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「でも、現実にはそうならなかった」

タケシさんの言葉にシゲルおじさまは頷いて、

「研究所にミュウスリーの姿は見あたらなかった。
 俺は器用なことは苦手に思われがちだが、潜入活動には自信がある。
 見落としはない。隈無く研究所を捜索した結果がそれだ」
「それで――空手で帰ってきたのでござるか?」
「慌てるなって、キョウ。
 グレン島の住人の一人が、興味深いことを教えてくれたんだ。
 なんでも真夜中に、研究所とどこかを往復するヘリを見たヤツがいるらしくてさ。
 しかも研究所から出て行く時には、コンテナを吊り下げて大型飛行ポケモンの護衛がついてるっていうから面白いだろ」
「場所を移し替えたのね?」
「ほぼそれで間違いないだろうな。
 ミュウスリーはグレン島で創られた後、どこかに移送された。
 その理由も、移送先も不明だが……」

シゲルおじさまに倣って、複数の瞳がマサキ博士に集中する。

「マサキ博士。あんたなら何か知ってるんじゃないのか。
 繕っても白々しいだけだから言っとくけど、この時期に都合良く寝返ってきたあんたを、100パー信用するのは難しい。
 その怪我にしても、俺たちを信用させるためにわざと負った可能性も、否定はできない。
 けど、八方塞がりの現状を打開できそうなのは、あんたの持ってる情報くらいなんだ」

マサキ博士はその台詞に動じた様子もなく答えた。

「シゲルくんの疑心はもっともや。
 どっちつかずの蝙蝠は嫌われるのが自然の理やからな」

自分に集まった瞳の一つ一つに視線を返しながら、

「結論から言うて、ミュウスリーの移送に関して、ワイは何も知らん。
 君らもシステムについてサカキから聞かされてるんやったら分かるやろ。
 システムの人間は、必要な情報と仕事しか与えられへんねん。
 ワイの場合はミュウスリーの精神制御とそれをアシストする骨格の開発を任されてたけど、
 それを付ける実物がどこで開発されて、どこに安置されてんのかは、まったく知らされへんかった。
 サカキが推測したように、ワイも十中八九、グレン島で創らてれるんやろうなあって思ってたけどな。
 そっからどこに移動したんかは、これは想像のしようがあらへん」

すまんな、というマサキ博士の声に、誰も応えなかった。
息苦しい沈黙が降りている中で、あたしだけがいつもどおりに呼吸して、頭を働かせていたと思う。
お父さんがあたしの知らない女の人と結婚していたという事実を耳にしてから、
あたしはこの場にいる意味を、この場で行われてる話し合いに対する関心を、急速に失いつつあった。
それが客観的な視点をあたしに与えてくれたのかもしれない。
マサキ博士の緩んだ口元は、まるでまだ何かの情報を吐き出したりない、という風に見えた。
隣のピカチュウを見る。
あたしの視線に気付いたのか、ピカチュウは円らな瞳を瞬かせて、首を傾げた。
ピカチュウは生きている。ピカチュウのみならず、ポケモンは皆生きている。
その"生"を人間が計算で無理矢理に再現するなんて、本当に可能なのかしら。

「あの」

もうあたしには、関係のないことなのに。
口にしてから、傍観者に徹するだけの辛抱がなかった自分を恨む。

「どうしたんだ、ヒナタ」
「あたしには遺伝子工学や、ポケモンを操る原理なんてわかりません。
 けど、ひとつだけ……気になることがあるんです。
 実際にミュウスリーを操ろうとしたら、いったいどれだけの設備が必要になるんですか」
「最低でもスパコン二台。それもしょぼいヤツやったら話にならん。
 ワイが研究してた地下施設には半端ない性能のスパコンが四台あって、初めての装着テストの時には三台フルで回してたわ」

エリカさんがおっとりとした口調で尋ねた。

「その"すぱこん"という設備は高価なものなんですの?」
「いちから説明した方がよさそうやな。
 スパコンっちゅうのは、スーパーコンピュータの略称や。
 名前似てるからいうて、世間に普及してるパソコンと一緒にしたらアカンで。
 スパコンには今の時代の最新技術が詰め込まれてる。
 構築費も維持費もアホみたいに高いけど、その分、演算速度はヘボいもんでも普通のコンピュータの千倍以上や」
「……ものすごい電卓と考えてもよろしくて?」
「まあ……、そやな、それでもええわ」

腑に落ちない様子のエリカさんを余所に、シゲルおじさまが言った。

「今の話がマジなら、ミュウスリー計画には欠陥があるな」

ただ一人を除いて、皆の意識がシゲルおじさまに集中する。
あたしはマサキ博士の口角が、何かを待ち侘びるように上がるのを見た。

「システムがミュウスリーを単体で動かすとは考えにくい。
 量は質に勝る。たとえミュウスリーが規格外のポケモンでも、その法則は覆らない。
 つまり、ミュウスリーは必ず複数体で現れる。
 だが、たった一体動かすのにそれだけの設備が必要なら、
 部隊編成なんて望むべくもない、システムの馬鹿げた資金力を考慮しても二、三体を同時に動せるスパコンを準備するのが限度だ」

そうだろ?――シゲルおじさまの問いかけに、一同が頷く。
重苦しい雰囲気が少しだけ軽くなる。
ミュウスリーの強さを、あたしたちは知らない。
でも、ポケモンリーグのランカーにはジムリーダークラスの強さを持つトレーナーがたくさんいる。
そういったトレーナーが団結すれば、ミュウスリーが二、三体現れたところで、恐れる必要はないのかもしれない。
ふと抱いた幻想は、

「ミュウスリーに使われる演算装置がスパコンやったら、そうやな、シゲルくんの言うとおりや」

マサキ博士の一言で儚く消えた。

「どういう意味なの?」

アヤメおばさんの真剣な眼差しを軽々と受け止めて、マサキ博士は愉快げに続けた。

「そのまんまの意味やで。
 ワイもシステムでミュウスリーの骨格開発に携わってた頃は、ずっとミュウスリーの絶対制御数の矛盾について考えてたわ。
 他の研究員は盲目的に働いとったけど、ワイは一度でけた疑問はいつまでたっても引きずる性格やからな。
 結局はシステムが、スパコンを超える計算装置持ってるんやろて自分を納得させたんや」
「そんな計算装置が実在するのか?」
「さあな。こっから言うことは、正直、信じるに値せえへん話やで。
 盛り過ぎて頭のネジ緩んだ研究者の妄言として聞くもよし、史学のパラダイムシフトに関わるような高説として聞くもよしや」

沈黙がマサキ博士を促した。

「君らは、ポケモンが存在せえへん、人間が自分の力だけで文明を築いてた時代があった、っていうたら信じられるか。
 人間がこの星の支配者たりえた、人類史の黄金期とも言える時代があったことを、信じられるか」
「い、いきなり何を言い出すんだよ」
「さっきの話と関係あんねん。ワイは真面目に訊いてる」

エリカさんが静かに反論した。

「人間とポケモンは遙か古より共存してきた。わたくしはそう教えられましたわ」

タケシさんもそれに強く同意した。

「人類の黎明期において、ポケモンが果たした役割は大きい。
 ポケモンの存在がなければ、人類はここまで発展できなかったはずだ。
 今でこそ物が豊かになって、ポケモンがいなくても生活に不自由がないように感じられるかもしれないが、
 都市部から遠く離れた僻地は、未だポケモンの力がなければまともに生活できない状態だ
 俺は年中全国を回ってるから、それがよく分かる」

マサキ博士は反応に満足そうな笑みを浮かべて言った。

「君らの言い分は正しい。
 古代の人類がポケモンの力借りた結果として今の繁栄があんのに、そのポケモンが存在せえへんかった時代を仮定すんのは論理が破綻してる
 誰でもそう思うわな。けどな、こうも考えることはでけへんか。
 ポケモンがいた所為で、古代人は思うように発展できんかった。
 ポケモンに比べて、人間はあまりにひ弱や。
 無理矢理にポケモンを遠ざけようとしても、生活圏は圧迫されるし、野生のポケモンの襲撃に怯えながら暮らさなあかん。
 その結果、古代人はポケモンに対して排他的な姿勢をとれず、共存する道を選ぶことになった。そうは考えられへんか」

あたしは徐々にマサキ博士の話に惹き込まれていった。

「史実と断定すると抵抗あるやろうから、最初はイフの話として考えてもええ。
 もしポケモンがこの星におらへんかったら、人類はどんな風に発展してきた?
 まず、世界地図が完成してたやろな。
 それに連動して、新資源の発掘が容易に行われる。
 さっきタケシくんが言ってたような、都市部と僻地の格差も無く、
 ポケモンに依存してた部分は機械が代替するようになるはずや。
 街と街の間には野生ポケモンの棲息地の代わりに綺麗な道路が敷かれてたはずや。
 それ以前に生活環境の向上で人口爆発起こって、土地が足りんような事態になってるかもしれん。
 自然は当たり前みたいに切り崩されて、人間に都合ええように作り替えられていく。
 需要と供給のバランスはいつでもちょっと前者が上で、後者はそれに応えようとして、
 結果、産業基盤の社会資本、インフラは加速度的に充実、成長していき――」

タケシさんが信じられないといった風に遮った。

「ポケモンがいなければ、本当にそうなっていたのか?」
「逆に聞くけど、君がワイの例え話を信じられへん理由は何や。
 この世界の23%の土地が人類未到なんは、そこにおる強力なポケモンが人を絶対に寄せ付けへんからや。
 新資源の開発に着手でけへんかったり、街と街の間を安全に往復でけへんかったりするのは、野生ポケモンの襲撃にあうからや。
 結局、人類が思うように発展でけへんかった理由は、ポケモンに帰結する」

隣で、ピカチュウが耳を震わせるのが分かった。
アヤメおばさんは間断なくマサキ博士の言い分を否定した。正確に言えば、否定しようとした。

「想像の域を出ない話だわ。マサキ博士。
 あなたの例え話が事実で、ポケモンが存在せず、人類が自由に発展できた時代が過去にあったとするなら、
 その時代から繋がる現在に、当時の繁栄の名残がどこにも見あたらないのはどうしてなのかしら。
 ポケモンが現れた所為で人類の最盛期が終わったのだとしても、それまでに培われた技術が全て失われるわけではないでしょう?」
「古代人が衰微した理由は、ポケモンの出現やない。
 古代人は自ら滅びの道を歩んだ。
 行過ぎた文明の末路は決まってる――自滅や。
 復興の兆しが見えた時、既に黄金期の産物のほとんどは失われてた。
 人類は振りだしに戻ることを余儀なくされた。
 それと時期を同じくして、この星に現れたのがポケモンや。
 人類が荒廃した世界から目を背けるように縮こまってた間に、生態系は大きく変化してた。
 長い時間が過ぎて、人類が恐る恐る外に出たとき、既にこの星の支配者の座は奪われてた。
 以上がワイの仮説や」
「証拠はあるのか?」

とタケシさんは尋ねた。

「ないで」

とマサキ博士は即答した。

「けど、証拠がある場所は検討がついてる。
 ここで君らに質問や。このカントー地方で、一番野生ポケモンの質が高くて、
 ランカークラスのポケトレしか立ち入り許可されてない場所はどこや?」
「セキエイ高原……でござるか?」
「ご名答。ワイとヒナタちゃん以外のモンは、踏破した経験があるはずや。
 あそこはポケモントレーナー最後の登竜門やからな。
 セキエイ高原には、別名が二つある。
 一つは有名やから、みんな知ってるやろ。"野生ポケモンの聖域"や。
 でも、もう一つの方――"アーティファクトの草原"は多分、誰も知らんはずや」
「アーティファクト?」
「この中に考古学とか古人類学とかをちょっとでも囓っとるモンはおらんのか?
 アーティファクトっちゅうんは、人工遺物のことや。
 セキエイ高原では、そのアーティファクトがたまーに発見される。
 熱心な学者にとっては垂涎ものや。
 けど悲しいかな、そういう学者ほどポケモントレーナーとしては二流なんが多くて、
 アーティファクト見つける前に野生ポケモンに襲われて命を落としてる。
 かくいうワイも、若い頃はセキエイ高原探検したことあってな、あの時は本気で死を覚悟したわ」

シゲルおじさまが言った。

「その冒険譚はまた今度聞かせてくれ。
 セキエイ高原にアーティファクトが存在していることは分かったよ。
 けど、そいつはあくまで常識の範囲内の代物で、あんたのいうポケモンがいない時代を考証できるような物じゃないんだろう?」
「その通りや。公表されてるアーティファクトはどれもこれも、古いのに状態がええっていうこと一点を除いたら、特に価値があらへん。
 でもな、考えてみ、もしどっかの組織が、
 そういった現代科学で説明できんようなアーティファクト――オーパーツ――を隠蔽しているとしたらどうや?
 発見されたアーティファクトは、公表されても問題ないと、その組織に精査されてから公表される。
 偶然オーパーツを発見した探検家は、その組織のモンに口封じされる。
 そんな決まりが、セキエイ高原に人の手が初めて入った200年前からこっち、ずっと罷り通ってきたとしたらどうや?」

誰よりも否定的だったアヤメおばさんが、今ではマサキ博士の話に聞き入っていた。

「その組織って……」
「システムの他に、何がある」

エリカさんは静々と尋ねた。

「マサキ博士は、その隠されたオーパーツが何なのか、知っていますの?」

マサキ博士はくっくっくっと喉を鳴らしながら、

「君らも知ってるはずやで。セキエイ高原に造られたポケモンリーグの中枢に、何があんのか」

シゲルおじさまが呟いた。

「セキエイのコンピュータ、か」
「この中で、セキエイのコンピュータを見たことあるもんはおるか?」

全員が首を横に振る。
例えポケモンリーグに出場資格を持つランカーでも、
リーグで安定した実力を認められた結果、任命されるジムリーダーや四天王でも、
セキエイの深奥に位置するコンピュータに触れることは許されない。
その資格を持つのは、ポケモンリーグを勝ち抜き、四天王を乗り越え、当代のチャンピオンを倒した者、ただ一人だけ。

「見たことはない。だが、どんな物かは爺さんに聞かされて知ってる」
「シゲルくんのお爺さん……オーキド博士か。
 あの人もずっと昔にやけど、ポケモンリーグ優勝経験あるからなあ。
 博士、元気にしてはるか?」
「何度一緒に暮らそうって持ちかけても『マサラタウンに残る』の一点張りさ。
 自分ではまだまだ元気なつもりなんだろうが、傍から見てたら心配で仕方がない」

あたしはふと、オーキド博士のことを思い出した。
友達がいなかった幼い頃のあたしにとって、オーキド博士の研究所は絶好の遊び場だった。
あたしが訪ねると、オーキド博士はいつも皺いっぱいの笑顔を浮かべて迎え入れてくれた。
そしてポケモンの話をしてくれたり、研究所にいるポケモンに触れさせたりしてくれた。
オーキド博士はあたしにとって、本当のお祖父ちゃんのような存在だった。
でも、博士の年齢に限界が近づいていることは確かだった。
マサラタウンを旅立つ前日、直接あたしの家に赴いてポケモン図鑑を手渡してくれたオーキド博士は、きっと、歩くのも辛い状態だった。

「ともかく、俺が爺さんから聞かされた話はこうだ。
 セキエイのコンピュータには、リーグ優勝したトレーナーと、そのトレーナーの所持ポケモンのデータが記録される」

シゲルおじさまはあたしを一瞥して、すぐに目を逸らした。

「データは定期的に更新される。そのデータを閲覧できるのは新しいチャンピオンだけで、それ以外の人間は触れることはおろか見ることもできない。
 平時はそのコンピュータがある部屋は厳重に閉ざされていて、鼠一匹侵入できないそうだ」
「不思議やと思わんか。
 どうしてわざわざ、ポケモンリーグ優勝者のデータが残ってるコンピュータを、そこまで神経尖らして管理せなあかんのや?
 リーグ優勝者が誰で、そいつがどんなポケモン使ってたかなんて、ポケモンリーグ終わった後は誰でも知ってることやろ。
 そうすると結論は、そのコンピュータ自体に価値があって、リーグ優勝者のデータは、そのコンピュータに記録されて、初めて意味があるってことになる」
考えつきもしなかった。
セキエイのコンピュータが、古代文明の遺産だったなんて。

「コンピュータの価値は、そのまま処理速度の高さを表わしてる。
 セキエイのコンピュータが、既存のどんなスパコンよりも優秀な演算装置やったとしたら、
 あるいはミュウスリーを同時に何十体も操ることが可能かもしれへん」
「何十体も? 冗談だろう?」
「数字は適当に言ったまでや。実際はそれより少ないかもしれへんし、それより多いかもしれへん。
 なんせ性能が未知数やからな。
 けど、もし仮にセキエイのコンピュータが量子コンピュータとかの類やったら終わりや」
「量子コンピュータ?」
「超並列処理が可能な、現代では理論上構築不可能な量子計算機や。
 こいつがあれば、実質的にミュウスリーの絶対制御数に上限がなくなる」

無数のミュウスリーに対抗できる術はない。
あたしはマサキ博士の言った「もしもの話」を信じたくなかった。
重く垂れ込めた沈黙を破ったのは、エリカさんだった。

「希望的観測は無意味ですわ。
 量子コンピュータの存在を否定することはできません」
「一度落ち着こうぜ、エリカ」

シゲルおじさまが言った。

「確かにセキエイのコンピュータの正体が分からない以上、
 そいつがトンデモコンピュータであることを否定することはできない。
 だが、同時にそいつを肯定することも、俺たちにはできないはずだ」

マサキ博士は目をぱちぱちと瞬かせてシゲルおじさまを見た。

「君も若い頃と比べて思慮深くなったなあ。
 種蒔いたワイが言うのもなんやけど、今の話は鵜呑みにせんほうがええ。
 最初に前置きしたと思うけど、これは所詮、仮定に仮定を積み重ねた仮定論や。
 土台の仮定が崩れたら、上に乗ってる仮定も一挙に崩れるっちゅう仕組みになってる。
 もしワイが今の話を論文として学会に発表したら、次の日からワイは奇人変人扱いされる。
 どんなに筋道たてて信憑性あるように話しても、そこに傍証がなければ与太話に過ぎんからなあ」

一同を見渡して、

「でも、ここで大事なんは、君らは頭硬い研究者やのうて、ポケモントレーナーっちゅうことや。
 ワイの与太話に賭けるもよし、別の線から当たるもよし。
 君らで話し合って決めたらええ」

マサキ博士は不敵な笑みを浮かべた。



夜が更けてきたこともあり、話し合いは後日に持ち越された。

「おいで、ピカチュウ。
 難しい話ばかりで、疲れたでしょ」

肩によじ登った僕を、ヒナタは優しく撫でてくれた。
手の平から伝わる愛情と、その愛情が所以の彼女の危うさに囚われて、僕は身動きが取れなくなる。
ヒナタは僕に依存している。そして、これ以上何かを失うことを怖れている。
夕刻、午睡から目覚めたヒナタが、近くに僕が見えないことで取り乱す姿を目の当たりにしたとき。
僕は幸せな夢から醒めた。
無条件に得られる幸福に甘んじるのも一つの選択だろう。
システムのことなんて忘れて、ヒナタと一緒に充実した余生を送る。言葉にすると、より魅力的に思える。
けど――それはまやかしの幸福だ。
僕はヒナタより長生きすることができない。ヒナタが喪失を人生の糧にできるほど、成長するのを待つこともできない。
近い未来、僕を失ったヒナタのために、今の僕ができること。
その答えを、僕は死ぬまでに見つけ出すことができるのだろうか……。
ふと、後ろから足音が聞こえた。
振り向かなくても分かった。タケシだ。

「少し、話がある」
「タケシさん……どんなお話ですか」
「ここでは話せないから、俺の部屋に来て欲しい」

ヒナタは少し迷うような素振りを見せてから、頷いた。
タケシに宛がわれた客間のひとつは、ヒナタが宛がわれた部屋と同じような造りをしていた。
入った時には既に暖房が効いていたが、どこかの隙間から暖気が漏れているのか、温かくはなかった。
タケシは単刀直入に口を切った。

「カスミから伝言を託かっている」
「お母さんから、ですか?」
「今朝、手紙が届いたんだ」
「それならどうしてもっと早く……」

ヒナタが顔を赤らめて俯く。
今日はたっぷりと寝坊したことを思い出したのだろう。
タケシはあえてそれには触れずに、

「カスミは、君がマサラタウンに帰りたければ、帰ってきてもいいと言っている」
「お母さんは、その……」
「事情は全て伝わっているよ。
 直接迎えに来ないのは、あくまで君の意思を尊重するためだ」

カスミはヒナタがマサラタウンを旅立つその時になっても、過去を語ろうとしなかった。
サトシが何も言わずに姿を眩まし、つまるところ、カスミとヒナタを捨てたことを教えなかった。
カスミがヒナタを旅に出すことで一番怖れていたのは、きっと、ヒナタが旅の途中で真実を知ることだった。
それが現実となった今、カスミの心は娘が受けた傷を心配するあまり、押しつぶされそうになっているに違いない。

そしてその傷を故郷で癒してあげたいと思うのは、母親として当然の心理だろう。
マサラタウンに帰るということは、とりもなおさずシステムやミュウスリー計画のことを忘れ、逃げるということだ。
しかし、誰がヒナタを責めることができる?
追い求めていた父親に改めて捨てられ、しかもその父親が新しい家庭を築いていたことを告げられたヒナタに、誰がこれ以上を望むことができる?
マサキはサトシの過去を語ったとき、ヒナタは気丈に振る舞っていた。
何故エリカがマサキ博士を制止したのか、分かっていない様子だった。
きっとヒナタは、自分がその双眸をいっぱいに潤ませていたことに、気付いていなかったのだ。
ヒナタの心の傷は、彼女が思っているよりも深い。
だから、

「タケシさん……」

僕はヒナタが逡巡なく、マサラタウンに帰る道を選択すると思っていた。

「……考えさせてくれませんか」

ヒナタの発言が理解できなかった。
保留の理由は、どこにある?

「俺は別に構わないが……、できるだけ早く決めたほうがいい」
「どうしてですか」
「選択肢が増える前に決めた方が、悩まずにすむからさ。
 もしも、明日シゲルに『システムの調査に同行してくれ』と頼まれたらどうする?
 たとえ嫌でも、咄嗟に拒むことができないだろう。
 君はお母さんに似て優しいからな」
そういう思惑があることは、薄々察していた。
何故ヒナタを話し合いに参加させ、真実を伝えたのか。
それはミュウスリー計画の深刻性を知らせることよって、ヒナタに偽りの義務感を与えるためだ。
知ってしまった以上は、関わり続けなければならない、という心理で束縛するためだ。
ミュウスリー計画を阻止しようとすれば、確実にサトシが立ちはだかる。
その時、誰もヒナタに、サトシをポケモンバトルで打ち負かすことは期待しないだろう。
ヒナタはそこに存在するだけでいい。それだけでサトシに動揺を与えることができる。
ただし、再びサトシと対峙したヒナタが負うことになる精神的負担は、元から計算に入っていない。
残酷で、合理的。
ヒナタを姪のように可愛がっていたシゲルらしからぬ考えだが、
今の彼はサカキの意思を引き継ぐ立場にある。
行動の方針が決まれば、彼は私情を殺して、ヒナタに同行を頼むだろう。
僕はヒナタが帰郷を選択することを願った。
しかし、

「それでも……やっぱり、考えさせてください」

ヒナタの返事は変わらなかった。
「そうか」

タケシは目を細めて呟いた。
と、その時、襖の外を渡っていた複数の足音がぴたりと止まった。

「すいません、タケシさん。ここにヒナタいませんか?」
「いるよ。ちょうど今話が終わったところだ」

襖が開いて、タイチとカエデが姿を見せる。

「探したぜ」
「いつまで経っても奥の部屋から戻ってこないから心配したじゃない」
「ごめんなさい」

会釈して立ち上がるヒナタに続きかけて、足を止める。
タケシに目配せすると、察してくれてようだ。

「ピカチュウを置いていってもらっていいかな。
 こいつと会うのは本当に久しぶりでね。積もる話が山とあるんだ」
「それは……」

珍しくタイチが空気を読んだ。

「いいじゃねえか、少しくらい。あんまり過保護だと、窮屈だと思うぜ」

ヒナタはしばらく悩んでいたが、
最後は僕の額に自分の額を押し当てて、
「眠たくなったら、すぐにあたしの部屋に戻ってくるのよ。分かった?」と言い残し、
三人で連れ立って去っていった。
「これで良かったんだな」
「ピカ、ピカチュウ」

心遣い、感謝するよ。
するとタケシはニッと笑って、

「行けよ。まさか本当に昔話に花を咲かせるつもりなのか?
 まあ、俺はそれでもいっこうに構わんがな」

昔話はまたいずれ、他の面々が揃っている時にしよう。

「ああ」

タケシが無邪気に頷き、襖を開けてくれる。
"その時"がやってくるまで、僕は生き存えているだろうか。
そんな暗い自嘲を胸に、僕は冷たい廊下を歩き出した。