通学路


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 朝焼けは人生の至福の一つ。昨日までの疲れを忘れる。これから始まる一日の憂鬱を拭い去る。橙色の雲の底が燃え、透明な霧の空気が肌を包む。
 朝風呂の雫は黒髪にかすかに残り、甘い化学的匂いを残した。萌黄色の草花、蜜の匂い、羽虫の乱舞。窓の下を行く人々。湿ったアスファルトを踏みしめる足。
 松下一海は詩が好きな人間ではない。しかし風貌はそれを予感させる。額の前で軽く波うつ髪と、意思の強い瞳。唇は薄く、体は細い。年は十八。紺のブレザーに赤縞のネクタイを締めた。
 緑茶とパンの食事を終え、踵のつぶれたスニーカーに足を押し込み、つま先で二度、三度。左右交互に地面に打ちつける。肩から下ろしたデニム地のカバンが揺れる。
 気温は20度と予報に出た。昼には26度、一海は天気予報をあまり気にしない。天空の様子をわずかに顔をあげて観察するだけだ。それは習慣だったが、当てになるものではない。
 傘を持つ必要は無い。素晴らしい朝焼けだ。初夏のすがすがしい空気。気分がいい。
 団地の狭い細い暗い階段が妙に嫌いである。重いドアを開け、じわりと湿気に押し包まれる心地がする。蟻のように、蜂のように、自分が集団の中の一部だと、心にチクリと針のような痛みを感じる。蟻や蜂が悪いわけではない。
 歯車。歯車。ぐるぐる回転する人生で、自分が自分の意志で動いているのか、他の大きな力に動かされているのか。
 歯車は自分が何者かなど考えはしない。だから歯車は幸せなのだ。交換されるときは死ぬとき。安らかに眠れ。
「安らかならぬ我が人生」
 ポツリと呟いた。口癖のように。芝居の台詞のように。心からの言葉ではない。そもそも人生がどうなるか判らない。
 実際。今のところ、安らかと言えるのかもしれない。順風満帆ではないと思うけれど。
 いじめ。後悔と悲しい気持ちが、一海の心の中で入り乱れた。同時に。世の中にはもっと辛い人がいるのだと、理性がささやきかけた。その冷たい刃が、彼の心を刻み、鋼鉄の網のように激情を絡めとる。
 松下一海は気が弱い。風貌は黙っていれば美男子。知的な装いを凝らした、クールな男。成績も悪くはない。しかし「何を考えてるのかわからない」と女子連中が噂しているのを聞いたことがある。少し傷ついた。
 足の下には階段。冥府魔道に続くかのような。家庭は円満。つまりちょっとしたこだわり。不安。妄想。
 早朝の美しい風景。団地は高台に位置している。
 静かな靄に包まれた町を見下ろす。穏やかな気持ちになる。若い不安が、昨日のことが、将来のことが、日常のささやかな問題が、生まれたばかりの朝日に散じる。
 一本道を自転車で滑り降りる。一海は朝練に行く。
 坂道は団地の間を抜け、個人経営の商店をいくつか過ぎる。角にコンビニのある交差点を見れば、駅前はすぐ。証券会社、100円ショップ、パチンコ、銀行がある。時刻は6時半ごろ。定期を改札で通して階段を下りれば、すぐに電車がくる。
 背広姿の男が多い。それから、一海と同じく朝練に向かう連中。浅黒い肌に、短く刈った頭。スポーツバッグ、運動靴。
 巨大な革製カバンを背負った女子高生がいる。楽器が入っているらしい。オーボエか、トランペットか。細長い。見当はつかない。
 荷物を持たない人間もいる。例えば、目の前の男。見慣れない制服は、遠くの私立進学校。ネクタイを締めている。折り目のついた制服。校名の入った四角いカバン。縁無しの眼鏡。
 いつも列の最前列にいて、真っ先にシートに座る。その後は寝ているところしか見たことがない。常に単語帳を開いているイメージだというのに。クールな秀才といった様子で。
 松下一海は演劇部だった。ついたらすぐに、腹筋、発声練習。身体が資本。顔は、あまり重要でないと思う。秋の文化祭公演で引退する。卒業前に、主役をはることになった。
 しかし、三年になって舞台に出る者も珍しい。部員が少ないのだ。実は一海も受験にあまり熱心ではない。
 本来ならば。大学を目指して通学の一秒たりともおろそかにしてはならない。人生一時一大事の大転換期。気をゆるめることなく、全力を投じよ。
 どこの誰が、最初に言ったのかは知らない。誰かが言ったのかすら定かではない。雰囲気だ。
 しかし心には重くのしかかっている。その言葉は、おそらく真実であるゆえに。英語は文法問題が苦手。数学はやる気もなし。歴史は好きだ。暗記は苦にならない。国語はそれなりに。文系なのだと思う。
 平凡な人生を送りたいのならば、平凡な結果に安住していてはいけない。何かが大きく軌道をそれようとしている。そんな気がする。空想にふけって自転車のブレーキを切りそこねるように。挙句の果てに、大怪我をすれば世話はない。
 通学に、およそ一時間。40分は電車に乗っている。あとの20分は歩きだ。一海のとりとめのない思考は、唐突に終わりを迎えた。駅に着いたのではない。
 一人の少女が入ってきた。T駅である。長い黒い髪。制服は一海と同じ学校。都山満知という。二つ隣のクラス。一海が3組だから、彼女は5組。理系志望者のクラスだった。男四十人の中に、女は五人しかいない。
 電車はすでに満員。ドアの間際まで人がいる。
 彼女はわずかな隙間に足をかけた。くるりと後ろを向いて背中から入る。人を押し込める。入り口の上に手をかける。発車のメロディが流れる。
 ――まもなく列車が発車いたします。急なご乗車、駆け込みは大変危険ですので、白線の内側まで下がって次の列車をお持ちください。シュー、ガタン。ドアが閉まる。
 日常の動作なので、顔には何の感情も表れていない。紺のショルダーバッグがひしゃげている。
 一海との距離は、人間五人分。毎朝同じ電車に乗っていることに、彼女はおそらく気づいていない。いつも窓の外の景色ばかり見ているから。彼女は本を読まない。ゲームもしない。音楽も聴かない。
 繰り返す日常の儀式の一部のように、透明な瞳で、鈍い光を反射している家の屋根を見ている。あるいは空を。本当のところはわからない。一海が彼女を見ているのとは対照的に。
 何故かそれは、幻想的に思える。美術館に飾ってある絵画のように。揺れる電車。無口な乗客。朝の光。時間が静止したかのような、錯覚。
 二人の視線は交差することがない。この一年。そして永遠に。言葉を交わすこともない。思い出の中に、美しい風景の一つとして刻まれるのみ。
 一海は心をはかりかねていた。これを、この朝を、日々の儀式を、何と呼べばいいのだろうか。例えばあまりにも短絡した、単純な言葉。恋。恋愛。初恋。否。否。違う。そうではない。違うのだと、心の奥が頑に抗う。
「運命」
 彼にささやく言葉がある。運命。しかし、あまりに大仰。運命の何事か。巨大な機械仕掛けの世界で、たまたま隣り合った歯車。歯車。歯車。一生の中で、たまたま接近した二つの。小さな鉄片。
 チクタクチクタクという……音。小刻みの。はるか彼方、歴史の暗闇から微かに響く音。音。音。神の恵みと計らいの作り上げた世界を、すれ違い、二度と会うことのない人々。その一人一人が、互いにこすれて音を立てている。世界は巨大な、見る人とてない一つの時計で、それは時を刻むためだけに存在している。
 動き続ける歯車の中で、一時同じ方向を見ている。同じ周期を持っている。それが、彼女。都山満知だという想像を、一海は気に入っていた。
 窓の外は海。鉛色の鉄板のような。風の気配もない。ミニチュアめいた漁船が薄い朝日のなかに固定されている。飛び降りれば、どこまでも歩いていけそうだ。西の彼方遠く。最果ての桃源郷へ。空と海の交わる線の先には、何も無いような気がしたけれど。まるで世界が断ち切られたように。
 電車はやがて、白いコンクリートの壁に包まれたM駅に滑り込む。物言わぬ乗客の空気が、ドアーの開く音とともにざわめき始める。身体の後ろを、黒いスーツの男たちがぶつかりながら通り過ぎる。
 この駅を境に、乗客は少なくなる。一海の学校と同じ制服が、車両の中にちらほら見える。目の前の秀才風の、右側の席から人が立った。紺色のスーツを着た、OL風の女性。降りる客の最後尾についた。席が空く。
 座ろうと考えた。隣に立つ者もない。
 まわりを何気なく見回した一海の目に、車両の外にいる白髪の老婆が映った。降りる客と入れ違いに入ってきた。小柄な姿。皺の多い顔に刻まれた黒目が、くるりと動く。一海の前の席を見つけると、危なげなく近づいた。堅い樫の杖をついている。
「失礼しますよ」
 しゃがれた、抑揚のない声。一海の顔をちらりと見る。腰を曲げる。杖に重心をかけた。ゆっくりと身体を反転。席に腰掛ける。蝙蝠が木に停まるように。おさめた羽根。黒ずくめの、フリルばかりの衣装。
 同時に発車のベルが鳴る。車体が軋んで、列車は駅を出た。
 一海は視線を戻した。満知の方へ。迷いの時は過ぎた。日常の儀式へと戻る。
「ええっ」
 知らず、声を出した。息を吐いた。周りの数人が、怪訝そうに顔を向ける。それにも気づかない。驚きが、頭の中を白く染めた。まるで記憶が失われたかのような、錯覚。
 都山満知の姿がない。ドアーの近くに、神秘めいて佇んでいた彼女、黒髪の女子高校生。彼女は、目を離したひと時の間に、いなくなっていた。
 一海の視線は不安定にドアのあたりを探る。小物を落としたときのように。見逃していることはないか。どこか隅に隠れているのではないか。
 しかし彼女の姿はなかった。途中下車だろうか。きっと腹痛か何かで。やんごとなき用事が出来たとか。
 妥当な理解をしようとした時。
「よう」
 突然声をかけられた。耳慣れた声だったが、心の準備がなかった。
 さぞ間抜けた顔で、短くうめいた。身体を硬直させた。振り向いた。いくつもはねた髪。ジェルで固めている。なんとかヘアーというやつ。ファッション雑誌に載っている形の。
 彼は同級生の男。佐久間有三。そういえば偶に会うことがあった。電車が途中から同じで。学校でも、何度か話したことがあった。嫌いなタイプではない。
「びっくりしすぎ」
 カラカラと笑った。一海は曖昧な笑顔で息を吐く。
「いきなりだったから」
「ぼーっとしてたぜ。目がどっか行ってた」
 自分の驚きを、都山満知が消えてしまった事を、伝えようか迷った。即座に却下した。彼は理解しないだろう。逆の立場なら、自分もまた。
「考え事をしてたから」
 無難にやり過ごすことに決めた。
「ふーん。それにしても」
 再び佐久間有三はカラカラと笑った。一海の肩をたたく。身体を震わせて。振り向いた時の反応が、よほど可笑しかったらしい。
「おかしな日なんだ」
 一海は話をそらすことにした。
「何が?」
 不意をつかれたように。有三が真顔で聞き返す。
「そういう気分なんだ」
 脈絡のない会話。
 電車が止まり、再び動き出す。
 都山満知のことが、とりとめもなく、結論も出ずに、ぐるぐると頭の中をめぐっている。消えた少女。儀式から逃れるように。世界の法則を超えて旅立った姫君。
 悪い癖だと一海は思う。幻想癖。自分の空想のことを、彼はそう呼んでいた。人に言ったことはない。
 一海の考えていることがわからない。そういった様子で、有三は黙り込んでいた。
 心に申し訳ない気持ちが浮かぶ。しかし、笑われるよりはマシだ。
 軽々しく、笑ってすませて良い事ではない。
「ところで」
 ふと思いついて、一海はたずねた。
「あれはどうなった?」
「あれ?」
「中野さゆり」
 声のトーンを一つ落とす。有三はちらりと周囲に目を走らせた。自分の学校の生徒がいないか。
「なんもねぇよ」
 ぶっきらぼうに答える。
 中野さゆり。有三が好きな女の子だ。同じクラスの、バレー部。さほど目立つ生徒ではないが、しなやかな魅力がある。やわらかそうな、ふっくらとした頬。大きな胸。長い手足。
 一海は反撃に出る。考えてみれば、これ以上自分の話を続けたところで不毛なだけだ。理解される事も、上手く話すこともできそうにない。
 都山満知は。その、彼女にまつわる不思議な感覚は、おそらく一海だけのものだ。余人にとってはごく普通の、何でもない事柄に過ぎない。途中で電車から降りただけというような。
 運命。不確実な、曖昧な、疑わしい、大げさな言葉。だけれども不思議とそれを連想させる、彼女。
「最近話してないだろ」
「きっかけがないんだよ」
 仏頂面の佐久間有三。同じクラスというだけで恵まれているじゃないか。ふと一海は思う。
 都山満知に話しかけたいという気持ちは不思議となかったけれど。そもそも自分が恋心を抱いているとも思わなかったけれど。
 しかしそれを口に出しはしない。自分でもわからない微妙な心。目の前の彼は、きっとそれを単純な言葉に押し込めてしまうだろうから。何だかんだ言ったって結局……という類の。
「卒業までには、何とかしたいんだろ?」
「それまでに付き合いたいな」
「それなら、今日告白するとか」
 からかうように言う。自分の事情は棚にあげて、他人のことを無責任にけしかけるのは愉快だった。
 有三は眉をしかめていた。機嫌を損ねている。しかし、告白という言葉は、心に波紋を投げかけたらしい。
 一海の無責任な態度のわりに、真剣に考えているように見える。希望を模索する顔。自分の思いが通じる、何か根拠のようなもの。
 同級生というだけではなく。その他の有象無象の奴ら、いるかもしれない恋敵。どんぐりの集団から自分を浮き立たせるもの。華やかな彩りを添えるもの。光。光。希望の光。
 相手が黙ったのは、一海には好都合だった。腹黒いかなと思いながら、再び車両の先に眼を向ける。
 ドアーの近くには誰もいない。銀色のポールが鈍い光を放っているばかりで。実に当たり前のように。
 電車の外は住宅街。角が欠けた立方体のビル、くすんだ色の屋根。ここらあたりは、ごみごみした下町。その真ん中に、彼らの通う学校がある。
 もう、次の駅だ。彼女を見失ったまま。アナウンスとともに、ドアーが開く。口数の少なくなった有三に声をかけて、一海は外に出た。
 ブレザーの学生達がぞろぞろと後に続く。都山満知の姿は見当たらない。一海の前に座っていた老婆。彼女も同じく電車を降りた。それは、若干奇妙な印象を一海に与えた。
 今までに見たことがない姿。偶々何かの用事なのだろうか。人波の中を、それを気にする様子もなく。老婆は軽々と改札に向かっていった。
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