奇妙な散歩道


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 どの駅で降りたのか覚えていない。
 憂鬱な桜。春だというのに妙に蒸し暑く、花弁は湿気を含んで眠たげな気色である。桜は線路沿いの土手に咲いている。丈の短い芝生から、谷になった軌道に向けて身を乗り出し、時折吹く緩やかな風を気晴らしに、薄紅色の花を揺らす。
 駅を出てからしばらく歩いたらしい。四肢は火照り、靴底と路面の摩擦は、全身を働かせる駆動機のような熱で身体を前に運んでいる。しかし疲労感はそれほどない。
 奇妙な状態が持続していた。意識の裡に、次から次へと昔の出来事が思い出されるのだ。それが疲れを麻痺させていた。
 押し寄せる過去の奔流は、自分の身近な記憶を流してしまった。電車から降りて何をしていたか覚えていない。中央線に乗っていたように思うが、確かとはいえない。四谷から新宿に向かう風景に似ていると思う。しかし、もしかすると本郷のあたりか、あるいは東京ですらなく、千葉の一角かもしれない。はっきりとは判らない。
 いきなり痴呆症になったのだろうか。考えられない事でもない。当年とって二五歳になるが、若年性という言葉もある。そうでなくとも、何か別の精神疾患でないとは言い切れない。しかし妙なのは、思い出そうとして思い出せないのではなく、別の記憶が全く不如意に甦ってくるために、身近な出来事がそれに覆われてしまうということだ。
 現実逃避、夢遊病、都市徘徊……。嫌な単語が頭に浮かぶ。夢遊病というのが一番近そうだ。白昼夢を見ている心地だが、意識は片足を現実に残し、電柱や看板、側溝、ティッシュの配布、署名活動を回避している。
 一見深刻そうな心身の状態だというのに、気分は高揚している。宿主の支配から遊離した意識は、不思議と嫌な記憶を運ばない。人並みに不運もあれば手痛い失敗もある人生なのに、真昼の光の中で見るような懐かしい景色ばかりが、やけに鮮やかに甦る。そこに何かの意味はあるのだろう。或いはその意味を察することを、無意識なり、神の手なり、運命なりが示唆しているのかもしれない。
 シャッと軽快な音をたてて車が走り抜けてゆく。僕が歩いているのは都会だ。妙にそれを意識した。無関心の迷宮に闖入した錯覚に陥る。道行く人の誰一人、バンパーに寝そべる猫一匹、傍らを過ぎる人間に関心を払わない。むしろそれが礼儀なのだ。
 糊のきいたスーツを着こなした男が、携帯電話で打ち合わせをしながら歩き去った。僕の気まぐれな歩行は、目的の定まらない不安と表裏一体なのだと思う。
 数分前に小雨がぱらついたせいで、空気が暖かく蒸れていた。花と葉と煤煙の香りが、都市を柔らかく包む大気に溶けている。灰色の空は太陽光を遮り、拡散させ、人や街や車は、昼間の薄明るい光の中で忙しげに立ち働いた。道路をひっきりなしに車が往来し、平日の昼間だというのに学生やサラリーマンが歩道を闊歩する。地元では考えられないことだ。
 僕は田舎の生まれである。都会のなかにいると時々故郷が懐かしくなる。田舎と言っても、父親は首都圏に勤めていたし、ド田舎というほどのものではない。しかし、中学の頃は、田んぼに挟まれたアスファルトの道を毎日歩いていた。稲の茎が緑の光を発する夏、道路は太陽の光を返して、幼い身体をじりじりと焼いた。沸きあがる大気の向こうに見える、校舎の白い壁は妙に涼しげで、しかし学校を余り好きでもなかったせいか、甘い香りの罠が待っているような心地がした。
 通学路から少し外れたところに、東京から成田へ通じる国道二九六号線が走っている。古い街道で、旧称は成田街道。土地の主要地域を結んでいるが、いつも渋滞している道路である。
 トラックの排気や風にあおられながら、よく自転車で走った。最も一時間かそこらが限界だった。その数十キロの空間が、自動車を持たない子供の活動範囲なのである。東には巨大な印旛沼と田園風景が広がり、西は駅ごとに繁華街があった。思えば時間と活力だけはあったと、ありがちな感傷が胸に去来する。
 空が茜色に暮れる時刻、西の金星が輝くのを、深い感慨もなしに眺めながら、家路についた日々だった。
 高校にあがってからは、移動手段がほとんど電車になった。定期の使える範囲が行動圏であり、自転車を使っていた頃よりずっと遠くまでいけるようになった。
 例えば東京方面に行くのがずっと楽になった。地元のS駅から京成線に乗り、船橋でJRに乗り換える。あるいは日暮里から山手線に、八幡から都営新宿線に、青砥から都営浅草線に。方法はいくらもあったけれど、京成線が主要な手段ということに変わりはない。
 電車は、興味の対象を風景から人間へと変えた。自転車に乗っている限りで気になるのは、車や過ぎ去る風景、自分が今どこにいるのか、体力は充分なのかということだった。しかし電車では、それらは瑣末事として後景に押しやられてしまい、閉ざされた移動空間内における人間生態の観察こそが、主な仕事になる。車内はさながら人間性癖の万博である。そしてまた、自己反省の機会に恵まれたりもする。
 要するに、一つの独特な異世界なのだ。

 鮮明に思い出されるのは一つの光景である。
 空気も喉も枯れつくような冬の寒い朝。
 当時、通学にはおよそ一時間かけていた。そのうち四〇分は電車に乗っていた。高校は駅から少し離れた海辺にあり、潮風の吹く道路を二〇分ほど歩く必要があった。一帯は開発途上の埋立地で、工事中の鉄筋建築が巨人の骸のように屹立している。
 冬の風は強く厳しく、制服のブレザーの下にセーターを挟んで、学校指定の紺か茶のコートを着用、マフラーを首にしてもまだ寒い。公立校ゆえにスクールバスなどはなく、私鉄バスは、どういうわけかホームルームに五分遅れるか、二〇分早く着く便しかない。僕自身を含め、大概の学生は五分遅れる方に詰めかけ、チャイムの音と共に校門をくぐるのである。
 その日も、五分遅れのバスに間に合う電車に乗っていた。通勤通学で押し合う車内のドア間近にもたれて、視線は知らぬまに一つの方向を向いている。そこには一人の女子高校生の姿がある。
 この時間はいわば最終電車で、バス停まで走らなければいけない。一本前なら、五分から十分の余裕があり、二本前なら歩いた方が早いのだが、僕はこのところずっと、この電車を愛用していた。
 果たしてそれが彼女のせいなのか、自分の怠惰の性質ゆえなのかは判らない。好意か慕情か熱情かはかりかねていた。およそ二メートル先で銀鼠色のシートに腰掛けてうたた寝をしている、彼女の名は七草秋子。黒い髪を後ろで束ねた、どこにでもいそうな女子高生で、その点当方とも全く共通していた。
 辞書的な意味で――僕は自分の感情が「恋」なのかそうでないのか確かめようと、国語辞書を引いたのである――彼女を意識することを何と呼ぶのかは、ついに判らなかった。
 曰く「特定の異性に深い愛情を抱き、その存在を身近に感じられるときは、他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感・充足感に酔って心が昂揚する一方、破局を恐れての不安と焦燥に駆られる心的状態」「一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ。特に、男女間の思慕の情」。
 前者は大げさな気がしたし、後者は共感できなかった。愛情や思慕や男や女や恋愛といった、関係がありそうな言葉に次から次へと辞書をあたったが、飢えにも似た、心の欲求は満たされなかった。
 ずいぶん変なことをしたと思うが、不可解な気分自体は今になっても変わらない。しかし、忘却と成熟は何時しかそれを「初恋」という言葉に押し込めた。それは言葉に反して、いくつかある「初恋」の一つの姿になった。
 小学生や中学生の、あるいはもっと幼い、自意識と他人との境界が緩やかに溶け合っている混沌の時代に、似たようないくつもの経験をする。それは常に異性との間に起こることであり、平時とは違う精神の状態におかれる。
 風景や匂いや他人の言葉が鮮やかに記憶に焼きつくのである。
 一つの思い出ばかりが、解きがたい謎の結び目となる。年を経てからも、折に触れてはほぐしてみようと試みるものの、おそらく成功しない類のものだ。
 それぞれは、何らかの理由で恋に近い何かであり、同時に始めて体験する何ものかである。あたかも万華鏡が、素材は同じでも、千変万化の彩りを見せるように。
 七草秋子は少し特別な技を持っていた。僕と彼女との距離は、つまりはそれに起因した。
 千葉急行線は京成津田沼駅から始まるが、上野方面からの学生と、成田方面からの学生が等しく千葉へ向かう電車に流入するために、朝の混雑は初めからピークに達する。駅員が学生を押し込み、緩慢な動作で自動ドアが閉まる。
 氷づけされたように身動き出来ない。背筋がねじくれたり、顔が隣の人間の制服や壁やドアに押しつけられて歪む。その状態が二、三駅続く。
 M駅は、かなりの人数が降りる駅で、超満員から満員くらいには人が減る。僕らが降りるのもM駅だったが、ドアが開いた瞬間に、人波が急流のごとくほとばしる。留まろうとする者、降りる者、外から入ってくる者が入り乱れて、油断すると車内に取り残される。雨後の川の流れにも似たこの有様から早く逃れるために、僕は常にドア付近に陣取っている。
 しかし、七草秋子はどういうわけか、車内の真ん中から危なげなく出てくるのである。シートにすわって、無防備なほど安穏としているくせに、気がつけば電車を降りて、僕と同じように改札をくぐっている。
 何故そんなことが出来るのか観察しているが、成功した試しはない。それは彼女の神秘だった。僕が彼女から目が離せないのも、もしかすると恋や愛ではなく、謎や好奇心のせいなのかもしれないと思った。
 ところで、奇妙な違和感が、この冬の朝の車内にはあった。初めは気づかなかったものの、ふと目線を変えた瞬間に視界に映り、やがて妙に心に引っかかる印象として刻みつけられた。何故か七草秋子より重要な気がする。それまでに一度も見たことがなく、しかも光景としてはごくありふれていることが、いっそう不可解な気分にさせた。
 七草秋子の向かいに白髪の老婆が座っていたのだ。周りの学生や大人の半分くらいの背丈で、うずくまるようにシートに鎮座していた。電車の揺れも全く感じていないらしい。下をむいて目を閉じたまま、そこだけ空間が凝固したかのように動かない。
 真綿のように柔らかで豊かな髪が、肩を流れおち、腰のあたりまで覆っている。腕には、黒い、複雑な紋様の描かれた壷を抱えていた。壷は大きなもので、田舎から出てくる行商の老人が背負っている籠ほどもある。
 黒いスーツを着たOL風の女性と、どこかの女子高生が老婆の隣に座っていた。どちらも下を向いて寝ている様子で、隣の壷を抱えた人物を気にしてはいない。或いはこんな心象を抱いているのは僕だけかもしれないと思った。それは戸惑いと、後ろめたさをもたらした。
 自分が特別な感性をもっている人間だと思ったことはないし、人生に非日常的で大げさな何事かが起こるとも全く思っていない。わずか一瞬でも、そんなことに思いが向かったのが恥ずかしかった。
 つまり、これはそれほど気にするようなことではないのだろう。老婆は、壷を千葉の骨董品店に売りに行くのである。古びた店の年をとった鑑定士に、おずおずと壷を差し出して、価値を聞くのに違いない。
 合点すれば、視線はまた知らず知らずのうちに七草秋子を追いかけていた。ゴム紐で簡潔にまとめられた髪は、他の高校生よりいくぶん、つややかに思えた。未来の姿をそこに思い描く。もう少し髪が伸びたら、会社に勤めるようになったら。化粧気のまるでない高校生の顔は、やがて口紅の色を知るようになるだろうか。
 あまり一人の人間をじろじろ見ているのも罪深い行為で、僕はときどき外を眺める。開発途上の殺風景な土地が大した変化もなく続く。
 昨日も明日もさして変化はない。それで満足である。僕は平凡という言葉を愛していた。それがどういうものか具体的に知りはしなかったけれど、その雰囲気が好きだったのである。
 耳元で、突然甲高い金属の音が鳴り響いた。ガラスが割れたのかと思った。しかし違う。車内は全く普段と変わらず、あれほどの物音がしたというのに、誰も何の関心も払っていない。
 我知らず、七草秋子の姿を求めた。胸は予期しない異変に激しく動悸を打っていた。僕自身を深くゆさぶるような衝撃が全身を走りぬけ、抜き差しならぬ状況に置かれたと本能が告げていた。
 彼女は銀鼠色のシートから消えていた。記憶が抜け落ちる時のように、存在の痕跡が消えうせていた。思い出せない人の名前のように、初めからそこにいなかったかのように。眼鏡をかけた灰色のスーツに身を包んだサラリーマンが、彼女がいたはずのところに座っているだけだった。
 ばかな、と思わず叫んだ。何人かの乗客が僕を振り返った。気まずい思いで顔をそらすと同時に、電車のドアが開いて、何人もの顔が僕の目の前に現れた。
 ばかな、と今度は小さく呟いて電車から降りる。M駅だったのだ。人波の中に、僕は壷をかかえた白髪の老婆が歩いているのを見つけた。自分の身体ほどもある壷をかかえて、器用にバランスをとって歩いている。まるでいつも七草秋子がそうしていたように、知らぬ間に外に出ていたらしい。
 白髪の老婆は、どこからともなく桜色の切符をとりだすと、僕がバスに遅れまいと走っていくのとは反対側の道に消えていった。

 気がつけばもう随分歩いたらしい。一つの記憶が立ち現れ、消えてゆくまでの間、僕にはまるで時間の感覚がない。本を読みふける時のように、肉体をどこかに置き忘れて、文字を追う心だけが動いている気持ちがする。
 相変わらず空は曇り、どこを何のために歩いているのか見当がつかない。疲労はそれほど感じておらず、靴底と地面の摩擦熱が全身に及んで、いくぶん蒸した空気のせいもあってか、生温かい熱が身体を包んでいる。
 七草秋子は、あの日学校には来なかった。しかし次の日からはいつもと同じ電車に乗っていたと記憶している。最も、あまりはっきりしていないのが不思議といえば不思議である。
 結局何があったのかは、わからずじまいだった。もしかすると自分が無意識のうちに作った物語が語られただけなのかもしれないとも思う。自分がどこで何をしているか判らない不安定な状況で、頭の中から湧き出たものが妄想でないと言い切れるものではない。
 どうやら駅が近いらしい。電車がブレーキをかけながら止まろうとする音をビルの向うに聞きながら、僕は足を動かし続けた。それ以外に、特別何も思いつかなかったからである。道が果たして駅に続いているかは、あまり気にはならなかった。
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