのない、しかしはっきりと立ち上る香気――甘く柔らかなのに、吸いすぎると粘膜がやけただれてしまいそうな刺激――に陶然として、ただ首筋に、決然と、一撃をつきたてられるのを待っている。
 それは常に、初めての経験として意識される。わけもわからず、闇の中で、感情の動きは激しく、行為そのものはゆったりと行われる奥深い経験の儀式である。
 死への快楽。
 もし、死が未来への冒険であり、その境界をまたぐことが不安や恐怖ではなく快楽だとすればどれだけ多くの人間がそれを望むだろう。
 一生つみ上げた知識や価値の崩壊に立会い、まったく違う世界の中に身を置く。見なれた人や物がまるで別のものに変化するのではないだろうか。死の世界に、夜の世界に生きることは、自分の――人間だったことの――生を相対化することになりはしまいか。
 彼女は、ヴァンパイアは、この世界をどのように捉えているのだろうか。
 心の底の、純粋な部分、透明に結晶化されたそこでは、明らかに僕は死への好奇心を宿している。
 それは、何か根底的な人間の条件を持っていないとして、時たま僕を責めたてる。
――一体、死を、自分の死を、親にもらった、度重なる偶然と必然のあわいに生みだされた、かすかな魂を、自分自身そのものを、すすんで手放したがる人間がどこにいるというのだろうか。
 怖れの対象をよく知らないものが無鉄砲であるように、僕も、自分自身が変化する、一度死んで生まれ変わるということをまるで理解していないのかもしれない。
 ヴァンパイアに吸血される瞬間に、醜く悶え、彼女をかきむしり、涙と鼻水で懇願するのかもしれない。意味不明の語を叫び、髪を振り乱し、しかし人ならぬ身の強烈な力におさえつけられて、なす術もない。
 救いがたいことには、その想像さえ甘美であった。
 何にしろ、僕は自分の生の感情、むきだしの、純粋なその発露を期待するのだ。
 愛であれ陶酔であれ苦痛であれ憎悪であれ、まったくそれ以外の何ものでもありえない感情。生と死の境界をまたぎ、そのことによってそのどちらも手中におさめられると夢想する。それはつまり生と死の論理を二つとも知るということなのだ。
 吸血鬼は太陽の光にさらされない限り滅びることはない。
 彼女に言わせれば、これは負の永遠性なのだという。しかし永遠には違いがないのだと。しかし、正の永遠については決して語ろうとしなかった。長い時のむこうの、ある時代に自分を吸血鬼にした、一人の男に対する「終らぬ感謝と呪い」ゆえに。
 月が昇る。
 冬の風ばかりではなく、きっちり閉められた窓の隙間から、すでに慣れた彼女の雰囲気が冷気となって、この部屋を浸しはじめる。
 夜中にも起きている人々の灯す光が、淡く、濃く、点在し、その明度の違いによってうつしだされる、道路や垣根や屋根や電柱や、向こうにぼんやりとそびえる黒い山や、疾走する車の姿によって、僕の住んでいる町のささやかな夜が現われている。
 月は、それらのものの無関心な女王のように中空に位置し、下界からの生活の光を受けて、そのなかに自分自身の意思をすべりこませて夜を支配しているようだった。
 たえがたく身をしめつける空気にむきあいながら、僕は窓から人間の生活の一断面を想像した。
 それはたき火のように心を安らかにさせるものだった。
 もうすぐ彼女がやってくる。
 人間の情念と暗黒を渡って。
 思えば、その気まぐれゆえだろう、ずいぶん長くでかけていたものだった。
 殊勝に墓の下にでも眠っていたのか、あるいは誰か犠牲者とともに蜜月をむかえていたのか。
 ヴァンパイアは幻想だ。常に幻想だ。自分の中の感情や、ある特別な瞬間に生みだされる、たわいのない、しかし僕には必要不可欠な幻想。神話。
 皮膚は硬直し、心臓は絞めつけられ、しかし脳は奇妙に覚醒している。
 窓の下を、背広姿の男が歩いていく。カツカツという足音が、反響してやけに大きく聞こえる。
 居酒屋の青いネオン、白く列なる商店街の丸い外灯、テールランプの赤とオレンジの流れ。ところどころに燃えている等級の高い星々。風はない。なかなか眠りにつかない、あさい、街の夜だった。
 霧が生まれる。
 部屋の温度はよりいっそう下がり、窓が曇らされて、外がまるで見えなくなってしまった。
 無数の針のように、凍りついた水滴が身体中につきささる。衣服はあきらかにその柔軟性を失って、主人を責める鎧のようになっている。
 白く、部屋全体に充満した霧は、上下前後左右を全く不明にして、まるで夢の中にいるような気持にさせた。
 彼女の気配が伝わってくる。主観的でありながら、それでも明白に。心臓が恐怖と喜びのないまぜになった興奮で、激しく動いた。
 喉は寒さと緊張で硬直してまったく動かない。目は窓の外の一点を凝視している。いわば一本の氷柱になったように、僕はそこに立っていた。

 風がかすかに吹いた。ざらりと肌を舐められたような気がして、全身が震える。
 時間をさらっていってしまったようだ。
 昔の記憶が、そうとは思えないリアリティで甦ってきた。

「どうしたの?」
 秀美が聞く。
「君が、何かこう、人間じゃないような気が一瞬して」
「何? それ」
「笑わないで聞いてくれるか?」
「さあ、ね。話によるんじゃないかしら」
 最近、どうもしっくりこない。秀美は秘密を持ちすぎるのだ。連絡のつかないことがやたら多い。
 勉強やら、学校の仕事が忙しいのは判るが、なにかこう、不自然な、嘘をつく時の沈黙にも似た、そんな居心地の悪さが僕を不快にする。
 二ヶ月ぶりのデートだった。
 千葉駅の周辺の華やかなデパートを回り、映画を見て、ドトールで二時間過ごしたあと、特に目的もなく電車にのって、なんとなく御茶ノ水で降りた。
 夕暮れになっていた。
「何か、精神的に、自分とは、別の生き物なんじゃないかって」
「別に……そんなことないわよ」
「お化けだ、とか言いたいわけじゃなくて。自分とは全然別種の、考え方をするんだろうなって思う」
「私も、あなたの考えてることがしょっちゅう判らなくなるけど?」
 小柄な顔を少ししかめて彼女は僕を見た。
 現実感のない、しかし妙に切羽つまった議論をするのも久しぶりだ。
 こういうところが自分たちには共通しているのだと思う。
 多分お互いに、他人のことなど心の底ではまったく信じていないのだ。
「同じ言葉を使っていても、君と僕ではまったく違うものを指しているようにしか思えない」
「どうして? そんなこと、判るような、判断できるようなことじゃないと思うけど」
「たとえば、世界で一番愛している、なんていわれても、それはまったく別の、想像も出来ない考え方の連鎖のうえに出現した言葉なんじゃないかと思ってしまうんだ」
「よくわからない。私は、あなたにそう言われたら、世界で一番愛してるって言われたら、嬉しいよ」
 空はほとんど黒かった。やわらかな残り陽が、かすかに漂っているだけだった。
 秀美の横顔を透明だと思った。夜の影にゆらめいて、今ひとつ輪郭がはっきりしない。そこに魅力が宿っていた。薄明りに、真珠をすかして見るような感じだ。
 しかし、不安がなかなか消えない。
 彼女は本当にこんな顔をしていただろうか? こんな声でしゃべっただろうか? こんな考え方をする人だったろうか……?
「もしかして、疑ってる?」
「そんなことない」
「そうだよね」
 そう言って無邪気に笑う。
 次の言葉はいささか唐突だった。
「ねえ、お酒、飲もうよ」
「いいね」
 反射的に答えたあと、どうも話をはぐらかされた気がして、気分が沈んだ。
 それから僕らは、たいした話もせずに安くて広い居酒屋に入った。若いウエィトレスに案内されて席につき、二人ともビールを頼んだ。
 店内はずいぶん客が入っている。僕らと同じ年くらいの若者が、気ままに騒いでいた。
 こんな雑然とした雰囲気に身を浸すのは久しぶりだった。いつもは、大学の図書館と人気のない部屋と、さびれた古本屋のバイトに行くだけの生活だったから。
「ところで、さっきの話」
「……何?」
 ほんのりと頬を染めて秀美が訊く。僕にとっては結構重要な問題だったが、彼女はすっかり忘れているのだろう。当たり前だ。
「君が、秀美が、なんか違った風に見えるように、思うんだ」
「ああ、そのこと」
「そのこと。最近何か……変わったことでも、あった?」
「別に」
 秀美はジョッキをあおった。
「おかしいね。同じ日本語を話していても、全く違った言葉を話してるように思える」
「私の言うことが理解できないってこと?」
「そうじゃない。理解したつもりで、全く理解してないという気持ちが、それが、怖い」
「へえ」
 秀美はまた、ぐいっとビールを喉に流しこんだ。彼女は、僕より弱いくせにペースが速い。酔うと攻撃的になる。タチが悪い。
「あなたはさ、脆弱だから。心が。普通の人が気にしないようなことまで、結構、気にするよね」
「そう思う」
「別に悪いことだとは思わないけど。むしろ私にとっては、面白いっていうか、新鮮というか。だから一緒にいられるんだけれど」
 明るい電球の中で、空虚な騒々しさというものを、一瞬影が差すような気持で感じる。言葉が、本質のまわりで浮遊しているような。
 秀美の表情も、声の調子も、話していることも、一切に、明確に異常だと、自分の知っている彼女とは違うのだという徴候は、現われていなかった。
「不安だ」
「何が?」
「それが判らないこと。しかし明確に感じられること。まだ名前がつけられていないこと……」
「名前がつけられていない?」
「そう。『何か』だって事はわかるけど、それ以外の言葉が出てこない。『何か』では僕にも一体それがなんなのかわからない」
「当たり前よ」
「そう。あたりまえだ。何も判らない。まったく言葉に出来ない」
「それなら、それならさ、それを言葉にしてみようよ。『何か』以外の、別の言葉、の連鎖に」
「そう。そうしよう」
「まず、不安なのね」
「うん。不安だ」
「そして、私が、何か見なれないものに見える」
「そうだ。何か変わったように見える。でもさっきから観察して、表情の変化や、言葉の裏の意味とか、どんな気持でいるかとか、つぶさに見てきたのに、その、僕を不安にさせている証拠が全く見えない。細かく見ていくと、だんだんぼやけていくみたいだ。全体的には、君は、僕を不快にさせるのに」
「あててみなさいよ」
 秀美は艶然と笑った。僕を精神の力でおしつぶしかねない笑みだ。心臓が激しく脈打つ。
「あてられない」
「実は妊娠したの」
「え?」
「一週間くらい前に病院に行ってね、そしたら」
「あの、いつ? 誰だよ?」
「あなたに決まってる」
「まさか」
「どうして? 予想外? その理由は?」
「ない。じゃあ、僕の不安は……。そうか。気づくはずがないね」
「そう。まだあんまり、なんというか、実感ないけどね。でも少し変わった気がするよ。将来のことを考えてみたりね」
「へえ。……どんな将来?」
 何気なく聞くと、秀美は一瞬、真正面から僕の瞳を見すえた。瞳孔が少し拡大したように思った。刹那の真剣な表情。
 そして、クククと無邪気に笑った。
 質問に答えないで、ジョッキ四分の一くらい残っているビールを一息に飲みほす。
「まだ、飲む?」
 なんとなくきまりが悪くてそう言った。
「ウソだけどね」
「えっ?」
「実は全部ウソなんだ。ウソ、ウソ、ウソ」
「妊娠が?」
「そっ」
 おそらく彼女が思っている以上に僕は落胆した。何も解決されなかった。むしろ、根拠のない不安、のようなもの、は肥大したのである。
「信じられないな」
「何が?」
「ん……、そうだな、何もかも。全部。君も、世界も、俺も」
 秀美はビールとポテトフライを注文した。肩で切りそろえられた髪がふわふわと揺れるのを、僕は所在なく見ていた。
「あのね、生殖行為って、気持ちいいでしょ」
 秀美は突然そんなことを言い出した。生殖行為? 妙にもってまわった言いかただ。
「それは何故かって考えたの」
「それで?」
「生殖行為が苦痛ならば、誰も子孫を残そうとは思わない」
 僕らは遺伝子の器だ。浅薄な、短絡的なそんなフレーズが思い浮かんだ
「だから何だって言うんだ?」
「人生がね、ただ生き延びることだけに費やされてる気がして。……愛が全て、なのかな? それは何か不毛な気がするの」
「よく判らない」
「私は成長する。何のために? 知識や能力を身につけて、一体何がしたいのか。男に出会いたいのか。子供を産みたいのか。死んでしまったほうがいいのか」
「酔っているだろう。どうも、抽象的で判りづらい。今更、自分は何のために生きているのか? なんて問いたいわけじゃないだろ」
「そうね……今更。あるのはただ現実ばかり。複雑に絡み合った、立場の違いで形を変える、ややこしくて面倒臭くて、なかなかほぐれない、現実ばかり」
「今日はなんだかうまく行かないな」
「そうね」
 一致点を見出せない散漫な話は、そうして終った。
 気がつけば喉がカラカラだ。ビールを流しこむ。たまった澱のようなものを、炭酸が洗い流してゆく。
 秀美が別の人間に見える。色々な矛盾した面の、中心にあるはずの彼女自身が感じられない。――いつからこうなったのだろう。
 二人の間に沈黙がどっかりと腰をおろした。それは当分動きそうになかった。

 記憶はそこで凍りついた。それ以外のなにものも、もう思い出せなくなった。
 あれは、全く違う世界の出来事だったのだ。ものの見方が、ものの表現の仕方が、今とは完全に異なっていた。日本語を使い、その文法に従いながら、他のどの外国語よりも違う言語を話していた。

――部屋の窓が開いた。遠くには黄金の月が鎮座している。雲ひとつない空だ。しかし風は強い。ざわめく木立の音にまぎれて、彼女のまとった衣のはためきが聞こえた。
 そう思う間もなく、吸血鬼は部屋の中に入ってくる。僕の目の前に立った。
 彼女は沈黙していた。
 冷たい、忘れられた石の廃墟を、青ざめた風が吹きぬけてゆく。死者とその王だけが住んでいる、がらんどうの大都市だ。血の儀式によってそこへ足を踏み入れる。快楽、陶酔、恍惚。流れこむそんな死の息吹を、僕は心から期待している。白煙のような霊たちの群れ。低く絶え間なく響きわたる呪詛と歓喜のつぶやき。うちすてられ、干からびて、醜い残骸となった愛が、香のように古びた匂いを立ちのぼらせ、死と闇が支配するこの都市の空気となる。時間は静止している。あるのは空漠とした、何ものも生みださない、その意味で永遠である広がりだけだ。
 あらゆる人間的な、感情や、身体や、霊性を捨て去ったのちに生まれ変わる存在。ヴァンパイア。死者達の王。彼らは「向こうがわ」の住人である。影の世界に生きる――よりはむしろ永遠に死んでいる――者たちである。
 彼女の凍結した指先が僕の頬に触れる。息はしていない。いかなる生の徴候もなかった。あるいは死神のように思われた。
「満足、したか?」
 幻想のなかで彼女の声が響いた。
 それは都市のなかを、崩れた壁や、柱や、塀などに残響して、風のように渡っていった。
どこかささやくようであったけれど、どこにいても、何をしていても届くような性質の声だった。僕は目前に彼女を感じていながら、なお黄泉のような世界に生きていた。
 自分の心臓の鼓動が、息づかいが、血液の流れる感覚が、かつてないほど新鮮かつ身近に感じられた。細胞の息吹とでもいったらいいようなものだ。若葉のごとき瑞々しさが次第に身体中にみなぎってくる。
 ヴァンパイアは、紅のくちびるをわけありげに歪めた。「夢へ」、そう聞こえたような気がした。
 どっと眠気がおそいかかってくる。
 朝帰りの亭主よろしく、彼女がもう一つの部屋に通じるドアを開けるのが見えた。――しかし、そこまでだった。
 僕は朝を期待して眠りに落ちていった。
 吸血鬼とつきあっていくのも楽ではない。彼女はきまぐれで、人の性質をいいように弄ぶのだから。その美しさに、永遠に魅せられることは、それなりの幸福を約束するとはいえ――万人にお勧めできる類の生活でないことは確かだ。
 次の日、僕は目覚めるだろう。そして、少々無理があるとは思いながらも、こう呟くかも知れない。
 全て、夢、幻だったのだと。
 そしてそれは――やはり必要なことなのだ。
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