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翌朝。目覚めた僕は、昨日のマサキとの遣り取りが、
何もかも夢だったのではないか、という考えを振り払えずにいた。
僕の体には昨日と同じ箇所に同じ数だけ管が繋がっていた。
記憶が正しければ、マサキが繋ぎ直してくれたからだ。
記憶が偽りならば、そもそも僕は管を外していないからだ。
脱走したい、しかし単身ではこの病院からヒナタのところまで行けるはずもない――。
「脱走に協力したるわ」というマサキの言葉は、そんな葛藤が見せた都合の良い夢だったのか?

それが現実であったことを確かめられたのは、
予測されていた雨が予測されていた通りの強さでタマムシシティを潤ばし始めた、正午前のことだった。
診察を名目に僕の個室を訪れたマサキは、

「返事、訊きにきたで」

惚けた様子でそう言った。僕は二つ返事で答えた。

「ピカ」

――自然死を選ぶよ。
するとマサキは途端に相好を崩して、
白衣の懐から一つのボールを取り出した。
疵だらけのモンスターボール。思わず破顔した。
これを見るのは随分久しぶりだった。そうか、君が持っていたのか。

「君もどうせ運ばれるんやったら、少しでも快適なボールがええやろうと思ってな」

ふふ、快適さを重視するなら、ハイパーボールを所望してもいいかな。

「何事も馴染んだもんが一番や」

違いない。
「それにしても、えらい雨やなあ。
 夜までに止むことを祈るばかりや」

まさか雨天順延なのか?

「それはないから安心しとき」

マサキは笑って診察簿になにやら書き加えると、
もう一度だけ、土砂降りの景色を眺めて、

「ほな、また夜に来るわ。
 準備は何もいらんけど、心構えだけはきっちりしとくねんで」

と言い残して去っていった。
静かになった個室で、雨音と、遠雷の音を聞いていると、不思議と心が落ち着いた。
僕はそれらの音を揺籃歌に、来るべき夜に備えて目を瞑った。



「カエデは……?」
「眠ったわ。あの子があんなに素直になるなんて、何年ぶりかしら」
「昨日の夜は、ほとんど眠れなかったんだと思います」

カエデはあの夜、アヤメおばさんがポケモンで命の遣り取りをしている現場を目の当たりにした。
そして立て続けに起こった、アヤメおばさんたちの身柄の拘束。エリカさんのお屋敷で、アヤメおばさんの帰りを待つだけの日々。

「そう」

アヤメおばさんは小降りになる気配のない雨を硝子越しに見つめながら呟いた。

「あの子には悪いことをしたわ。
 わたしは母親として、あの子をシルフカンパニーに連れて行くべきじゃなかった。
 サクラがあの子をレセプションに参加することを提案した時に、厳しく断っておくべきだった」

外の喧噪が、居心地の悪い沈黙を音で満たしてくれる。

「ねえヒナちゃん。どうしてわたしがヒナちゃんに同行するよう、カエデに提案したか、分かるかしら」
「分かりません」

本当は分かっていた。

「ヒナちゃんと再会したとき、ヒナちゃんがポケモンリーグを指標に定めたことは、既にシゲルくんから連絡が入っていたの。
 わたしはヒナちゃんが道を真っ直ぐ進むために、ぶれた時にそれを修正してくれる旅の仲間がいると思った。
 すぐにカエデのことが思い浮かんだわ。あの子は我儘で、自分本位だけど、ある面ではとても現実的なところがあるから……」

カエデはあたしの指標を固定するために同行していた。
カントー発電所の異常を調べようとしたとき、カエデは初め、「面倒だから」という理由それを拒んだ。
あたしが拉致されたピカチュウに固執して立ち止まっているときに、カエデは厳しくも正しい言葉で、ポケモンリーグを目指す旅に導こうとした。
自覚がなかったにせよ、カエデはアヤメおばさんの思惑通りに役割を果たしていた。
つまりは、そういうことだった。

「打算的で、ごめんなさい。
 でも、あの子に広い世界を知ってもらいたかったことと、ヒナちゃんに一緒に苦労を分かち合う旅の道連れが必要だと思ったのは、本心よ」
「あたし、別にアヤメおばさんを責めてなんか……」
「わたしがヒナちゃんに謝らなければならないのは、あの子のことだけじゃないわ。
 あの夜、わたしはヒナちゃんを抱きしめて、サトシくんのところにいくのを止める以外に何もできなかった」
「…………」
「ヒナちゃんを放っておくか、ヒナちゃんの気を失わせるか。
 中途半端に動かず、そのどちらかを選んでいれば……拘置所ではそればかりを考えていたわ」
「…………」
「振り返ってみれば、わたしもカスミも、ヒナちゃんが何も知らないままでいいと思い込んで、安心していたの。
 けど、それは結果的に間違いだったわ。ヒナちゃんの成長に合わせて、少しずつ本当のことを明かしていれば、
 ヒナちゃんの心の傷は、もっと浅くすんだかもしれないのに……」
「…………」
「辛かったでしょう?」

アヤメおばさんの手があたしに触れる。

「ごめんなさいね。本当に、」

我慢の限界だった。

「もう、やめてください」

振り払う。アヤメおばさんは驚きと戸惑いの同居した目であたしを見た。

「あたしはもう……、誰にも謝って欲しくないんです。
 あたしだって、薄々は感じてた。あの人はあたしやお母さんが要らなくなったから、どこかに消えたんじゃないかって……。
 でも諦めきれなくて、お父さんは消えたのには何かきちんとした理由があるんだって、そう思うことで自分を誤魔化していたんです。
 だからあの夜のことは、誰の責任でもないんです。あたしの責任です。
 あたしが甘かったから……いつまでも子供のままだったから」
「ヒナちゃん……」
「あの人のことは、もう、忘れます。
 あたしとあの人は、ただ血が繋がっているだけなんです。
 あの人があたしやお母さんを認めないというなら、そこには何の関係もないんです」

立ち上がって、部屋を後にする。
アヤメおばさんが追いかけてくる気配はなかった。
居場所を探して、どこにもそれがないことに気付く。
エリカさんたちは大広間で話し合っている。
タイチは……。脳裡にカエデの切なげな表情が揺曳する。

あたしはいつか、ゲンガーに瞳術をかけられたエリカさんが眠っていた、母屋から少し離れた庵に行くことにした。
外気はより一層冷たさを増していた。
雨粒に抉られた土の匂いと、濡れた植物の匂いが鼻についた。
だんだん暗くなる空を、降りしきる雨を、大きくなっていく水溜まりを、どれだけの時間眺めていたのだろう。

水が跳ねる音がした。
陽炎のように景色の一部分が揺らいでいた。
目を擦って、何度か瞬きしても"揺らぎ"は消えなかった。
地面には、何かの足跡が続いている。
突然、誰の姿も見えないその"揺らぎ"から声がした。

「カクレオン、"ミラーコート"解除してもええで。
 ドードリオもお疲れ様や。よう走ってくれたな」

手品みたいだった。
何もなかった空間から、ドードリオと、それに乗った白衣の男、そしてその男の髪に掴まったカクレオンが現れる。
ドードリオは三つの頭と六つの眼で絶え間なく周囲を警戒していて、
カクレオンは緑と赤の派手な模様を晒すのが恥ずかしいのか、その男の髪の色に同化していた。
あたしは傘をとって、雨の中を歩き出した。
突然の訪問者に対して、警戒心は無かった。あたしはその男の顔に、少し見覚えがあった。

「あの」
「なんや。おっ、これはラッキーやなあ」

何がラッキーなんだろう。
男の嬉しそうな笑顔に、既視感が強くなる。あたしの頭の中で閃くものがあった。

「あなたはもしかして、マサキ博士ですか?」
「いかにも、ワイはマサキや。そういう君はヒナタちゃんやろ」
「は、はい。その通りですけど、」

どうしてあたしの名前を知ってるんですか?
そう尋ねる前に、マサキ博士は懐から何かを取り出して、

「はい。お届けもんや」
「これは?」
「今の君に一番必要なもんや。もう無くしたら……アカン、で……」

受け取る。瞬間、息が詰まった。邪魔な傘を捨てて、疵だらけのモンスターボールを握りしめる。
幽かな重みは、中にピカチュウが入っていることの、何よりの証明だった。
悴んだ指をスイッチに近づける。

「ぐっ」

マサキ博士が苦しそうな声とともにドードリオから滑り落ちたのは、指に力を加える直前だった。

「マサキ博士!?」
「水差して悪いなあ、ヒナタちゃん……悪いけど、家のもん呼んできてもらえるか……ちょっと無理しすぎたみたいや……」

水溜まりが薄い赤に色を変えていく。
よく見れば、マサキ博士の肩には、深い切り傷が出来ていた。

「大変……すぐに呼んできますっ! 少しだけ、待っててください!」

あたしはピカチュウの入ったボールを胸に抱えて、駆けだした。



夢と現のあいだで、彼女の存在を感じる。
彼女の甘い匂いがする。
彼女の静かな寝息が、安らかな鼓動の音が聞こえる。
眼を開ければ消えてしまうかもしれない。
そこに待っているのは無慈悲な現実かもしれない。
けれど、僕はゆっくりと眼を開けた。

――障子を透かして拡散した冬の陽光は、どこまでも優しくヒナタの寝顔を照らしていた。

亜麻色の髪。
組み合わさった長い睫。
整った目鼻立ち、薄桃色の唇。
あの夜の再会でよく見ることのできなかった、少し成長した主の顔を眺めていると、
喩えようもない幸福感が血に溶けて、体中に巡っていくのを感じた。

「ピカピ……」

ただいま、ヒナタ。
その声が夢の中にいる彼女に届いたのだろうか、ヒナタは僕を、豊かな胸に抱き寄せた。
圧迫感は希薄でも、心で、彼女の温もりを感じることはできる。
僕はこの幸せな朝がもう少し続くことを祈って、眼を閉じた。

瞼の外側で、ヒナタの翠眉が幽かに歪んだことに気付かないまま。
――昨夜。
僕の病室に現れたマサキは、無言で僕をボールに仕舞い、躊躇いのない歩調で病棟を歩き始めた。
この病院は本来人間のためのものであるが、僕がいるのは容態が安定しているものの、先が無い患者ばかりが詰め込まれた病棟だ。
夕食の配給が終わったこの時間帯、廊下に人影は無かった。精々看護婦数人とすれ違った程度で、マサキはエレベータに辿り着いた。
一階はひっそりと静まり帰っていた。
外来の受付時間は終わっていた。最小限に絞られた蛍光灯が震える不気味な音が聞こえた。
嫌な予感がした。

「マサキ博士」

たくさん並んだベンチに坐っていた男が、ゆらりと立ち上がる。
彼は癖のある金髪を弄りながら、僕たちの方は見ずに答えた。

「こんな時間に、どちらへ行かれるおつもりですか?」

マサキはそつなく答えた。

「夜の散歩や」
「冷たい冬の雨の中を?」
「悪いか?」
「いいえ。少々、常識外れだとは思いますがね」
「ま、そういうことやから」

歩き出す。しかし病院の外に踏み出そうとしたとき、

「裏切りを犯した罪はあなたが考えているよりも重い。
 考え直すなら今の内ですよ。
 僕はあなたにはよくしてもらった身ですからね、今回限りなら見て見ぬふりをしてあげてもいい」
「いつからそないなナメた口きくようになってん。
 ワイは君に義理立てしてもらうような覚えは無い」
「お忘れですか……今や僕の権限はあなたよりも高い。
 口の利き方に気をつけるべきは、あなたの方だ」

男の声に怒気が混じり始める。
しかしマサキは挑発をやめなかった。

「君の序列が上がったいうても、それは所詮、あの無法者どもの中での話やろ。
 ポケモンを扱う巧さがすべてやと思てるんやったら、君はまだまだ三流や。
 それにな、」

マサキは最高の蔑みを籠めて、

「君が昇格したそもそもの原因は、前々からシステムに紛れ取ったスパイが排除されたからや。
 君の実力が認められたからやない。
 思い上がりは身を滅ぼすで。箴言やと思ってよう覚えとくことや」

踵を返した。
あの男のそれなりに整っていた顔が今、憎悪で醜く歪んでいることは想像に難くない。

いたずらに怒らせるのは賢い選択だとは思えないな。逃げ切る算段はあるのかい?
ボールの中から尋ねると、マサキは僕とは別のボールを二つ取り出しながら答えた。

「ああいう輩は怒らせて理性飛ばすんが一番や。
 ポケモン使いとしての腕は一流言わんでも二流のもんは持ってる。
 冷静に追われたらまずやられる。
 逃げ切る算段については………」

意味ありげな間の後に、

「運やな」

僕は笑った。マサキも笑った。
二閃。現れたのはドードリオと、僕の知らない緑と赤を基調としたカメレオンを彷彿とさせるポケモンだった。
マサキはドードリオに跨り、そのカメレオンのようなポケモンを頭に乗せた。

「ワイの言うとおりに安全に全力疾走や」

矛盾した指示にドードリオの三つの頭が頷く。

「カクレオン、ちょい辛いかもしれんけど、ワイがええって言うまで、"ミラーコート"でワイらを包んどいてくれるか」

カクレオンと呼ばれたポケモンが、パチパチと瞬きする。
ちゃんと分かっているのだろうか。

「ピカチュウ、気付かんか?」

何がだい?

「今、ワイらの姿は周囲の景色に溶け込んでる。
 簡単に言うたら、ステルス迷彩ってとこや。どや、カッコええやろ」

カッコいいかどうかは疑問として、便利な能力だね。
ただ――続く言葉を、マサキが代弁する。

「見てのとおり、今はえらい雨や。流石に透明になれるワケやないから、どうしても違和感は残る。
 でも、これがワイに打てる最善策や」

マサキは見納めにとタマムシ大学付属病院を振り返り、

「あのアホはワイらが敷地出るまで待っててくれとるみたいや。
 そのプライドの高さが命とりになんのになあ………ほな、いくで」

ドードリオは雨の中に飛び出した。
敷地をあっという間に抜ける。
天候に影響されて、極端に人通りの少ない通りを疾走する。
ドードリオの脚力と旋回力は驚異的だった。
もしかしたら、僕たちは追っ手の影を一度も見ることなくエリカの屋敷にたどり着けるのかもしれない――そんな夢を垣間見られるほどに。

「予想外に早いな。ドードリオ、左や」

キィン、と空気が裂ける音がした。
一刹那遅れて、それまで僕たちがいたところに、細く、深い爪の跡が残る。
雨音に一般人の悲鳴が混じる。
かなり強力な"鎌鼬"だ。
ボールの中から背後を伺えない僕の代わりに、マサキが振り返り、

「ハッサムか。ワイが強化したったポケモンや。
 防水加工された薄羽を加速装置にしとる。なかなかええ使い方してるなあ」

暢気なことを言ってる場合か。

「そやけど、カクレオンは"ミラーコート"の維持で精一杯やし、ドードリオは走るので精一杯や。
 このまま攻撃避けつつ、逃げるしかない……ドードリオ、もう少しスピードあげれへんか?」

苦しそうな鳴き声のあとに、ドードリオがさらに加速する。
"鎌鼬"が道路を削る音が遠くなる。そこで僕とマサキは、この状況でもっとも抱いてはいけない感情を抱いてしまった。
安堵したのだ。

――キィン。

至近距離で、空気が裂ける音がした。
「すまん、ピカチュウ。食らってもうた」

ドードリオの首に掴まっていたマサキの手が、握力を失う。
咄嗟のブレーキも間に合わず、慣性の法則に従って、マサキは道路を転がった。
僕が無事だったのは、その間もマサキが握力を失っていない方の腕で、ボールを庇っていてくれたからだ。
別の方向に転がっていったカクレオンと、行すぎたドードリオが、マサキに寄り添う。
水溜まりに赤いものが混じる。
箇所は分からないが、マサキは確実に怪我をしている。
もう一度ドードリオに跨ることは難しいだろう。
そして、

「また会いましたね、マサキ博士」

それを許すほど、システムの精鋭は甘くなかった。
ハッサムの背から降りた男は、濡れて真っ直ぐになった金髪を掻き上げながら、

「夜の散歩は危険がいっぱいだ。どこから"鎌鼬"が飛んでくるか分からない。
 マサキ博士、あなたは僕の諫言に従っておくべきだった」

言葉の端々から、意趣返しが楽しくてたまらないといった感情がにじみ出ている。

「裏切り者には死を。それがシステムの鉄則だ。
 口封じをする方法は他にもあるが、あなたのお喋りな口は封じてもあまり意味がないでしょう。
 苦しませずに殺してあげますよ。
 あなたの無能なポケモンを弄ばないという保障はありませんがね。
 前々から気になっていたんだ。ドードリオの三本の首を順に切断していくと、どこまで残りの頭は意識を保っていられるのか……」
「趣味悪いな。正直引くよ、"おじさん"」

割り込んできたのは、マサキの声でも、金髪の男の声でもない、若い男の声だった。

「一般人か? 邪魔をするな。消え失せろ」
「そう邪険に扱わないでくれよ」

背後から現れた犬のようなポケモンに、青年は言った。

「ドーブル、"スケッチ"だ」
「警告は一度だけだ。"鎌鼬"」

鋭い音がハッサムとドーブルの直線状に響き渡る。
雨粒の軌道は、そのまま二つの"鎌鼬"の軌道を表わしていた。
ハッサム、ドーブル、それぞれの左隣の地面に、溝が生まれる。

「コピーした? 何なんだ、貴様?」
「なんだかんだと聞かれたら――やっぱやめとく。
 俺はしがないディーラーだけど、その博士に興味があるちょっと変わったディーラーなんだ」
「そうか、なら願ったり叶ったりだな、坊や。そいつは今脱走中の身だぜ」

「僥倖だね。それじゃあ、おじさん、俺に博士の身柄を引き渡して貰ってもいいかな?」
「無理だと言ったらどうするつもりだ?」
「力尽くで奪うよ」
「あまり大人を舐めない方がいいぞ、坊や。
 それにこの博士はね――、今から死ぬんだ」

ハッサムが動く気配があった。
しかしハッサムの鋏が"鎌鼬"を発生させるよりも早く、

「"スケッチ"」

ドーブルの"鎌鼬"が、金髪の男を襲う。
金属の板が震えるような音がした。
ハッサムは咄嗟に主の正面に舞い戻り、硬い鋏を盾にしたようだった。

「人を攻撃することに躊躇いがないな。
 坊やだと思っていたが、それなりの覚悟はあるようだ」
「頭悪いね、おじさん。俺は成人してるから、始めっから坊やじゃない」

金髪の男の顔が引き攣る。
その隙をついて、ドードリオはマサキの体を嘴で挟み、背中に担ぎ上げた。
カクレオンもよじ登る。

「逃がすな、ハッサム!」
「俺を忘れてもらっちゃ困るな、おじさん」

背後で金属が震える音が連続する。ドーブルの"鎌鼬"が、ハッサムの妨害に功を奏しているようだった。
やがてそれらの音は小さくなり、エリカの屋敷近くまで来た時には、完全に聞こえなくなっていた。

「くっ……うぅ……」

マサキの呻き声に、ドードリオが足を止めた。
眼が醒めたか、マサキ?

「……ああ……朦朧としてるけど、なんとか保てる」

マサキはドードリオに跨り直しながら、辺りを見渡した。

「それより……、あのアホは、どこ行ったんや? 姿が見えへんけど」

割り込んできた若い男に足止めを食らっているよ。
あれは君の仲間だったのかい?

「……いいや。密告を警戒して、今日のことをは誰にも言ってへんかったからな。
 ドードリオ、ワイの怪我のことは気にせんでええ……全速力で屋敷を目指してくれ」

エリカのお屋敷が見えてきた頃には、豪雨は衰え、小雨になっていた。
"ミラーコート"で複数の門番の眼をやり過ごし、広大な庭園に進入する。
流石はこの国で五指に入るお屋敷というべきか、庭は無意味に広く、母屋に辿りつくまでには、相当の距離があった。
マサキはほっと溜息をついて言った。

「……ここまで来たら安心やな。
 カクレオン、"ミラーコート"解除してもええで。
 ドードリオもお疲れ様や。よう走ってくれたな」

ぱしゃ、と水が跳ねる音がした。

「あの」

柔らかくて懐かしいアルトが、僕の耳に届く。
マサキが振り返った先――そこには白い傘から、憂いを帯びた表情でこちらを見つめる、ヒナタの姿があった。